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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第196話「大げさなことをいったつもりか知りませんが、山を甘く見ないでください」

 歩きすぎると吐き気すらもよおす、という事実を、津島(つしま)(つぐみ)は初めて知った。

「うぇー……」

 町の北側に広がる山地の真ん中、ハイキングコースの脇にしつらえられた四阿に座り込んで、鶫はペットボトルの水を飲み干した。重たいギターケースはベンチの下にしまいこみ、人気のないベンチに横になる。薄いパーカーの上から高地の冷たい風がしみて、体がふるえる。どちらかというと痩せ形の鶫の体には、寒気がひときわ堪えるのだ。
 気分転換になるかと思ったが、悪いほうに変わるのでは意味がない。鶫はベンチの冷たさを頬に感じながら、ちいさな声でうめく。

「こんな所で会うとは奇遇ですね」

 横合いから聞こえた声に、鶫は視線だけ持ち上げてそちらを見た。
 彼女の頭のほう、ベンチの脇に、大きなリュックを背負った初野(はつの)千鳥(ちどり)がいる。

「ごきげんよう、鶫さん」
「……ごきげんよう」
「何か飲みますか。温かいレモネードと、天然水があります」
「レモネード」
「はい」

 ベンチの脇にしゃがんだ千鳥は、てきぱきとリュックから水筒を取り出し、レモネードをコップに注いだ。湯気と酸っぱい香りの立つ液体が、鶫の目の前に差し出された。
 飛びつきたいくらいの勢いで手を出し、コップを受け取る。手が震えて、ちょっとこぼれた。
 横になったまま、レモネードを口に入れる。ちょうどいい温度が、鶫の体を安心させてくれて、彼女はやっと人心地ついた。

「……ありがと、助かった。千鳥さんは命の恩人」
「大げさなことをいったつもりか知りませんが、山を甘く見ないでください」

 千鳥は鶫からコップを受け取りながら、ベンチの下にちらりと目をやって、めずらしく露骨に顔をしかめた。

「そんな重いもの持ち込んで、上り下りできるつもりでいたのですか」
「……千鳥さんだって」
「私は慣れていますから。鶫さん、山登りの経験はありますか?」
「遠足で、何度か」

 鶫のことばを聞いて、千鳥は、完全にあきれた様子でため息をついた。彼女の息がうっすら白い。そんなに山の気温は下がっているのか、と、鶫は驚く。
 千鳥は、曲げた両膝の上に自分の肘を乗せるようにして、肩を落として鶫を見た。

「それで、どうして山に?」
「……気分? いまいち、乗らなくて」
「よくわかりません」
「演奏がね、なんだか、うまくいかなくて。気分を一新すれば、新しいインスピレーションがわくかな、と」

 文化祭のステージも近づき、軽音部の面々も本気になりつつある。この間は先輩と口論になったくらいで、それ自体は鶫にとってもつらい出来事だったけれど、それだけ音楽に対して真剣でいられる、という状況には喜びを感じていた。
 そして、そうやって真面目になるごとに、自分に物足りなさを感じる日が多くなってくる。
 鶫のパートはベースで、ほかのメンバーに比べればどうしても地味だ。かといって目立つつもりはないし、むしろ、自分の存在がうまく消えるくらいでちょうどいいと思っていた。

 それでも、自己顕示欲と、技巧への欲求がじゃまをする。そして、失敗すれば逆に目立つ。
 単純にうまくなりたい、という要望と、曲自体がもっと別の可能性を持ってるんじゃないか、という欲目が、彼女の心を揺さぶる。

 そういうあれこれが、鶫の心を揺さぶり、気がつけば彼女は長い散歩に出ていた。
 朝から歩き詰めで、携帯食をかんたんに口に入れるだけで、何か目に見えないものを求めて、数時間。
 いつしか、彼女は登山ルートにさしかかっていた。山の見晴らしと空気が、彼女に、大悟をもたらしてはくれないか、と期待していたのかもしれない。

 しかし、結果はこの有様だ。かんたんに手に入るものなどない。

「気持ちはわかりますが、だからといって無茶をしていい理由にはなりませんよ」

 千鳥の抑揚のない口調が、いまは、まるで子どもを諭しているように聞こえた。

「わかってる。反省してる」

 ようやくおなかから不快感が抜けてきて、鶫は答えながら体を起こした。すこしくらっとしたが、どうやら大丈夫そうだ。千鳥はまだすこし不安そうに、眉をひそめる。

「落ち着いたなら、何か食べますか?」
「まだちょっと食欲ないな……それより、レモネード」
「ええ。私も座っていいですか」

 千鳥がそういうので、鶫はさっきまで自分の頭があったあたりを、さっと手で払う。ちょこんと頭を下げた千鳥は、ベンチに腰を下ろし、こちらにレモネードを注いでくれた。それから自分はリュックからちいさなカロリーバーを取り出して、袋を勢いよく開ける。
 もぐ、と、無造作に千鳥はカロリーバーを口に入れた。無表情で栄養分をほおばる彼女の姿は、なんだかちいさな生き物のように見えた。

 かわいらしいけれど、その体力は無尽蔵。

「まるで渡り鳥ね、千鳥さん」
「ダジャレのたぐいですか」

 首をひねる千鳥に、鶫は笑い返す。

「なんだか、どこまでも飛んでいきそうだもの、千鳥さん。ちいさいのに、パワフルだし」
「……ええと」

 珍しく千鳥は困り顔だ。褒められ慣れていなくて、照れているのかな、と、鶫はすこしおかしくなる。
 けれど、千鳥はじっと鶫の顔を見つめて、いう。

「ほんとうに冗談のつもりではなく?」
「何? あたし、そんなに変なこといってる?」

 鶫が首をひねると、千鳥は深々と、さっきよりいっそう重たい嘆息を漏らした。そうしてうつむいたまま、彼女はいくぶん低まった声でいう。

「……渡り鳥は、ツグミ。鳥のツグミのほうです」
「へ?」
「チドリは、せいぜい水辺や浜辺でちょこまか歩くだけの鳥ですよ」

 そういった初野千鳥は、とうとう、こらえきれずに噴き出した。
 それは、津島鶫が初めて見た、千鳥のおかしそうな笑顔だった。

「まじめな顔でおっしゃるんですから、鶫さん。自分こそ渡り鳥の名前なのに、私が、なんて。何の冗談かと」

 クラスではどちらかといえばポーカーフェイスで、あまり笑顔を見せたり、感情を露わにしたりしない千鳥が、いまは背中を震わせて、くすくすといつまでも笑い続けている。波打つ髪が、抑えきれない感情をむき出しにするみたいに、縦にふわふわ揺れていた。背負っていたリュックが、四阿の柱に当たって、とすんと音を立てた。

「……あはは」

 つられて、鶫も笑った。無知な自分のとんちんかんな受け答えも、気まぐれでハイキングコースに乗り込んだ無鉄砲さも、たいしてうまくもないのにバンドの中心ぶっている傲慢さも、何もかもおかしかった。
 眼下に広がる、街の景色は、どこまでも遠くに広がって行くみたいだった。しょせん、吹けば飛ぶような地方都市で、世界はこの先にいくらでも伸び続けているんだろう。
 でも、この街ひとつさえ、鶫の手には大いに余る。

 そういうものらしい。手を伸ばしたって、背伸びしたって、いまの彼女の手の届くことなんて、ほんとうに些少だ。

「はー。今日はあたし、失敗ばっかりだ」
「そういう日もあります」

 ひとしきり笑って、気が済んだみたいに千鳥は眉間をゆるめていた。彼女は勢いよく立ち上がって、ハイキングコースの上方を見上げる。

「私はもうすこし上ります。鶫さん、まだここにいますか?」
「……いや、もう大丈夫。すぐ帰る」
「気をつけてくださいね」

 そういって、千鳥はリュックに手を突っ込むと、カロリーバーを取り出して鶫に渡した。

「これ、お裾分けです」
「ずいぶん即物的だね」

 鶫の茶化しに、千鳥は肩をすくめて答えず、そのまま歩き出した。リュックを背負ってすたすたと歩く風情は、なるほど、浜辺の頼りない鳥のようでもあったけれど、いつ飛び立ってもおかしくない勢いも、彼女の体は宿しているようだった。

 いつか、彼女の曲も書いてみたい。ちいさな体と、大きな翼。ふたつの姿を持つ、鳥のような少女の歌。
 自分だって鳥なのに、と、また千鳥は笑うかもしれないけれど。
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