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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第187話「ああいう空気は、一介の中高生には荷が重いですよ」

 元はといえば、うっかり夜更かしをしてしまった大垣(おおがき)風夏(ふうか)が悪いのだった。
 そのせいで、油断してはいけない午後一の世界史でちょっとうたた寝をしてしまい、それを先生に気づかれて指名され、出された問いにしどろもどろで答えられずにいるのを厳しく叱責され、あげくに長いこと立たされるという仕打ちを受けた。
 さすがに廊下には出されなかったとはいえ、立たされるなんて小学校低学年以来だった。

「へこむ……」
「風夏さん、お疲れでしょう」

 授業が終わってようやく解放され、机に突っ伏した風夏に、芳野(よしの)つづみが声をかけてくる。その手には、三津間(みつま)百合亜(ゆりあ)が常備している水筒のコップがあった。
 顔を上げ、のそのそと風夏はコップを受け取り、ちびちびとすする。熱いわりに喉越しのさわやかな緑茶は、風夏ののどに染みた。

「ありがと」
「あの先生の前で居眠りとは、迂闊でしたね」
「わかってる……油断した」

 空になったコップを机の隅に置いて、ふたたび風夏はべったりと机の上にうつ伏せる。つづみのほうに顔だけ向けて、彼女はふてくされ気味に唇をとがらす。

「前にさ、つづみさん」
「はい?」
「叱る人は、叱るのにもけっこう力を使う、みたいなこといってたじゃない」

 夏休み、たしかいっしょに博覧会に行った日のことだ。あのときも風夏がすっかり消耗してしまって、つづみにだいぶ心配をかけた。
 そのときの会話が、つづみの憂い顔といっしょに思い出される。

「先生みたいに、何かと叱りつけるみたいな仕事って、実際、疲れるのかな」
「きっと疲れるし、落ち込んだりもしますよ。生徒や保護者の見ていないところで」

 つづみはその場にしゃがみ込み、風夏と視線を合わせた。ちょこん、と机のへりに乗せた両手に顎を乗せ、子どもを安心させようとする親みたいな穏やかな微笑を浮かべる。彼女の丸っこくまっすぐな瞳がこちらを見ているのを感じるだけで、風夏は、重たくなっていた心がすこし軽くなるように思った。

「人間ですもの」
「……つづみさん、さ。先生が泣いてるのって見たことある? 卒業式以外で」

 何となくの好奇心で訊ねる。風夏の会ってきた先生というと、たいていは過度に生徒にフレンドリーに接するか、あるいは逆に厳しく事務的な態度の人ばかりだった。ただ、いまにして思うと、そのどちらも生徒に対して一線を引いていて、心の底を見せてくれる人なんていなかったような気がする。
 親しみやすさも、冷たさも、その先に人を踏み込ませない壁だ。

 つづみはすこし考え込むそぶりで、わずかに首をかしげた。

「中等部のときに。ふだんはとてもおだやかな先生だったのですが、一度、教室で盗難騒ぎがあって」
「翠林でもそんなことあるんだね」
「人の集まる場所でトラブルの起きないことなどあり得ません」

 達観したふうにいって、つづみは遠い目をする。

「結局、それは濡れ衣で、クラスメートを陥れるための讒言が原因だったのですが、それを知った先生が激怒しまして」

 そのときのことを思い出したのか、つづみが、きつく眉をひそめた。吐き出しそうなものを我慢しているような表情だった。

「猛烈な勢いで生徒たちを叱りつけたのです。犯人だけでなく、傍観していた私たちにも責任がある、と。そのうちに、先生が泣き出してしまい……その空気に呑まれて、クラス全体が号泣してしまう、という」
「壮絶だね……」
「ええ、壮絶でした。私もだいぶ我慢していたのですが、耐えられずに泣いてしまいましたからね」

 へえ、と風夏はため息のようにつぶやく。超然としたつづみが、クラスの空気に流されて泣いてしまう姿は、意外と想像できない。
 それよりも、気になることがあった。

「そのとき、つづみさんはどうしてたの? 窃盗だとか、冤罪だとかあって、黙ってたわけ?」

 信仰に篤く、不義を許さない彼女が、そんな大事件を前に何もしなかったとは思えない。たとえ同級生が相手でも、容赦なく責め立てたり、真実を突き止めようとしたり、そんなイメージを風夏は思い描いている。
 その風夏の視線に、つづみは微笑で応えた。

「別に、私は正義の味方をやっているわけではありませんから」
「……そう」
「ああいう空気は、一介の中高生には荷が重いですよ」

 首を振るつづみの仕草は、どこか鈍くぎこちない、錆びた歯車のようだった。彼女の両肩にも、まだ当時の呪縛がこびりついているのかもしれなかった。

「……なんかごめん。いやなこと思い出させちゃったね」
「いえ、こちらこそ。慰めに来たのに、私が沈んでしまいました」

 ぽむ、と、手を伸ばしてきたのは、つづみのほうだった。頭をそっと叩かれて、風夏は目を細める。
 間近に、つづみのたおやかな笑みがある。その表情には確かに、危うさや弱みが潜んでいるのを、風夏は知っていた。
 そういう自分を隠さずに見せてくれる程度に、つづみは風夏に心を開いてくれている。

「そういう経験があったから、つづみさんはもっと強くなったのかな」
「強くなったとは思っていないんですが」
「そう?」

 かすかな笑みが口から自然と漏れた。風夏は、つづみの手の上に、そっと自分の手を重ねる。

「あったかいよ、この手のひら」

 笑み混じりの風夏のことばに、つづみの手が一瞬、固くなる。

「……もう」

 はにかむように笑って、つづみはその手を風夏の手の中でくるりとひっくり返した。そうして、風夏の手を受け止めるように、きゅっと握りしめる。
 やわらかくてすべらかで、優しい手が、風夏を受け止めていた。
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