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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第57話「なんか、嘘の記憶みたいに思えてくる」

 じめじめと粘っこい湿気が肌にまとわりつく雨の日は、ただでさえ化粧ののりが悪くて、西園寺(さいおんじ)るなにとっては気持ちのいい日ではない。気圧が下がっているせいか、頭まで痛くなる。
 そういうわけで、不機嫌な西園寺るなは、頭痛をいいことに体育を見学することにした。
 同じクラスの生徒がマットの上をごろごろ転がったり、跳び箱の上にまたがったりしているのを眺めながら、るなは、隣に体育座りしている新城(あらしろ)芙美(ふみ)に話しかけた。

「芙美さんも、気圧が下がると頭痛くなる口?」
「頭は別に……いっつも重たい感じ」

 ひそひそしたるなの問いに、ぼそぼそと芙美は答えてくる。

「じゃ、今日はサボり?」
「違う違う」

 首を横に振る芙美の頭で、湿気をまとった彼女の髪がもさもさと動く。その横顔は、体の奥から湧き上がる腹痛を堪えているように、重苦しい。じんわりと重たく冷たい、その痛みを想像して、るなは自分の腹まで底冷えするような気分になる。
 髪をかき上げ、るなは話題を変える。

「暑ぃね、今日。じっとしてんのに汗垂れてきてたまんないよ」
「私、冷え性なんだよね。夏でも腕とか冷えてきちゃって」
「それ怠いね。もっと血の気増やさないとじゃない? 血行よくするとか」
「肉とかあんま好きじゃないんだよね。身体動かすのもヤだし」
「あー、芙美さんそんな風だわ。動き回ってるイメージないもん」

「実は、ちっちゃいころはお転婆だったんだけど」
「へえ?」

 思わずるなは声を上げてしまい、生徒たちの注意を引いてしまった。視線が芙美とるなに集まる。先生がホイッスルを吹いてよそ見した生徒たちを制し、ついでにるなたちを一瞥して、しっ、とちいさく警告した。首をすくめ、るなと芙美は押し黙る。

 三角座りの膝の間に顔を挟み込んだ芙美は、しばらく無駄口を控えるつもりのようだった。るなも唇を閉ざして、体育館のあちこちで繰り広げられる規則的な運動を、ぼんやりと眺める。
 あらためて、第三者として見守る体育の授業は、なんだか顕微鏡のなかの微生物を見ているみたいだった。
 しばらくは、ふしぎな気分で見守っていたけれど、そのうちるなは眠気を感じてきた。一瞬意識が飛びそうになり、がくん、と首が落ちる。

「大丈夫?」

 半笑いで芙美が声をかけてくる。るなはぱちぱちとまばたきして、眉間に皺を寄せつつ芙美に目をやる。

「さっきの話の続き、してよ。私が眠くならないように」
「さっき、って……ああ」

 芙美はかりかりとこめかみを引っかく。黒髪の間を出たり入ったりする彼女の白い腕は、水銀灯の下でうっすら浮かび上がって見える。

「ちっちゃいころって、ほんとうに子どもの時だよ。幼稚園ぐらい」

 芙美の黒目がちな目線が、ふわりと宙を彷徨う。

「幼稚園のなか、あちこち走り回ったり、遊具から飛び降りたり……そんな感じ。ああ、あと、公園の遊具に潜り込んで寝ちゃったりしてた」
「なるほど」
「で……それに叶音(かのん)さんを何度もつき合わせて、時々泣かせてた」
「お、その話興味ある」

 内藤(ないとう)叶音と新城芙美が、ちいさい頃から親しいという話は聞いたことがあった。しかし、幼稚園のころの話となれば、るなにとってもかなり興味深い。何しろそれは、翠林に入る前ということだから。

「あのころは、私が率先して遊んでて、叶音さんがそれについてくる、って感じだった気がする。叶音さん、ちょくちょく私を止めてたけど、ぜんぜん聞かなかったし。服の袖引っ張られて、ものすごく伸びたの、なんかやけに覚えてるなあ」
「……ぜんぜん想像つかない」
「実は私も。なんか、嘘の記憶みたいに思えてくる」

「で、それがどうして今のありさまに?」
「ありさま、って」

 芙美は苦笑し、目線を体育館の中央へと動かす。そちらでは、生徒たちが相変わらずマットの上を転がり続け、いつ終わるともつかない往復運動を繰り広げていた。

「翠林に入ってから、かな。お行儀よくしろ、って言われるようになって」

 つぶやく芙美の面差しは、何か、百年後から今この瞬間を思い返すみたいな、ひどく大人びた表情だった。
 瞳が、瑪瑙のように、つややかな光を帯びた。

「そしたら、翠林に入ってくる子も、みんなおとなしくって、お辞儀とかちゃんと出来るじゃない? そういうの、ぜんぜんできなくって、すごく恥ずかしくて」
「……分かる」

 るなは”お辞儀とかちゃんと出来る”側の子どもだった。当時は幼稚園にも通わず、隣町の実家で、祖父の雇った家庭教師がつきっきりで礼儀作法など教えてくれたものだった。両親と一緒にこちらに移り住んだのは、翠林の初等部に入学してからだ。
 そんなふうに、外界との接触さえ拒んで作法を磨き上げてきた子どもと、幼稚園に通ってやんちゃしていた子どもとでは、棲む世界がすでに違っている。

 箱庭のような翠林女学院にも、そういう、異文化の接触する瞬間はしばしば起こる。
 そのショックは、きっと、幼い芙美に直撃したのだろう。

「私が途惑ってるうちに、叶音さんの方が翠林に馴染んだのかな。それで、いつの間にか、叶音さんの方が先に行くようになってた」

 ふう、と、芙美はうつむいて、両膝の間にふたたび顔を押し込んだ。黒髪が、彼女の両脚と、顔を、いっぺんに覆い尽くす。

「……変な話した」

 くぐもった声でそう言われた。なんだか、訊いたるなが悪い、みたいな口ぶりに聞こえて、ひどく理不尽なことを言われたように思う。
 悪いとは思わないから、謝りはしない。

「面白かったよ。芙美さんからそんな話聞けるの、なんか嬉しい」

 だから、その代わりに、るなは感謝の言葉を述べた。芙美は無言で、きつく両膝を両腕で抱え込んだ。両脚にべったりとまとわりつく贅肉が、その手に圧されて水飴のように曲がる。
 それからは、ふたりとも、黙ったまま過ごした。芙美はしばらく窮屈な格好でいたけれど、途中で眠ってしまったのか、ふっと腕から力が抜けて、体育館の床にずり落ちていた。

 るなは、それを黙ったまま見つめていた。
 芙美の隣でなら、こんな時間を過ごすのも、悪くない。そんなふうに思えるのが、ちょっと面白い心地だった。
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