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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第36話「心地よいからこそ、自由にその場を離れる権利がある」

 汚れなき朝の新鮮な空気、山の端から上ったばかりのまばゆい太陽、軽やかに流れ行く風、朝露をそっとたたえた木の葉。
 どれもこれも似合わないな、と、光原(みつはら)青衣(あおい)は校門の前に立って、胸の内でひとりごつ。
 健やかな朝、しかも清らかな乙女の園たる翠林女学園ともなれば、映画の一場面といっても通用するほどすがすがしい。礼拝堂のほうからゴスペルが響き、運動部の朝練の声までが聞こえてくる。

 青衣は、言いしれぬむずがゆさを覚え、古びた校門に背を向けた。
 このまま校舎に入って、朝の空気に同調してしまうのは、負けのような気がした。何と戦っているのか自分でもわからないが、とにかくそういう気分だ。清純を守る高い塀をぐるりと回り込み、まだ車のすくない通りから細い路地に入って、裏門の方へ向かう。ふだん生徒の使わない出入り口だが、別に使うに支障はないはずだ。

 壮麗な校門と比べて、裏の通用門は一回り小さかったが、それでも充分な迫力があった。たぶん、業者の車が出入りしたりする実用性を鑑みての造りだろう。
 通用門から直接校舎に向かうこともできたが、あえて青衣は回り道することにした。塀沿いに裏庭をぐるりと、礼拝堂の反対側、プールと体育倉庫のあるほうに歩いていく。まだ春先だから水泳部の朝練もなく、プール周辺は静かだった。塀の角、奥まったところにすっぽりはまりこむように、背の高いプラタナスの木が生えている。もともと校舎の陰になっている一帯だが、葉群の下はいっそう薄暗くて、青衣はなんとなく落ち着くような気がして、そこで一息つこうとプラタナスの幹に歩み寄る。

「ごきげんよう」

 と、プラタナスと塀のわずかな隙間から、ぬっと一人の女生徒が顔を出した。青衣はびくっとしつつ、しかし声をあげたりはしない。まだ朝も早くて、叫ぶだけのエネルギーなんて湧いてこなかった。
 しかも、よく見れば知った顔だ。失礼な悲鳴を上げなくてよかった、と思いつつ、青衣はぺこりと頭を下げる。

「ごきげんよう、範子(のりこ)さん」

 青衣のあいさつに、阿野(あの)範子はちいさくうなずくだけのお辞儀を返した。

 お互い、つかのま、黙り込む。同じクラスになったのは今年が初めてで、しかもまだ5月とあって、気心の知れた間柄とは言い難い。会話のとば口をつかみかねて、そのままきびすを返そうかと思った青衣だが、そもそもこの状況自体がいささか特殊だと気づいた。

「こんなところで読書?」

 範子の手の中には、シックな色のブックカバーに包まれた文庫本がある。その本に視線を落としかけていた範子は、青衣の問いにふたたび目を上げた。

「意外と捗る」
「教室ではだめなの?」
「悪くはない。でも、朝はあまりよくないわ。行けばわかる」

 範子の迂遠な言葉に、はあ、と青衣は首をかしげる。

「青衣さん、朝こんなに早かった?」

 今度は範子が質問してきた。

「いつもはもっと遅いの。今日はたまたま、早く目が覚めただけ。なんだか、落ち着かないわ」
「そういう感じだものね。いつも、顔色よくないし」

 単刀直入に言われて、青衣も返す言葉はなかった。たしかに、いつも顔は青白いし、血圧は低くて、運動も苦手だ。健康や早起きなどという言葉とは、縁遠い生活を送ってきた。
 幼い頃は、物静かだとかおとなしいだとか、そういう言葉ですまされてきた。しかし、高等部1年にもなれば、それで独り立ちできるのか、生活できるのか、と不安がられることも珍しくない。今朝だって、ベランダに舞い込んできた鳥のおかげで早く目が覚めただけだし、朝食のテーブルでも親に不審がられた。不健康は筋金入りだ。
 だからいっそ、この蒼白さを自分のアイデンティティにするみたいに、不吉なゴシックの服をまとうようになった。学校に持ち込む小物も、そういう類のグッズが増えた。

「ところで」

 範子がたんたんと言葉を続ける。

「その、カバンについてる奴。ジェヴォーダンの獣?」
「――よく分かったわね」

 言い当てられて、青衣は目を見張った。カバンの取っ手にぶら下がる、黒くてちいさなキーチェーンを手でなぞる。そうと知らなければ、単なる黒い狼にしか見えないだろう。短い起毛の感触がざわざわと肌にへばりつき、とがった耳が、ごつっと指に引っかかった。

「当てずっぽう。ちょうど、こないだ読んだ本に出てたから」
「私も、たまたまよ。前に聴いたバンドのグッズ」
「音楽なんか聴くの」

 まばたきした範子は、今朝初めて、青衣の顔をちゃんと見つめた。すると自然、青衣も範子の顔とまともに向き合う。真横にぴっちり切りそろえられた前髪の下、太い眉毛を覆い隠すような大きな眼鏡の奥で、意外に睫毛の長い目がのぞく。
 朝の空気の中、まっすぐ肩に滑り落ちるような範子の髪は、きらきらと輝いて見えた。
 青衣が好きなバンドの名前を二つ三つあげると、範子はすこし首をかしげた。

「メタル、ってやつ?」
「デスメタルよ」

 (りん)(たえ)に対しても譲らないその一線を、青衣はあくまで主張する。青衣も、友人たちと同じに惚けた顔を返してきた。

「違いがよく分からない」
「いろいろあるの」

 長々説明したって分かってくれないだろう、と、青衣は言い捨てる。

「そうね」

 こくり、と、範子はあっさりうなずいた。手にした本をちょっと持ち上げて、ブックカバーの背を見せるようにする。栞代わりの紐が、ぷらぷらと揺れていた。

「私がいま読んでる本も、きっと説明したって分からないものね」
「ブンガク的なの?」
「マジックリアリズム」

 さわりくらいは分かるかと思ったが、範子の返してきたのは青衣のまったく知らない単語だった。

「いろいろあるの」
「……みたいね」

 うなずきながら、しかし、拒まれたような厭らしさはない。むしろ、この場にいっしょにいるのを認められたみたいな、安堵感を覚えた。
 風が吹いて、プラタナスの葉が揺れる。いたずらのように射してきた日の光が、青衣の白い肌をつかのま触って、彼女はかすかなまぶしさに顔をしかめた。足元で、湿った雑草もまぶしさに身をよじっているみたいだった。
 陽射しと木陰の境目に青衣は立っている。

「……教室」

 ぽつり、と青衣はつぶやいた。

「先行くね」
「お好きに」

 範子はうなずいて、ふたたび本に目を落とした。あいさつさえなく、余分な言葉はいっさい発しなかったし、名残惜しげな目線や仕草もまったくなく、ただ淡々としていた。

 それが、範子には心地よかった。
 心地よいからこそ、自由にその場を離れる権利がある。

 ぺこり、と頭を下げて、青衣はきびすを返し、校舎の表側へと向かった。プールのそばの土はやけに湿って、足にへばりついてくるみたいだったが、かまわず歩み抜けていく。すこしずつ登校してくる生徒が増えて、玄関のあたりに人の気配がただよってくるみたいに感じられた。翠林の生徒に相応しい、静謐で落ち着いた物腰の醸し出す、安らぎの気配。
 これから、時の止まったような一日が始まる。
 青衣は胸ポケットからイヤホンを引っ張り出して、耳に当てた。誰にも伝わらない響きが、彼女の頭の中でこだまする。
 冷えた頬につかのま、熱の宿ったような気がして、青衣はひとり、微笑した。
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