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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第195話「存在する限りはこの世のものだよ。妖精でも何でも」

 学院のそばの通学路で、津島(つしま)(つぐみ)は、寄り添って歩く老女の姿を見かけた。
 ふくよかな体形で、しわの薄い丸顔の、うりふたつの彼女たちは、親子とも友達ともつかない。片方は眼鏡をかけ、もう片方は長い髪を後ろでまとめている。顔を近づけ、内緒話でもするように言葉を交わしながら、ふたりはほとんど地面に足をすり付けるような歩き方で、わずかずつ歩道を前に進んでいた。
 彼女たちの周囲を、翠林生たちが追い越していく。少女たちの歩く速度も決して速いわけではないが、そこは年齢差が大きい。生徒たちのなかには、老女に礼儀正しく会釈をしていくものもいて、それに、老女たちは穏やかな笑みで応じるのだが、そのときには当の生徒はとっくの昔に前のほうに行ってしまっている。
 ふたりの片方、眼鏡をかけた女性が、困ったふうに首をかしげる。それに対し、もうひとりの女性が相手の耳元で何事か囁きかけて、そして、ふたり同時に笑う。

 彼女たちの周りにだけ、まるで溶けた飴のような、別の時間が流れているかに見えた。

「あまあまだね」

 横合いの細い道から声がして、鶫は振り返った。
 桂城(かつらぎ)恵理早(えりさ)が、路地の入り口近くにしゃがみ込んで、おにぎりを食べている。

「ごきげんよう、恵理早さん。それ朝ごはん?」
「ん」

 ごくん、と口の中のおにぎりを飲み下し、恵理早は下唇に貼りついた海苔の欠片を舌で舐め取る。鶫は、人の流れを避けて、恵理早のそばに歩み寄った。

「それで何が甘いの。おにぎり?」
「さっきのふたり」

 恵理早は通学路の前方に目配せする。ふたりの女性の速度は亀のように遅く、さっきから1メートルも進んでいないぐらいだ。しかし、彼女たちのペースにあっては、たぶんそのくらいがちょうどいいのだろう。
 自らの歩く早さの衰えに、いらだつ老人もいるのかもしれない。けれど、彼女たちは、そういうふうではなさそうだった。

「ふたりだけの世界だね」
「ああ、たしかに」

 彼女たちは自足している。周りの歩調についていけなくとも、かまわない。隣には、息の合う話し相手がいて、お互いのことをほかの何よりも尊重してくれているのだから。
 年老いたふたりの生活は、きっと、それだけで成り立っているのだ。周りをすごい速さで経過していく出来事など、関係なく。

「あたしたちも、年取ったら、あんなふうになるのかな」

 つい、鶫はらしからぬ感慨に耽ってしまう。50年、60年後の自分の姿なんて想像もできないけれど、もしもああいうふうに満足できるのなら、それで幸福なのかもしれない、と思った。
 いまはまだ若くて活力があるから、いくらでも生き急げる。そうできない、ということに、いつか気づくのだろう。それを認められるかどうかが、たぶん分岐点なのだ。

「鶫さん、高校出たらどうする?」

 くしゃん、と、おにぎりの包みを握りつぶしながら、恵理早がいった。

「何、藪から棒に」
「私、大学は外部にしようかと思ってるんだけど」
「へえ」

 納得のほうが感心よりも勝って、鶫は深々とうなずいた。化学が得意で頭のいい恵理早にとっては、文系学部ばかりの翠林の大学部は物足りないのだろう。長く翠林で過ごした浮き世離れの極みのような恵理早だが、実験室にこもる姿はきっとよく似合う。
 あるいは、ほんとうに研究者にでもなってしまうかもしれない。

 恵理早が鶫を見つめ返してくる。その、無感動なような、それでいて力強い瞳は、実は旺盛な好奇心が宿っているのかもしれない。ふだんはものいわぬ物質に向けるそれを、いまは、鶫に向けている。
 唇を閉じて、鶫を見すえる彼女の面差しに、つかのま気圧される。

「あたしは……」

 口を開いて、しかし鶫はそれ以上のことばが出てこない。歌を作ったり、メロディを奏でるときのようには、なめらかに舌が動かない。
 きちんとことばにできるほど、たしかな未来像があるわけではなかった。軽音部の活動にも、学校生活にもそれなりに満足していて、その先のことまでうまく思い描けない。
 これから自分が何になっていくのかなんて、まだ考えるのは早いと思っていた。

 しゃがみ込んで虚空を眺める恵理早を、あらためて見下ろした。茫洋とした彼女のほうが、鶫よりずっと、未来のことが見えているのかもしれない。
 いまこの場所以外のことを、ほかの誰より見つめている。そんな感じがした。

 通学路のざわめきからすこし離れて、ふたりは、黙ったまま朝靄のなかの風景を眺める。木々に囲まれた翠林の敷地周辺は、明け方は白い靄に包まれて、まるでファンタジーの世界に迷い込んだようになる。登校時間になってもその名残は色濃く、あたりの空気は白くけぶったままだ。

 その靄の果てに、あのふたり組の女性の姿が消えていく。

 このまま、この世の果てに旅立っていったとしても、おかしくないように見えた。すこし不敬な想像だけれど、何か、とても深い趣のあるように感じられて、鶫は目を細める。

「妖精だったのかな、あの人たち」

 ぽつり、鶫はつぶやいた。
 恵理早が顔を上げて、目を丸くして、鶫を見つめる。その子どものような視線を受けて、鶫は肩をすくめた。
 ちょっと恥ずかしいことばだったかもしれないが、そんなことで怯んでいたら、音楽はやっていられない。渾身で、心をこめて、楽曲や歌詞をオーディエンスに叩きつけるのが彼女たちのやり方で、そこに照れなんて交えていられない。

 だから、堂々と鶫は訊き返した。

「雰囲気、そんなんじゃなかった? この世のものじゃないような」
「存在する限りはこの世のものだよ。妖精でも何でも」
「……まあ、そうかも」
「この世は、意外に許容範囲が広い」

 そううそぶく恵理早が、この世界の何を知ってるのだろう。鶫はふしぎに思うものの、一方で、なんとなく納得させられる感じもあった。恵理早ならば、鶫やほかのクラスメートに見えない何物を見ていたとしても、納得できるように思える。
 顕微鏡でしか見えない微小な世界も、常人には見えない妖精の世界も。

 すっ、と恵理早はおもむろに立ち上がる。そうすると背の高さはふたりとも同じぐらいで、けれど、恵理早の見はるかす目線は、鶫よりずっと遠くへ届いているようでもあった。
 靄と一緒にたゆたっているような恵理早の体は、急流に載った笹舟のように、悠然と自分の速度を保っている。

 彼女の目がとらえる景色を、鶫も、知りたいと思った。

「ね、恵理早さん」

 ひんやりとした朝の気配のなか、恵理早の醸し出す空気は、どこか寄り添いたくなる温かさだ。鶫はその脇に立って、いう。

「もしも50年ぐらい先に、私と恵理早さんが、いっしょに歩いてたとしたら、どんな感じだろうね」

 恵理早は、一瞬だけ逡巡したらしかった。
 けれど、すぐに目をこちらに向けて、わずかに口元をゆるめ、笑みを形作った。

「わくわく」

 そのことばと同時に、恵理早は歩き出す。その歩幅は、ふだんの悠々自適な彼女の態度からは想像できないほど、速い。いつも他人と違う流れに乗っている彼女の歩調を、いま、鶫は初めて知ったような気がした。

 なるほど、それは、心躍る体験だ。
 鶫は、駆け出すように、恵理早のかたわらを歩き出す。恵理早の長いストライドに、わくわくしながら、ついていく。
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