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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第33話「わけもわからぬ涙が数滴、目尻からこぼれただけ」

「まさか、弥生(やよい)さんの方が遅刻されるとは」
「……面目ない」

 学院に併設された、広い礼拝堂の片隅。月曜恒例の集合礼拝を終えてぞろぞろと出て行く生徒の流れから外れて、内海(うつみ)弥生は、困惑した顔の芳野(よしの)つづみと向かい合っている。
 遅刻については言い訳のしようもなく、頭を下げるしかない。とはいえ、弥生を巻き込む原因を作ったのはつづみの方でもあるので、彼女も何を言えばいいのか迷っている様子だった。

 そもそもの発端は、初野(はつの)千鳥(ちどり)だった。
 礼拝堂に集合して出席を確認した際、千鳥がいないことが分かった。つづみに頼まれ、千鳥と仲のいい弥生が探しに出たのだが、結局、千鳥を見つけられないまま校内をさまよう羽目になり、弥生が礼拝に遅刻してきてしまったのだった。
 当の千鳥はといえば、礼拝の始まる寸前にちゃっかり戻ってきたという。

「どこまで行っていたんです?」
「裏庭とか、教室とか探して……最後には屋上まで」

 生徒たちの喧噪にまぎれてしまいそうな、消え入るような声で弥生はつぶやく。
 千鳥のいそうな場所なら、おおよそ見当がつく。自然物を好み、花にも興味を持ち、高いところの風景を楽しむ。弥生の目星は、間違っていないはずだった。
 そう思いこんだ結果、むきになって迷走し、何の成果も上げられず、それどころか遅刻というペナルティを負ってしまった。

「シスターには、私からも取りなしを頼んでおきますけれども」
「助かる」

 つづみの配慮に、弥生は心から感謝した。こんなことで遅刻の記録を残されてはたまったものではない。
 なにしろ、学校における弥生の唯一の自慢と言えば、遅刻がないことぐらいだ。それどころか、いつも誰よりも早く登校して、花瓶の水を換えたり、拭き掃除をしたりしている。生活態度については、むしろ皆の模範となってもいいくらいだ、と思わなくもない。

 千鳥だって、今朝も、彼女と同じくらいの時間に学校に来ていたのだけれど。

「……あれ」

 ふと気づけば、礼拝堂の中はしんと静まり返っていた。生徒たちはあっという間に教室に戻っていったようで、もはや残されているのはつづみと弥生だけだ。
 千鳥の姿も、そこにはない。

「あの子はほんとマイペースだなあ……」

 自分のせいで、弥生が面倒な目にあったとは思っていないのだろう。実際、彼女自身は遅刻したわけではないし、弥生が探しに行っている、などという情報を聞かされてもいるまい。
 けれど、弥生とつづみがふたりで話しているのに、気づいてもよさそうなものなのに。
 何か察して、弥生に声をかけてくれたってよさそうなものなのに。

 弥生は肩をすくめ、開け放たれた礼拝堂の扉の向こうを眺める。朝日に照らされた前庭の芝のきらめきに、つかのま見入った。緑色の芝の合間を縫って、校舎に続く道はゆるやかな弧を描いている。まるで、それ自体がゆっくりとたわんでいるみたいに見えた。
 深い谷にかけられた吊り橋が、風で揺れるように。

「……弥生さん。聞いていいのかどうか、迷ったのですが」
「何?」

「泣いてらしたのですか?」

 弥生は振り返る。
 つづみは、心配そうにこちらを見ている。今の彼女の態度は、何か、ひどく言葉に迷っているふうだった。いつものつづみは、聖書の言葉の引用なども駆使したよどみない語りが持ち味だ。励ますときも、称えるときも、叱りつけるときも、そうそう言葉に詰まったりしない。

 礼拝堂ではいつも固く引き結ばれているつづみの口元が、いまは、縫い目がほつれたみたいだった。

「泣いてなんかいないよ」

 弥生は、かすかに首を振った。

 ただ、すこし、わけもわからぬ涙が数滴、目尻からこぼれただけ。
 乱暴にこすった跡が、まぶたの下に残っているだけ。
 泣いたうちになんか入らない。泣くわけがない、たかだか千鳥を見つけられなかっただけのことで。
 目の奥に、じわりと沁みているような熱も、すぐに消えるから。

 がらんとした礼拝堂は、陽射しから薄く隔てられているせいか、ひどく冷え冷えとして見える。ステンドグラスが光をなかば遮って、神聖な場所を閉ざしているようだった。最奥にまします救世主の肉体も、苦痛と同時に、寒さを感じてらしただろうか。
 会衆席に集まった人々は、その苦痛に、寒さに、どれほど共感してきたことだろうか。

「……わけもなく悲しいときも」

 つづみが、ぽつりと口を開いた。

「私はきっと信仰によって自分の身を支えます」
「つづみさん、そういうの、私は……」

 弥生は辟易を隠さない。翠林女学院に在籍していれば、信仰への誘いは常に感じられる。強制されたりするわけではないが、カリキュラムに、空気に、ちいさな傾きがいつも意識される。
 その先に向かうことは、人によっては救いになるだろう。けれど、弥生のような一般的な生徒にとっては、とてもじゃないが真に受けられるものではなかった。

 うめく弥生を、つづみは、じっと見つめてきた。その瞳の色は、空気を覆うステンドグラスの色彩に惑わされない、深い黒。

「だけど、祈ったり、心を静めたりするよりも、がむしゃらになるしかないときもある、って思います」

「……つづみさん」

「めちゃくちゃに泣きわめいたり、喉がかれるまで叫んだり、どうしても我慢できなくて当たり散らしたり」

 それは、静謐な芳野つづみの口から発せられたとは思えないくらい、やけっぱちな忠告だった。主は、そんなことをお許しになる、とでも言うのだろうか。
 きょとんと、目を見開いた弥生に、つづみは告げた。

「内緒ですよ」

 天にまします誰かに聞かれては、罰を受けてしまうから。

 唇に指を当て、ふんわりとした笑みを浮かべて、つづみはぎこちなくほほえんだ。それは、きまじめな彼女流の精一杯の悪ふざけ。けれど、そうやって茶化してでもやらないことには、うまく伝わらないアドバイスがあるのだと知っているからこその言葉だった。
 本気の言葉を、まじめなお説教だけで伝えられたのは、2000年前までの話。

「……授業に遅れてしまいます。行きましょう」

 すっ、と音もなく歩き出したつづみは、芝の合間を通るゆるやかな道に踏み出す。それから、よどみない仕草で弥生の方を振り返った。そこにいたのは、1年撫子組の礼拝委員であるつづみだった。

 その後ろ髪を引くように、弥生は呼びかける。

「あのさ。つづみさんは、大切なものをなくしたときって、どうする?」

「大事なものは、すべて天にましまして、永遠です」

 平板な声音でそう言ってから、つづみはこちらを向いて、いたずらっぽく笑う。

「だけど、地上にあるものでも、必死でつかまえておきたかったら、必死で追いかけます。汗だくになっても、泣きそうになっても。たった一頭の羊を一日かけて追いかけた羊飼いみたいに」

「……ありがと。つづみさん、きっと、いいシスターになれるよ」

 弥生は、快晴の空にふと目をやりながら、つぶやいた。

 つづみにそう言ってもらえるのは、何か、赦しのような気がしたのだ。
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