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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第41話「絵を描けない体勢にいるのは一瞬だって落ち着かない」

 退屈な化学の授業が終わり、生徒たちはぞろぞろと実験室を出て行く。三津間(みつま)百合亜(ゆりあ)も、その流れに、いちばん後ろからついていくつもりだった。

「待って」

 いきなり声をかけられた時、それが、自分に向けられたものだとは気づかなかった。

「もうすこしじっとしてて、百合亜さん。すぐ終わるから」

 名前を呼ばれて、ようやく百合亜は振り返った。その視線の先には、チャイムが鳴り終わっても椅子に腰を下ろしたまま、一心にノートに何かを書き付けている級友の姿がある。

「どうしたの、美礼(みれい)さん」

 百合亜が問うのに、梅宮(うめみや)美礼はひとことも答えず、ずっとノートと向かい合っている。目にも留まらぬ早さで動く彼女の手は、もちろん、黒板を書き写しているわけではない。
 机越しに、反対側からノートをのぞき込む。
 そこに描かれているのが自分だ、と、百合亜はすぐに理解した。
 だからこそ、よけいに、戸惑いを隠せない。

 ノートいっぱいに描かれた百合亜の顔立ちは、実物の五割増し程度に美化されている。あまり手入れしていない髪は、丹念にトリートメントしたようにさらさらで、丸顔もいくぶん細く凜々しさを増している。ついでに胸もちょっと大きい。
 そして、その絵の中の百合亜は、童話の主人公のように、空を飛んでいた。

 宙を舞う百合亜の制服は、風を受けてマントのようにふくらんでいる。スカートまでも大きくはためいているから、ふだんは隠している脚が露わになっていた。太ももの肉付きは、実物よりもいくぶんふくよかに思われる。
 片方の膝を曲げ、もう片方の脚をぴんと伸ばし、目に見えないジャンプ台を蹴った瞬間のような姿。
 彼女は、星空に手を伸ばして、何か遠くにあるものをつかもうとしているように見えた。

 2Bのハイユニで描かれた架空の百合亜は、全身を躍動させて、溌剌としている。
 写真みたいに生々しいけれど、それは決して写真ではあり得ない。
 なぜなら、百合亜本人が、こんな活力にあふれた自分のことを覚えていないのだから。こんな百合亜は、生まれてこの方、そんな瞬間にも存在したことはなかった。

「それ、ほんとうにわたし?」
「今日の百合亜さん」

 美礼はそう言い切ると同時に、しゃっ、と音を立てて最後の線を描ききった。その瞬間を待ち焦がれていたみたいな、力にあふれた筆遣いと、そして、美礼のあるかなきかの笑み。

「……もう、行っていい?」
「あたしもすぐ行くから」

 言うなり、美礼は手早く筆記用具を片付ける。ノートを畳もうとしたところで、彼女はふと手を止めて、透明でまっすぐな瞳を百合亜に向ける。

「持っていく?」
「……いらない」

 ふわりと百合亜が首を横に振ると、美礼は何も言わずにノートを閉じ、立ち上がった。そのままの勢いで歩み出しかけた美礼だったが、彼女は、ちらりと百合亜の様子をうかがって、歩幅を狭めた。
 どうやら、百合亜を待っているらしい。
 どうした心づもりだか分からないが、無視もできない。百合亜は仕方なく、美礼と並んで歩き出した。

 廊下を歩く美礼の手の中には、どこからか取り出したタブレットがある。横目に覗くと、ほぼ真っ白の画面にいくつかのアイコン。どうやら、画像編集ソフトのようだ。
 そういえば、彼女は手描きよりも、スタイラスとタブレットで絵を描いている方が多い。ともすると、授業の時にもタブレットを持ち出しているくらいだ。
 目を見開いたまま、無表情にあたりを見回す様は、いいモチーフを探しているのだろうが、傍から見るとまるで肉食獣のようでもある。すれ違う生徒を、目を向けもせずに避けながら、さっとタブレットに線を走らせる。

 こういう風に物事に熱中できるのが百合亜には不思議だが、あるいはそれも本能の一種なのかもしれない、とも思う。
 ライオンが獲物を求めるのに飽くわけはない。彼女にとっての絵も、同じようなものだろうか。

「あたしにとっては、これが自然なことだから。逆に、絵を描けない体勢にいるのは一瞬だって落ち着かない」

 まるで、百合亜の心を読んだみたいに、美礼はこちらを見もしないでつぶやいた。

「え?」
「そんなに驚かないで? このくらい、あたしにはふつう。いちいち言葉にされなくても、大丈夫」
「……大丈夫、って、何が」
「分かるよ。百合亜さんのことだって」

 気持ちが悪い、とか、不気味、とか、電波、とか、そういう言葉で切り捨てることもできただろう。何も言わなくても気持ちが通じる、なんて、物語かオカルトの言葉遣いだ。
 けれど、美礼の口から発せられると、不思議な説得力がある。

 それは、さっきの一瞬に見せられた、あの絵のせいかもしれなかった。
 本物とは似ても似つかなくて、別人のような躍動を見せているのに、たしかにあれは、三津間百合亜だったのだ。

「私の、何が、分かるの?」

 だから彼女は問うた。
 他に問いかけられる相手はいそうもなかったし、もっとも答えを持っていそうなのが美礼なのだと、そう思い込んだからだ。

 美礼は、喋りすぎた、とでも言いたげに唇を歪ませ、そのまま口を閉ざす。百合亜はとっさに、声を上げる。このまま彼女を逃がしたくはなかった。

「さっきの絵。どうして、あんなふうに描いたの?」

「あれが、今日の百合亜さんだから」

 さっきとよく似た答えに、自分でも信じられないことに、百合亜はすこし苛立った。
 いつだって、日なたの猫のようにおとなしいと言われ続け、実際そのように振る舞ってきた彼女の頭の中に、数年ぶりの熱が生じた。
 百合亜は、顔を美礼の横顔に近づけて、詰め寄る。美礼は、大きく見開いた目で、こちらを見つめ返す。焦点の合っていないような、どこか恐怖を感じさせるその瞳に、百合亜は問いかける。

「それじゃあ分からない。美礼さんは、私をあんなふうに見てるの? だとしたら、いくら褒めそやされてたってその目はぜんぜん――」
「目で見てるものだけ描いてるわけじゃないよ」

 ぴしゃり、と、美礼は言い放つ。その端的な言葉は、すとん、と百合亜の胸に刺さった。
 熱は一瞬で冷めた。頭の中に積み上がっていた感情が、冷え切って、ひび割れて崩れ落ちるような幻影が見えた。
 忘れかけていた自分はほんとうに一瞬で忘れ去られて、百合亜はふたたび落ち着きを取り戻し、美礼から間を取る。そこにいるのは、普段のままの、猫のような百合亜だった。

 元の自分に戻ったはずなのに、胸に刺さった傷が、いやに落ち着かない。

「それが、今日の百合亜さんの、面白いとこ。描きたくなったとこだよ」

 美礼は淡々とつぶやきながら、タブレットの上で指をすべらせ始める。そこには、簡単な丸と四角のデッサンから、魔法みたいに人の形が生まれていく。

 そこから、新しい百合亜がふたたび生まれようとしている。水の底であがき、水面に浮かび上がろうとするみたいな、重みに押し潰されかけて、なおも抗うというような、そんな彼女。
 ちっとも自分に似ていないはずなのに、それはやっぱり百合亜だ。

「猫ってさ。もともとは肉食獣だから、ずっと獰猛なはずなんだよね」

 ちいさくつぶやいて、美礼は、百合亜の口元に、冗談みたいに長い牙を描き加える。その瞬間に百合亜は、昼行灯から、夜行性の獣に姿を変えた。

 廊下を曲がって階段を上る美礼について行き損ねて、百合亜はつまずく。階段のへりに両手をついて、鈍い痛みに顔をしかめた。長く伸びていた爪が、階段の滑り止めラバーに引っかかる。ラバーの表面のぎざぎざは、何かの罠のように、爪に食い込んで、からみつくみたいだった。

 まるで、四足の獣が獲物に襲いかかるみたいに、百合亜は声を上げて、身を起こした。すこし先で振り返った美礼が、しごく楽しそうに、また、あるかなきかの笑みを浮かべる。
美礼は15話以来の登場ですかね。
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