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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第203話「忘れないけど、誰にもいわないよ」

 梅宮(うめみや)美礼(みれい)を抱きかかえたときの、両腕にのしかかる耐え難いほどの重みと、体温の低そうな肌と裏腹の熱が、阿野(あの)範子(のりこ)の体の芯にいまだ色濃く残っていた。

 保健室のベッドに横たわった美礼は、なかなか目を覚まさない。いぎたなくうつ伏せになって枕に顔を押しつけた彼女の呼吸が、かすかに漏れ聞こえてくる。先ほどからぴくりとも身じろぎすらしないあたり、きっと深く眠っているに違いない。苦しくないのだろうか、と範子は疑問に思う。

「まったく……」

 天衣無縫というか、無法地帯というか……と、うっかり韻を踏んでしまいそうなことばを思いついたが、口には出さない。たとえひとりごとでも、そういうのは恥ずかしい。
 頬を押さえながら、範子は、恥じらいなどなさそうな梅宮美礼の寝姿を無言で眺める。

 突然、美礼が階段の上から降ってきたとき、範子は一瞬、頭が空白になったのを覚えている。
 わけもわからないまま、範子はとっさに、両腕を広げて美礼の体を受け止めていた。もちろん範子の虚弱な体では劇的な抱擁というわけにいかず、ふたりはいっしょくたになってその場に転んでしまった。それでもなお、美礼は目を覚まさなかった。
 現場の周りにいたクラスメートに付き添われ、範子と美礼は保健室に向かった。範子は肘の擦り傷と右足首のかるい捻挫、美礼は無傷で、ただ眠っているだけだ、ということだった。
 とはいえ、状況が状況だけに、美礼のことも安心はできなかった。なにしろ、階段の真んまん中で眠りに落ちて、そのまま転落したのだから。一歩間違えば大けがの危険もあったし、そんなに寝不足になるような事態はあまり看過できない。

 そうして、自分もけが人でもあることだし、と、範子は美礼が目を覚ますまで保健室で待つことにした。先生は別の仕事で席を外しており、ここには彼女たちふたりきりだ。

「退屈」

 それが範子の本音ではある。単なる移動教室の時間だったから、教科書とノート以外の何も持っていない。薄い重みのない手のひらは、ひどく物足りなくて、範子は両手の親指で付け根をなぞる。こういう事態に備えて、今後はつねに文庫本を制服のポケットにしのばせておくべきか、とも思う。
 むしろ、いままでそうしてこなかったのが、ふしぎなくらいだ。
 本が必要ない程度には、学校に話し相手がいる。それが翠林という学校であって、範子の周辺だった。

 いまが寂しくて、本の世界に逃げ込みたい、というような内向きの思いではない。
 ただ、ときどき乱れる気持ちを、活字の響きでうまく抑えこみたいだけ。

「むー」

 美礼が呻いたと同時に、バネ仕掛けのようにしゃっきりと身を起こす。一瞬、きょろきょろと左右を見回してから、ぐるりと後ろを向き直る。目が合った。

「大丈夫?」
「目はあいてるし、手は動くし、大丈夫みたい。どうしたの私?」
「階段上ってる最中に、いきなり寝落ちしたのよ。徹夜でもしてたの?」
「記憶にない。ずっと描いてた」
「やっぱり寝てないんじゃない?」

 首をかしげている美礼の顔色は、すこし眠ったおかげか赤みを帯びている。とはいえ、どこかうつろそうな瞳の動きも、手入れした様子もない髪も、不健康そうに見えた。
 どうしてそんな無茶を、といいたかったが、範子にそんなことをいう権利も、筋合いもない。寝食を忘れて読書したいときもある。

「文化祭前だし、描いてたらページ数増えるし、加減が効かない……」

 大あくびしながら、美礼は白い天井を見上げる。

「これだから〆切設定されるのはいやなんだよ」
「我慢しなよ、〆切もなしに描けないでしょう」
「何で?」

 きょとんと美礼に見つめられ、範子はあきれてしまう。
 名を知られた文豪だって、〆切を切られて追い立てられないと何文字も書けなかったりするもので、そうして生まれた名作も古典もある。
 そういう人々とは、美礼は違うらしい。感性と欲求の赴くまま、いくらでも生産してしまうほうの人種だ。

 ベッドの上で、すとん、と美礼はあぐらをかいた。ぎゅーっ、と、両手で膝を押さえつけると、スカートの下が見えそうになって、範子は思わず手を前に突き出しつつ目をそらす。

「やめなよ、はしたない」
「いいじゃない、ふたりしかいないんだし」
「だから……」

 ふたりきりだから、よけいに落ち着かないのだ。集団の中に溶け込んでいる限りにおいては、品のなさも、いかがわしさも、空気の読めなさも、笑いで鈍化されて流れ去っていく。そういうごまかしが、通用しない。

 しかも相手が美礼なら、なおのことだ。
 彼女の、寝ぼけていてなお鋭い視線が、範子の弱い部分を見透かしてくる。

「ね、範子さん」
「何」
「描いていい?」

 そう口にしたときには、もう、美礼はタブレットを手にしていた。あんな転落事故の後なのに、ふしぎと、タブレットも彼女も無傷なのだ。何かふしぎなもの、たとえば漫画の神様か何かが、美礼を守ってくれているのかもしれない。

「……前に漫画に出した私は、どうなったのよ」

 椅子の上で、ぎゅっと肩を縮めて、いくぶん意識して背筋を伸ばしながら、範子は問う。脚がわずかに揺れて、がたんと音を立てた。保健室のパイプ椅子は、いくら翠林の高等部の備品であっても、座り心地のいいものではない。
 美礼は、手持ちぶさたそうに、ベッドのシーツをばさりとめくる。ふわりと撓んだシーツがゆっくりとベッドの上に落ちて、広がる。

「あれはあれだから。漫画の中に入っちゃうと、もう別人じゃない」
「……そう」
「それとは別に、いまの範子さん、とどめておきたい」
「どういう風の吹き回しよ」

 ぱん、と、シーツを叩いて、美礼はしれっと笑う。

「頭を打ったせいかもね」
「……打ったの?」
「いや、範子さんのほうが。わたしのこと、受け止めてくれたんでしょう?」

「……寝てたんじゃないの?」

 いぶかしく、範子は眉をひそめる。

「夢かもしれないと思ったけど、それにしては、ずいぶんリアルだったし。そもそも私の夢、いつも続き物なんだよね。10年くらいずっと冒険してる」
「その夢、漫画にしないの?」
「しても面白くないんだよ、なぜか。あれに追いつきたくて漫画描いてるみたいなとこあるし」
「そう……」
「私の夢を描くより、範子さんのほうが面白いよ、いまは」

 お世辞のようなことをいいながら、美礼は範子の答えを待たずに、タブレットの上にスタイラスを滑らせ始める。つまるところ、彼女はこちらの態度など待った試しはないのだ。
 交わらなければ平気だけれど、うっかり接触したらあらがう術もない。

「天才というか、天災というか」

「韻?」

 訊き返されて、範子は、自分の口をふさいだ。そんなつもりじゃなかった。

「忘れて。ぜったい」
「忘れないけど、誰にもいわないよ」

 しれっといわれて、よけいに恥ずかしくなって、範子は顔を覆った。手のひらの中で、自分の頬がひどく熱を帯びているのがわかって、じりじりと焦げつきそうな気分だった。
 こんな瞬間に、こんな他愛もない秘密を作るつもりなんてなかったのに。

 顔を隠していたって、美礼のことだから、勝手に何か仕上げるだろう。範子はそう見込んで、ずっと顔を隠したまま、うつむいていた。
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