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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第184話「自分じゃないもののことのほうが、真面目になれるんだよね」

 桂城(かつらぎ)恵理早(えりさ)が、窓から上半身を乗り出している。
 階段の踊り場にある小窓だった。恵理早の体は胸の下ぐらいまで外にはみ出して、長い髪がぶらぶらと幽霊のように垂れ下がっていた。両手は窓枠をつかんでいるが、そこから出てこようとしているのか、それとも戻ろうとしているのか、地上からではわからない。むしろ、なんだかそこにいるのに満足してしまっているみたいにも見えた。

「何をしてるんですか」

 悲鳴を上げるでもなく、狼狽するでもなく、初野(はつの)千鳥(ちどり)は半ば呆然とした声で問いかけた。もちろん彼女とて内心は混乱しているのだが、あまりに理解を超えた状況に直面すると、人間、どんな反応をとっていいかわからなくなるものだ。

「逃げてる」

 恵理早の冷静な返答も、たいがい異様だ。彼女がいるのは、2階と3階のあいだぐらいの高さで、落ちたら怪我するおそれも大きい。見るからにひ弱な恵理早となれば、いっそう不安だ。

「何からです?」
「……何だろう。精神の危機?」

 彼女のことばは詩的すぎて、千鳥の思考はさらに置いていかれてしまう。とりあえず理解したことは、こんなところで会話していてもらちがあかない、ということだ。

「とにかく、落ちたら危ないですよ。助けにいきますから、そこで待つか、でなければ自力で助かってください」
「ん~」

 宙ぶらりんになったまま、恵理早はうなずく。当の本人にはまるで危機感がなくて、そういうときはよけいに周囲がやきもきする羽目になるのだ。

 千鳥は小走りに、校舎裏の勝手口から中に飛び込んで、近くの階段を駆け上がる。この程度の運動で息が切れるほど千鳥の肺活量は軟弱ではないが、口からは自然、吐息があふれた。今日はいつもと違うルートをたどって、山裾まで行くつもりだった。高地側の冷えた空気と、以前食べたフロマージュが懐かしくなったからだ。
 しかし、その気分もすっかり消え失せてしまった。

「恵理早さん」

 階段の途中で顔を上げ、窓から飛び出している恵理早のスカートに向けて声を投げかける。だらりと投げ出された両脚からは、前に出る気も戻ってくる気も感じられない。そこでいつまでもぶら下がっていたい、とでも思っているのかもしれなかった。
 しかし、千鳥はまどろっこしいことが嫌いだった。

「ほら、下りてください。抜けないわけじゃないでしょう?」

 背伸びして、両手で恵理早の脇腹をつかむ。この寒くなってきたのに、制服の下はシャツ1枚で、おなかのよじれる感触が両手にじかに伝わってくる。

「ひゃっ」
「暴れないで」

 腰を低くして力をこめると、恵理早の体は意外とすんなりこちらに滑り落ちてきた。とっさに体をひねって、恵理早の体をうっちゃるみたいに床に落とす。どさっ、と、ふたりの体は並んで踊り場に転げた。
 なるべくうまく受け身をとったつもりだったのに、それでも腰の骨にがつんと衝撃が走る。

「痛っ」
「あう」

 甲高い悲鳴を発する千鳥の横で、恵理早は間抜けな声を上げながらごろりと横たわって、頬をべったりと床につけた。結った髪が広がる。
 千鳥は顔をしかめつつ起き上がり、まるで自分のベッドみたいに安らかな顔をしている恵理早を見下ろした。

「大丈夫ですか?」
「ひえひえ……」
「服が汚れますよ」

 猫のように床の冷たさを堪能している恵理早の腕を引っつかんで立たせる。千鳥の腕力では、さすがにちょっと重たかったが、それでもずるずると恵理早は自分で体を起こした。
 その体が、ふいに、ふらりとこちらに倒れ込んでくる。

「おっと」

 恵理早の鎖骨のあたりに、千鳥の顔が当たる。額が首筋にすっとはまり込むような感じになって、一瞬、恵理早の肌の冷たさがおでこに刺さった。恵理早の体重は、体つきよりいっそう重く感じられるのだけれど、たぶんそれは彼女が自分を支える気がないからだ。
 どうして平気で他人に体重を預けられるのか、気が知れない。

「……自分で立って下さいよ。赤ん坊ですか、あなたは」
「んー」

 千鳥が抗議すると、恵理早は何事もなかったように千鳥から離れて立ち上がった。それからきょろきょろとあたりを見回し、ほっとしたようにひと息。ちっとも緊張感のない仕草だったけれど、彼女の目線の鋭さに、強い警戒心が宿っていた。

「よしよし」

「で、結局何だったんですか、これは」

 ひとりで安心した様子の恵理早に、千鳥は冷たい目で訊ねる。

「……うん、その前にごめんね、面倒かけて」

 どうしてその間合いで謝るのだろう、と、千鳥は一瞬困惑する。もちろん何も言わないのは最悪だが、それにしてもタイミングというものがある。恵理早の呼吸に合わせられなくて、千鳥はなんだか、自分が悪いことをしているような気分だった。

「うん、元はといえば……薫子(かおるこ)さんから逃げてきたの」
「薫子さんですか」
「あの子が、私の写真を撮るなんていうから」
「恥ずかしいショットでも狙われたのですか?」
「教室の隅でうずくまってるとこ」

 なぜそんな行動をとっていたのか、と訊いても答えは得られないだろう。桂城恵理早はそういう少女だ。

「いきなりレンズ向けてきたから、慌てて逃げたの。追っかけてはこなかったみたいだけど、恐くて、逃げようって思って」
「写真が嫌いなんですか?」
「そういうわけでもないけど、急に撮られそうになったから、びっくりして」

 それで窓から逃げようというのだから、なんというか、動物みたいな反応だと思う。小鳥をびっくりさせたらカゴから飛び出した、というのと似ている気がした。
 物怖じしないように見えるが、扱いには細心の注意がいる。そして、遠くまで飛べる羽根を持っているから、どこまでも行ってしまう。

 すこし目を離すと、消えてしまいそうで、不安になる。

「放っといて欲しいんだよね」

 髪についたホコリを払って、恵理早はつぶやく。

「私のことを映したり、残したりされるの、落ち着かない。力を抜いているときは、特に」
「いつも脱力している気がしますが、あなたは」
「そうでもないよ。真面目なときは真面目」
「ほんとうに……?」

 つぶやきつつ、千鳥は、化学の授業のときの恵理早を思い出している。実験器具を細心の注意で取り扱い、数ミリリットルの誤差もなく薬品をビーカーに落とす彼女は、何か、すぐれた彫像のような印象だった。
 隙のない所作は、逆に、静止した絵画のように見えるのだとわかった瞬間だった。

「自分じゃないもののことのほうが、真面目になれるんだよね。だから、いつもの私は、わりと不真面目。自分のことしか考えてなくて」

 人のために何かしよう、という態度は、恵理早には似合わないだろう。方程式で理解できる化学を愛好するのも、そういう考え方の結果なのかもしれない。

 ふと、千鳥は、恵理早のことをずいぶん慮っている自分に気づく。放課後を邪魔され、迷惑をかけられ、怒っていたはずなのに。
 怒りを忘れるくらいに、ふしぎと、彼女のことを考えさせられてしまう。逆に、困らされたせいなのかもしれないけれど。
 納得したくて、理解したがっているだけかもしれないけれど。

「……まあ、今後は、気をつけて下さいね。変な所から落ちたりしないように」
「落ちるなら千鳥さんの上に落ちるよ」
「やめて下さい」

 肩をすくめて、千鳥は踊り場から立ち去ろうと歩き出す。
 階段を下りながら、ちらりと恵理早の方を振り返った。
 彼女は、窓の向こうをぼんやり見つめている。うっすらと射し込む夕陽が、彼女のきれいな髪を輝かせ、金色の糸のように見えた。
 その横顔は、表情のない、大理石のような面差し。

 なるほど、薫子がシャッターを切りたくなるのも、理解できる。

「恵理早さん、暇なら、いっしょに帰りますか?」

 ためしに問いかけてみたが、恵理早は聞いていないようだった。当然だろう、と首を振り、千鳥は階段を早足で下りていった。
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