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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第227話「遠くて未来のことは、ちっちゃくて、かるくて、だから粗略に取り扱う」

 文化祭の尾を引いて、いまだに浮ついたような空気の教室にあって、武藤(むとう)貴実(たかみ)はひとり真面目に期末試験の範囲の確認をしていた。教科書のページに付箋をつけて、ざっと眺める。印を引きすぎると、逆に重要な場所が目立たなくなってしまうので、あまり下線などは引かないようにしている。
 とはいえ、全部覚えてしまえば一緒、という真木(まき)(あゆみ)桂城(かつらぎ)恵理早(えりさ)のような天才肌のやり方は、貴実には向いていない。地道に復習して、反復練習をして、理解して、自分のものにしていくだけ。

 せっかくの短い休み時間に、試験勉強で時間をつぶすのは、自分でも堅苦しすぎると思う。とはいえ、やはり高等部の授業は中等部とはわけが違うし、それだけに不安も多い。念入りに弱点を補強しておかないといけない、と、貴実はすこし焦っていた。

「……あー」

 大きく伸びをして、上半身をぐっと後ろに傾ける。と、椅子の前足が浮き上がって、彼女の体は思いのほか勢いよくのけぞってしまった。
 がたん、と、椅子の背が机に衝突する。

「うわっと」

 あわてて貴実は前に体を戻す。床に戻った椅子の足が派手な音を立て、がたん、と一瞬跳ねた。
 とっさに、貴実は後ろの席を振り返る。

「ごめん美礼(みれい)さん。大丈夫?」

 机に突っ伏していた梅宮(うめみや)美礼は、のそっ、と顔を上げて寝ぼけ眼で貴実を見た。袖が顔に押しつけられた痕が、新手のアイドルのメイクみたいだ。その年季の入り具合からして、前の授業からずっと寝ていたらしかった。
 美礼はくぐもった声で、つぶやいた。

「何が?」
「……そっちはそっちでマイペースねえ」

 貴実とは別の意味で、彼女は教室内の空気など関係ないようだった。何事にも動じないその態度に、貴実はむしろ不安になる。

「試験範囲、ちゃんとわかってる? ていうか、もうじき期末試験なの知ってる?」
「知ってはいる」

 つまり、勉強はしていないということだ。四六時中マンガにかまけている美礼がまじめに勉学に取り組むはずもないし、当然の発言だった。高校生として正しいかどうかは、また別として。

「まあ、せめて赤点ぐらいは避けて……最低でも、試験はちゃんと受けてよね」
「欠席はしてないよ」
「自慢げにいうようなことじゃないわよ」

 半眼をキラリと光らせ、ドヤ顔で言い放った美礼に、貴実はあきれた声で応じる。椅子の背もたれの上に二の腕を載せ、今度はわざとすこし椅子を傾けた。美礼の頭を、上から見下ろす。きれいな丸い頭部が、目の前に見据えるのは、なんだか変な気分だ。

「文化祭終わったし、マンガのほうも区切り、ついたんじゃないの?」
「まあ、ね」

 美礼の新作が載った漫研の部誌は、即完売したらしい。最終日の演劇のほうも評判で、美礼の過去作品を求める人も後を絶たないという。

 しかし、彼女当人はそうした騒ぎには無関心なようだった。一度できあがったものには、あまり執着がないらしい。あるいは、もう次の作品に心が動いているのか。

「この時期くらい、勉強したって損はないよ。追試なんか受けて、よけいに時間とられることになったら、そっちのほうが面倒でしょ?」
「……貴実さんは合理的だね」
「そう? 単なる計算よ」
「その計算が、みんなできないの。目の前のことって、やたら重たく感じるもの。遠くて未来のことは、ちっちゃくて、かるくて、だから粗略に取り扱う」

 訥々とつぶやく美礼のことばは、なかなか哲学的で、貴実はちょっと感心してしまった。薄ぼんやりしているように見えて、ときどき、彼女はすぱっと本質を突いたことを口にする。
 とはいえ、なにせ『天気輪』の作者だ、何も考えていないはずはない。貴実も演劇部の公演は観劇したが、ずばずばと放たれることばは尖った針のように幾度も彼女の心に突き刺さり、見終わった後はしばし呆然としてしまった。うまく呑み込みきれてはいないけれど、とても重要な示唆をもらった気がした。

「でもさ」

 それと、勉強ができるのとは、また別の話なのだ。

「それがわかってるなら、美礼さんもちゃんと計算しなきゃ。目の前の試験を切り抜けなきゃ、もっとめんどくさいことになるよ」
「むー……」

 理詰めで説得しようとすると、美礼はむくれてしまった。意外と、振幅の激しい子だ。
 マンガや絵を描いているときの彼女は、集中して、凛として、何者にも揺り動かされない強度を持っているように見える。だから、その心の底には強い柱が立っていて、決して曲げられたりしないのだ、と思ってしまう。

 でも、そうでないときの彼女は、ただの女子高生だ。頭はいいのに、自分のしたいことしかしなくて、だから思考は鋭くても、勉強には興味がない。
 大人びているかと思えば、ひどく子どもっぽいところもある。均衡の悪い成長をしているのだな、と思う。

「わからないところあったら、ちょっとくらい教えるから」
「いい。その気になって読めばちゃんとわかる」
「だったらいつもその気でいてよ」

 なにもしなくても点の取れる優等生でも、そんな方法でついていくのは限界がある。壁にぶち当たったとき、行き詰まって苦しむのは美礼のほうだ。

 彼女が、こんな他愛ないことで立ち止まって、膝を突いてしまうところなんて、貴実は見たくない。

「一緒に進級できないなんて、やだよ?」

 笑みを浮かべて、メガネをわざとらしく直しながら、貴実は告げた。
 まさかほんとうに美礼が留年するなんて、思ってはいない。それよりも、貴実が心配したのは、別のこと。

 勉学に飽きた美礼が、学校からふわりといなくなってしまうこと。
 彼女ならば、マンガだけ描いて生きていくことだってできるかもしれない。それは、貴実が思うほど現実的ではないかもしれないが、あり得ない可能性ではない。

 それは、名誉かもしれないけれど、ひどく寂しいことだ。

 美礼は、貴実の微笑を、見透かそうとでもするみたいにじっと見つめていた。
 のそり、と彼女は体を起こす。教科書でも取り出すのかと思いきや、美礼は、机からタブレットを取り出して起動、即座にディスプレイに絵を書き始める。
 魔法のように素早い彼女のデッサンが、瞬く間に、画面の上に人の顔を描いていく。

 それは、貴実の顔。笑顔ではない、むしろ泣きそうな、それでいてどこか愛おしげな、彼女。

「ちょ」

 とっさに貴実は手を出しかける。が、もちろん美礼の邪魔なんてできるはずもない。
 その一瞬のためらいの直後、チャイムが鳴る。教室のドアが開いて、国語教師が入ってくる。日直の号令があって、あっという間に貴実の意識は授業のほうに向けられる。

 そのあいだ、ずっと、美礼の操るスタイラスの音が響いていた。
 それは、貴実の心を甘美に、そしていたずらに揺さぶり続けた。
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