挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

56/233

第54話「ここは懺悔室ではない」

 うおおおお、とか、ぬわあああ、とかいう、異様なうなり声が聞こえてきて、阿野(あの)範子(のりこ)は本を閉じた。
 6月の朝、まだ梅雨の訪れには早く、校舎裏の木の下にもからっとした爽快な空気が満ちている。教室よりもずっと、読書に最適な環境なのに、今朝も邪魔が入ってしまった。
 この、翠林女学院高等部の片隅に存在する死角のような一角にも、なぜだか訪問者が後を絶たない。おかげで範子はしばしば読書を中断されて残念な思いになるのだが、ふしぎと、別の場所を探す気にはならなかった。

 ともあれ、うなり声の主はこちらに近づいてくる。その声は、人というより獣のそれのようだ。虎に変身したかつての友人、というのもいささか定番すぎるな、と範子はひとりかぶりを振る。さっきまで読んでいた本にも虎は出ていたが別の奴だ。
 顔を振り向けると、そこには撫子組の級友がいた。

「ごきげんよう、沙智(さち)さん」

 声をかけると、(なつめ)沙智は顔を上げた。自分がどこにいるのかも把握していないような様子で、きょろきょろと辺りを見回し、それからじっと範子の顔を見つめた。

「……おはよ」

 くだけた挨拶だった。沙智が範子に気安さを感じているというわけでもあるまい。おそらく、翠林に入学する前の慣れが、うっかり出てしまったのに違いなかった。外部生とは思えないほど沙智は翠林に馴染んでいるが、習慣が根っこに染み着くほどではない、ということだ。
 逆に言えば、これまで隠していたボロが出てしまうほど、沙智に余裕がない、とも言える。

「範子さん、何してるの?」
「本を読んでただけ」

 手にした本の背表紙をちらりと沙智に見せる。沙智は興味なさそうに、ふうん、とうなずくだけ。そこに書かれた題名さえ目に入っていないような、心ここにあらず、の様子だった。

「教室、行かないの?」
「ここの方が静かに読めるし。というか、それはこちらの台詞よ」

 範子は本を両手の手のひらに挟み込んで、沙智の方を見つめ返した。

「あなたこそ、こんな何もない場所に、何しにきたの」
「何……」

 沙智は範子の顔を見、頭上の枝葉を見上げ、薄汚れた外壁を見やり、フェンスの向こうに広がるプールに目を向ける。
 もうじきプール開きで、そうなれば水泳部の早朝活動が始まる。ここも、今までほど静寂を保てるようにはならないだろう。塩素の溶けた水のにおいが、もう漂いだしているように、範子は錯覚する。

「何、ってわけではないんだけど」

 沙智の目は、ぽかんと、範子の頭のすこし上に向けられていた。そこに何がある、というのではなく、ただ、視線の置き所にさえ困っている、という様子だった。

「ただ、教室に入りづらくて」
「そう」
「……何も訊かないの?」
「そういう気持ちに、複雑な事情はいらないでしょう。それに、詮索されても困るだろうし」

 根掘り葉掘り問いただして、それで満足するような下世話な趣味は範子にはない。本の中の人のことだけでも、何もかも知り尽くすのは手に余る。目の前の生身の人物にまで、深く関わる気はなかった。

 範子は、沙智の様子をうかがう。口を半開きにして、ぼんやりと宙に浮かせた視線をどこにもやれないまま、ただ手足の先だけを落ち着かなげに動かしている。指先はのろのろと絡み合い、革靴のつま先が地面に浅いすり鉢のような穴を掘っている。

「いたかったら、ここにいていいから」
「……迷惑じゃない?」

 首を横に振って、範子はもう一度沙智に本を見せる。

「気にしないで。どうせ、中断されたばかりだし」
「……なんか、ごめん」
「いいの、ほんとうに」
「この間も、私、そうやって失敗して。自分のことばっかりで、人に押しつけて」

 悔恨の色濃い、重たい言葉が始まって、範子は内心でため息をついた。ここは懺悔室ではない。翠林には元々それがきちんと準備されているのだし、加えて近代的なカウンセリングルームまである。告解するなら、そちらに行ってほしい。
 とはいえ、もはや押しとどめても止まるものではなく、沙智の声は泥流のように重たく、しかしゆっくりと、響き続ける。

「言わなくちゃ、って思ったら、たまらなくなって。それで、気持ちを打ち明けたんだけど。それからずっと、向こうは困ってるみたいで。やっぱり迷惑だったかな。言わなきゃよかったかな。って。でも、吐いた言葉はどうもならないから、って、思いながら」

 そこまで言って、沙智は、口を相変わらず半分開けたまま、顔をうつむけた。視線が下に落ちたのが合図だったように、彼女の言葉は途切れた。
 急に静けさが戻ってきて、遠くを走る車の音までが塀を越えて範子の耳に届いてくる。朝のからりとした空気が、すこし湿り気を帯びたように思えた。範子は、きつく本の背を両手で押さえつけた。

 一度読んだ言葉は、繰り返し読むことこそできるけれど、読まなかったことにはできない。
 言葉は、不意に人を殴る。感情のままに、言葉は吐き出される。そしていずれも、取り返しはつかない。言葉が暴力だとはそういう意味だ。

「……ごめんね、めんどくさい話」
「いいの。そういう不意打ちには、慣れてる」

 範子は、言葉が力を持つと知っているから、注意して語る。それでも失敗することはあるけれど。
 そして、人が不意にぶつけてくる硬球のような言葉にも、怒りは覚えない。

 それでも、たまには、ちゃんとした言葉を返したくなる。キャッチボールみたいに。

「相手がちゃんと、沙智さんの言葉を受け止めてくれてたら、きっと応えてくれる」

 沙智のお相手が誰なのか、範子には興味はない。沙智の思いが成就するか、失恋するか、そんなのは分かりっこない。
 ただ範子は、言葉の力がそういうものだと、知っているだけ。
 強い力で投げつけた言葉には、きっと、同じ力の答えがある。

「だから、まあ、震えて待つしかないのでは?」

 その、範子のいささか冷たく響いた言葉に、沙智はびくりと肩を震わせた。つばをのみこんだみたいに、のどがひくっと脈動する。その一瞬だけ、きっと、彼女の呼吸が止まったのではないか、と範子は思う。
 乾いた空気の中に、ぽつん、と取り残されたみたいに、沙智はしばし立ち尽くしていた。夏の陽射しは沙智の後ろから、校舎と塀の合間を縫うように、ほそく降ってきている。彼女の手前で、光と陰の境目が、斜めに引かれている。

 呆然としている沙智を、しばし、範子は見つめた。
 そういう衝撃を受けるのは、おそらく、報いの一種だと思う。撤回しようのない言葉を投げつけた、その応報。
 だから、それ以上、範子が責任を感じる義理もない。

 それで済んだら、安らかに彼女も本を読んでいられるのに。
 泣き出しそうな沙智の目を見て、範子は、口を開いていた。

「……もしもダメだったら、また、ここに泣きにきなよ。泣き言くらいは、聞いてあげるから」

 うまくいく保証なんてしてあげられないし、背中を押すような無責任なこともできない。
 慎重で臆病な範子にできることは、泣いてる子をあやす程度のことだ。

 そんな日がこなければいいな、とは、思うけれど。

「……そうだね」

 沙智は、今朝ここに来てから初めて、ようやく、うっすらと笑った。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ