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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第43話「けれどそういう甘さが、ときどき、痛い」

 その日の聖歌隊のレッスンが終わって、三津間(みつま)百合亜(ゆりあ)は他の生徒と別れ、ひとり、礼拝堂のそばで待っていた。何か、予感がしていた。
 礼拝堂周辺は、ひときわ静かだった。いつもうろついている猫も、今日は姿が見えない。礼拝堂の裏手にはちょっとした花壇があって、学年もクラスも様々な生徒が代わる代わる訪れては世話をしているのだが、今日はそこにも人影はなかった。

 と、そこに、細長い影がさす。じょうろを手にした生徒がひとり、花壇を囲う煉瓦のそばに立って、アジサイの葉に水をかけ始めた。そろそろ夏が近い。じきに、紫色の花が花壇を満たして、礼拝堂をおとなう人々に一時の心の潤いをもたらすだろう。

 百合亜は、その生徒に歩み寄った。振り返って、ちょっと眉をひそめたその生徒に、百合亜は微笑みかける。

「……やっぱり」
「何がよ」

 舟橋(ふなばし)妃春(きはる)は、すこし不愉快そうな顔で百合亜をにらんで、じょうろを持ち上げた。霧になって降り注いでいた水が止まって、じょうろの先から数滴、ぽたぽたと落ちる。

「妃春さんが来てくれるんじゃないか、って思っていたの」
「ああそう。わたしもきっと百合亜さんが待っていると信じていたわ」

 心にもない、という感じで妃春は言って、じょうろを花壇の脇に置く。百合亜は彼女のそばに歩み寄ると、そこにしゃがんで、まだ咲かないアジサイのとがった葉を見つめる。あまり日当たりのいい場所ではないけれど、水を受けたばかりの葉には潤いと活力があふれていて、今すぐにでもつぼみを付け、花を開いてくれそうに見える。
 けれど、そんな、魔法のような出来事は起こらない。花をひとつ付けるための時間は、気が遠くなるほどに長い。

「昨日は、学校さぼってどこに行ってたの?」

 百合亜の横に立って、両手を後ろで手持ちぶさたそうに絡ませながら、妃春が訊ねる。百合亜は振り向いて、妃春を見上げる。百合亜を見下ろす妃春の横目は、射抜くように鋭い。

「さぼってなんてないよ。ただの風邪」
「チクったりしない。わたしにだって、その程度の分別はあるんだから」
「だから……」
「嘘つくようなやましい事情でないんなら、素直にしゃべればいいじゃない。隠すようなこと?」

 妃春の声には、百合亜を追いつめるような響きはなかった。疑問と、疑惑と、かすかな困惑。目の前にいる相手が、ごまかしてやり過ごそうとしている事実を、ただ突き止めようとするだけの問いかけ。

 その実直な厳しさが、百合亜には、とても向き合いにくい。

 思えば妃春はずっとそうだ。自分より高いところにいる目標に向き合うために、ずっと背伸びをしている。ひざを曲げたり、背中を丸めたり、そういう柔さは彼女には似合わないし、彼女もそんなゆるみを自分に許していない。
 そんなだから、クラスでもあまり人と接しないまま、孤高の人と見られている。そうして、どこか彼方に突き抜けていこうとしているみたいだ。
 飛行機雲のように。

「……ちょっと、出かけてただけだよ。山の向こうまで」

 根負けして、百合亜はため息混じりに、そう答えた。

「山の……」
「スケートリンク」

 百合亜がそう付け加えると、いぶかしげだった妃春が愁眉を開いて、うなずいた。

「でも、百合亜さん、中等部の合宿は」
「行ってないよ」

 中等部の冬期合宿は2年生の時で、そのときはふたりは同じクラスだった。とはいえ、百合亜が欠席したことを妃春が覚えているのは、ちょっと驚きだった。
 あのころから、妃春はクラスにはあまり関心がなさそうだった。他の生徒の動向なんて、意識してもいないものと思っていたのだ。
 百合亜は妃春を見上げて、口を開く。すこし、さっきより口が軽くなっているのが自分で分かる。

「子どもの頃は好きだったんだよね、滑るの。小学校あがる前から、おじいさまに何度か連れて行ってもらって」
「ずいぶん贅沢な遊びを覚えたものね」
「わたしには甘々なのよ、おじいさまは」

 声には、かすかに苦いものが混じっている。祖父はまだ健在だし、その愛情を疑ったことはない。たびたびお小遣いだってくれるし、わがままを言えば、どこにだって連れて行ってくれるだろう。
 けれどそういう甘さが、ときどき、痛い。

「……だけど、やめちゃったの。小学1年生で」
「どうして」
「わたしが何度やってもできなかったジャンプ。お姉ちゃんが、一度で跳んだの。それまで、スケート靴なんて一度も履いたことないくらいだったのに」

 その瞬間のことを、百合亜は今もまざまざと思い出せる。
 3つ上の長女は、百合亜よりずっと背が高いけれど、細くて可憐で、だからあまり運動のできるイメージではなかった。実際、体を動かすことがそこまで得意ではなさそうで、スケート場にだって妹のお世話のために来たようなものだった。
 彼女がリンクに立ったのは祖父の提案だった。姉はどこかためらいがちに、シューズを履いて滑り出した。

 そして、姉はくるりと、氷上を舞った。

 姉が自分より優れていたことがショックだったのではない。追い越された、とさえ思わなかった。シングルループなんて、がんばればすぐ跳べるようになる。しかるべき努力があればルッツやアクセル、2回転だって手が届く。
 そういう、百合亜の幼い反抗心を無にしたのは、空中を回転する姉の姿だった。
 一秒にも満たないそのジャンプは、高くて軽くてまっすぐで、あまりにも、美しかった。

 強さや才能には追いつけても、美しさには追いつけない。
 幼心に、百合亜は、それを知った。

「プロを目指すとか、そういうのじゃなくてもさ。そういう風に、負けた、って思っちゃったら、力が抜けちゃう」

 しゃがみ込んだまま、百合亜は、妃春から顔をそむけて目を伏せた。

「自分に何ができるか、よりも先に、何ができないか、が分かっちゃったら、ね」

 その認識は、時間をかけて百合亜の胸をむしばんだのだと思う。自分の努力の成果を、姉が、あるいは別の誰かが無遠慮に塗り替えてしまう、恐怖。自分の成功よりも、いつだって、他の誰かの成功がその上にあるような、不安。

 いつしか百合亜は、物事に熱中することをやめた。
 肉食の、本能に突き動かされる獣であることをやめ、生きるのをさぼりがちな野良猫になった。

 妃春が、長い吐息をついた。
 百合亜は、誘われるように見上げる。百合亜の長い告白を聞いても、妃春はいささかも表情を変えないで、まっすぐに立っていた。制服のスカートに、隠れるか隠れないかぎりぎりの、彼女の膝がぴんとのばされている。ひかがみの薄い皮膚が、触れれば裂けてしまいそうな微妙な均衡を保って、妃春を支えていた。

 百合亜を横目で見下ろし、妃春は口を開いた。

「聞いて損したわ。そんなつまらない愚痴」
「……ごめんね」
「それでも百合亜さん、行ったんでしょう? 学校を休んでまで。この時期じゃ、滑れもしないだろうに」

 妃春はあくまで、背筋をまっすぐにしたままだ。彼女の骨格そのものが、他の姿勢を許さない、とでも言わんばかりの、かたくなで硬質なたたずまい。
 こんな格好ばかりしているから、よけいに近寄りがたいのだと、百合亜は思う。隙がなさすぎて、だから機敏すぎて、すれ違っても話しかけるいとまもない。
 彼女は、ずっと高いところを目指していて、いつもそのための最短経路を探している。

「その先、行きたいんでしょう?」

 言い放つ妃春は、美しい。

 だから百合亜は、首を振ってごまかす。

「ただの気まぐれ。わたしは野良猫だから、気の向くままに授業だってさぼっちゃうの」
「……いらいらするわね」
「気が合わないんだよ。きっと、わたしと妃春さんは」

 和解のためや、意気投合のための言葉じゃなかった。
 異なる形に組み上がった心が、かみ合わないことを確かめるための、これは儀式だ。

 花壇を囲うブロックは、風雨に削れている。もとは同じ形をしていたはずの大量生産品が、時の流れのなかでおのおのの形に変わっている。それを損傷と呼ぶか、変化と呼ぶか、あるいは成長と見なすかは、人それぞれだ。
 ひとつ、角を大きく削られたブロックがある。この辺をうろつく野良猫に、爪を立てられたのかもしれない。百合亜はそのブロックを、ちょっとだけ指先でなでて、立ち上がった。
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