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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第65話「目を開けたら、すぐ目の前に、ヒトデがいてね」

 水泳の授業のあとの、けだるい熱と水のにおいが背中にのしかかって、新城(あらしろ)芙美(ふみ)は大きくあくびをした。これからまだ午後の授業が残っていると思うと、憂鬱になる。プールから教室に戻る足取りも重たい。

「芙美さん、ちょっといい?」
「……ん?」

 なかば眠りに落ちそうになっていた芙美は、声をかけられて、半目で振り返った。

「あ、ごめん」

 芙美の後ろにいた八嶋(やしま)(たえ)は、芙美の目つきに怖じ気づいたように身を引いた。そのままにしたら逃げられてしまいそうな気がして、芙美はあわてて首を振る。

「ああ、怒ってないよ。ただ眠たいだけ」
「そ、そう? ならいいけど」

 芙美の言葉にも、まだ妙は警戒をゆるめない。現に、目線が左右に揺れている。そんなに恐い顔をしているだろうか、と、芙美は頬に手を触れてみると、じんわりと体に残る熱が、手のひらに伝わった。

「ところで、何?」
「ああ、えっと……さっき、偶然、見ちゃったんだけど」

 妙が視線を動かして、芙美の背中を見た。
 それで、芙美は彼女の言いたいことを察する。そして、彼女が何を身構えているのかも見当がついた。

「背中のあれ?」
「……う、うん」
「やっぱり。大丈夫だよ、そんな気にしないで」
「そう、なの?」
「子どものころのだから。ちょっと怪我して」

 芙美の背中の右側、脇の下あたりから肋骨に沿って背骨のそばまで、うっすら赤いアザが広がっている。ふだんは見えるような位置ではないし、わざわざ肌を出すような服を着ることもすくないから、気づかれることは稀だ。
 そもそも、芙美の肌にそこまで注目する人なんて、めったにいない。
 だから体育の授業の着替えで肌を見せるときも意識はしないし、むしろ忘れているときの方が多いくらいだ。
 あらためて指摘されたのは、何年ぶりだろう。

「でも、よく気づいたね。そんなに目立ってないでしょう?」
「うん……たまたま」

 妙は、口ごもるようにつぶやく。彼女の口調は、やはり他の人たちの耳を気にしているみたいに低い。芙美の横顔を見つめる妙の目線も、表情を気にしている、というより、芙美の背中から目をそらそうとしている雰囲気があった。

「なんだか意外だったから。芙美さん、そんなに大きな傷とか作る印象じゃないし」
「ちいさなころは、わりとやんちゃだったからね」
「そうなんだ? それこそ想像つかない」

 目をしばたたき、まじまじと芙美を見つめる妙。

「芙美さんて、どう見ても……インドアでしょう?」
「それは妙さんもだよ」

 長い黒髪で色白のふたりが、目を見交わして肩をすくめる。芙美は、妙の髪の奥に見える白い肌に視線を向け、苦笑した。

「水泳、しんどいよね?」
「髪、いちいちくくるの大変で。この時期だけ切りたい」
「わかる……でも、絶対もったいないよね。ここまで伸ばしたら」

 芙美の言葉に、妙もしみじみとうなずく。

「芙美さんが髪伸ばすきっかけって、何かあった?」
「おぼえてない……ていうか、初等部に入った時はもう長くしてたし、そのままって感じ。妙さんは?」
「私は中等部から。前はすごく短くてさ。でも、うちの妹が初等部に入るときに、髪がお揃いだといやだって言うから」
「妹いるんだ? っていうか、弱いねお姉ちゃん」
「家族もだいたい妹の味方だし、私だけ肩身狭いんだよね。年の離れた姉妹って、どうしても」

 妙の嘆き節は、しかし芙美の心には実感がわかない。ひとりっ子で、しかも母親には甘やかされて育った自覚のある芙美にしてみれば、家族が味方だと感じられない、という状況はピンとこない。
 どこまで遠くに行っても、いっしょについてきてくれる叶音がいた。家に戻れば誰かがいてくれる、という安心感もあった。
 そういう幼い記憶が、心の底に根付いていて、芙美の意識を形成しているのだと思う。

 プールから校舎まで続く道を、ふたりで並んで歩く。道と言っても、ずらりと並べた緑色の防水マットの上に、簡素な屋根がついているだけのものだ。
 雨の日には水浸しになるため、人によっては校舎で水着に着替えてプールに向かうこともある。翠林の生徒には相応しくない態度だけれど、人目につかないところでは、そんなこともめずらしくない。
 屋根の下を抜けていく風はぬるくて、芙美の足取りはいっそう重たくなる。肌に押しつけられるような風は、疲れた体を縛り付けるみたいだった。

 暑苦しさに耐えかねて、髪をバサリとかき上げる。髪の奥にまとわりついた水のにおいが、つかのま、ひどく濃厚に鼻をくすぐった。その生ぬるい空気は、一瞬だけ通り過ぎて、消える。

「変なこと、思い出した」

 ふいに、妙が口を開いた。彼女もまた、長い髪を持て余すようにかるく左右に揺さぶっていて、その足取りはどことなく居心地が悪そうだった。

「小学校のときさ、家族と海に行ったのね。両親もみんな妹といっしょに波打ち際で遊んでて、私だけパラソルの下で寝てて」
「それは変な日焼けするパターン?」

「たぶん、あれ、夢だとは思うんだけど……目を開けたら、すぐ目の前に、ヒトデがいてね」

「ヒトデって、あの星形の?」
「そう。しかもすごくでかくて、たぶん大人のひとくらいはあった。それが、こう、下のとこを足にして、ぬぼーっと立ってて」

 芙美の頭の中には、出来損ないのゆるキャラみたいな、星形の着ぐるみが突っ立っている姿が思い浮かぶ。リアルなヒトデを想像するのは、さすがに難しかった。

「これ何、って思って、でも声も出ないっていうか、呆然としちゃって」
「で、どうしたの?」
「どう、ってこともなく、ただどっか行っちゃったんだけど、ヒトデ」
「……海に帰ったとかじゃなくて?」
「いや、なんか、隣のパラソルの方に移動してた。こう、ふつうに歩いて」
「歩いてたか……」

 人間大のヒトデとなれば、たぶん足を引きずるぐらいの挙動だったことだろう。それか、足が砂に取られないように、よほど気合いを入れて足を上下させたに違いない。砂の上に残した足跡は、タイヤでも引きずっていったみたいに歪んでいるだろう。
 なるほど、夢の光景でしかありえそうにない。

 かすかな声で、妙が笑う。それは、真夏の昼日中、じりじりとした熱に焼かれた地面が鈍く唸るような、おかしな笑い声だった。

「何でこの話したんだろ? 絶対誰も信じないのに」
「でも、ちょっと面白かったよ」
「そう?」
「まあ、他の人には話せないけど」
「だよねえ」

 校舎に戻ると、廊下のひんやりした空気が肌を撫でた。ふたりのいままでの言葉も、夢の話も、ひょっとしたら芙美の背中のアザさえも、幻だったような気がしてくる。
 芙美は長い髪を、もう一度だけかき上げた。うなじを冷めた空気が通り過ぎて、すこしだけ目が覚めた。
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