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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第59話「玉突きされたような気でいたんですよ」

「ごきげんよう……あら、今日は弥生さんだけですか?」

 定規で測ったような挙措で頭を下げながら、芳野(よしの)つづみは教室に足を踏み入れた。がらんとした室内には、内海(うつみ)弥生(やよい)が雑巾で窓の桟を拭いているかすかな物音だけが響いている。
 弥生は、つづみの声が聞こえなかったかのように、ずっと手を左右に動かし続けている。窓の外に目を向けたままの彼女の後ろ姿が、つづみには、機械仕掛けの自動人形のように見えた。博物館に飾られているような、精密な構造によって単純な作業を行う、古い人形。

「弥生さん?」
「……え?」

 つづみの呼びかけに、ようやく弥生の意識が戻ってきたようだった。なかばぼんやりした様子で振り返った彼女は、扉の前に立っているつづみを見て、目をしばたたかせた。

「ごきげんよう、つづみさん。すみません、気づかなくて」
「いえいえ。今日はおひとり?」
「そうなの。千鳥(ちどり)さんのことだから、どこか遠くまで歩いて行っちゃったんだと思うんだけど」

 1年撫子組で、いちばん登校が早いのは内海弥生で、その次が初野(はつの)千鳥だ。ふたりは、教室の前に飾られている花の水を替え、教室を清掃し、ぴかぴかになった部屋でクラスメートたちがやって来るのを待っている。
 そこに登校してくるのが、たいてい芳野つづみだった。

「お掃除、手伝いましょうか?」
「ううん、もうだいたい終わっちゃったし」

 つづみの問いにゆるりと首を振って、窓枠をかるく指でなぞる。銀色をしたサッシはつややかに、夏の朝のすがすがしい光を反射して光っている。梅雨の晴れ間、室内の空気はうっすら湿気を帯びて、窓枠もかすかに濡れているように見えた。
 室内を見回すと、なるほど、どこにも汚れは見えない。つづみは目を細めて、視線を弥生のいる窓の向こう、校舎の南側の景色を見やった。

「何か、めずらしいものでもありました?」
「え?」
「外、見てらっしゃったでしょう?」

 教室を横切り、つづみは弥生の横に並ぶ。弥生の背丈では、手の届くのが窓のなかばまでらしく、窓の磨かれた部分とそうでない部分とはくっきり区分けされて見えた。カマボコみたいに山型に磨かれた窓から、つづみは外を見下ろした。
 校門から、生徒たちがこちらへゆっくりと歩いてくる。各々、2、3人のグループを作り、何か言葉を交わし合っているが、その声までは当然聞こえてこない。彼女たちの世界は、この教室からではうかがい知れない。

 と、集団の中にいたひとりの女生徒が、ふいにグループを飛び出して駆け戻っていく。彼女は、校門のそばにいた生徒たちに走り寄って、そちらの集団に加わった。
 それからしばらくして、そのグループからもひとりが抜け出し、別の生徒に声をかけた。ふたり組になった彼女たちと、元いたグループとは、微妙な距離を取って、しかし何事もなかったような歩調で校舎に向かってくる。

「玉突きみたいですね」

 つづみの軽口に、弥生は一瞬きょとんとした。しかしすぐに気づいたようで、口元に手を当てて笑う。

「そうね、なんだか、理科の授業にでも出てきそうな感じだった」
「声が聞こえないと、よけいに非人間的に見えてしまいますね」
「言い方」

 大げさな抑揚のついた声で、弥生が言う。確かに、すこし冷たい表現に聞こえたかもしれない。
 なるほど、これがツッコミというものか、とつづみはなんとなく理解した。

「声が聞こえないから、逆に、想像させられちゃうじゃない」
「そうですね……」

 友達の優先順位、グループでの間柄、そういう微妙な力学が、彼女たちの間で働いているのだろう。そのくらいは、つづみにも見当がつく。
 さっきのほんの一瞬で、彼女たちの間に、ちいさな物語が展開されたのだろう。

 つづみは、窓に指を触れさせる。スマートフォンのタッチパネルのように、窓をかるく撫でてみるが、校庭の景色にはもちろん届かない。ただ、ガラスを指がこする鈍い音がしただけ。
 校門の向こうに広がる街の風景も、つづみの指先など知るよしもなく、動き始めている。朝が動き出そうとしていた。

「私もすこし、玉突きされたような気でいたんですよ」

 ぽつりとこぼれた言葉さえ、あるいは、何か内面の力学の結果だったのかもしれなかった。

「え?」
「中等部のころは、たいてい、わたしが学校に一番乗りでしたから」

 弥生や千鳥が特別なだけで、つづみも学校に来るのはかなり早い。だから、まっさらの教室で、ひとり静謐な気持ちを保ち、登校してくる生徒たちを待つのが、これまでの彼女の日常だった。
 その、冷たくさえある静けさは、礼拝にすら似ているように思えて、つづみは好きだった。

「教室に弥生さんや千鳥さんがいると、すこし……」
「入りづらい?」
「そこまでは言いませんが」

 苦笑して否定したものの、足が遠のくという感覚は、なくもなかった。弥生と千鳥の間柄は、日を追うごとにますます接近しているようにも見えるから、なおのことだ。
 しかし、言いたいことは、そういう話ではない。

「迷う、ような感じですね。ずっと自分の居場所だったのが、ふいに、変わってしまったような気がして」
「ううん……」

 弥生は首をかしげながら、そっと窓の桟に指をかける。

「つづみさんも、いっしょに掃除する? 10分ぐらい早く来れば、私たちといっしょに」
「いえ、そういう話でもなくて」

 弥生の解決案に、しかし、つづみは首を振った。実際、そうしたところで、つづみの中の気持ちはうまく解消できないだろう。
 すでに彼女は、元いた場所から突き出されてしまった。まだ、その余勢で転がっている最中だ。
 そしてなんだか、もう、戻れないような予感もする。ちいさいけれど、確かな変化。

「新しい葡萄酒は、新しい革袋に、ということでしょうか」

「……そんなに大げさな話?」

 聖書から引いた箴言は、ずいぶん弥生には大仰に聞こえたようだった。つづみにとっては、長く慣れ親しんだ言葉で、ちょっとした諺のような感じだ。日常会話で諺を多用する子も、そんなにはいないかもしれないけど。

 廊下から、生徒たちのざわめきが聞こえてくる。そのうち、撫子組の教室にも誰かがやって来るだろう。校舎に人の気配が満ちて、今日が動き出す。
 教室のドアを開けて、誰かが入ってくる。つづみは振り向いて、ほほ笑みを作った。
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