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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第178話「人を巻き込んでまで、するような争いじゃなかったんだよ」

 舟橋(ふなばし)妃春(きはる)の左肘に、三日前から巻かれている包帯のことは、ほとんど誰も知らない。
 昨日の体育はそれを理由に見学したが、ずっとジャージを着ていたから、着替えを見ていた人でなければ気づいていないだろう。冬服は長袖だから、もちろん目立たない。私服の彼女を見かける可能性があるクラスメートは、ごく少数だ。
 医者には行ったが、腱や骨には異常はないし、ただの打ち身と切り傷だから大丈夫、といわれた。実際、痛みがあるのは皮膚の表面だけで、普段の所作にも支障はなかった。
 そういうわけで、妃春は、そのちょっとした怪我のことをほぼ誰にも気取られずに過ごした。

 いちおう養護教諭に見てもらって、外傷も残っていないことを確かめて、包帯を外した。保健室を出たときには、もう彼女はいつもの妃春だった。
 ほの暗い廊下の先は、西日の陰になってひときわ闇が濃い。しかし妃春は何も臆することなく、つかつかと足を踏みならして玄関に向かう。

 その途中、階段から下りてきた、津島(つしま)(つぐみ)とはち合わせた。

「あ」

 鶫は、らしくもなくか細い声でつぶやくと、とっさにきびすを返そうとする。妃春は即座に追った。
 逃げ出そうとしていた左腕を、治ったばかりの右手で鷲掴みにする。

「待ちなさいよ」

 はっとして振り返った鶫は、目を見張った。

「ちょ、腕」
「もともとかすり傷よ。それにもう平気。最初っからあなたに心配されるまでもないわけ」
「……そうなの?」
「そうよ。見たらわかるでしょう?」

 妃春はもともと体力は弱い方で、運動は好きではない。そんな彼女が、鶫の腕を掴んで離さずにいられるのだ。妃春の肘は、健康そのものだった。

「……だったらもういいじゃない。離して」
「そっくりそのまま返すわ。逃げることないでしょう」

 鶫は、さすがに観念したように力を抜いた。妃春が手を離しても、彼女は走り出したりせずに、ゆっくりとこちらに向き直る。
 普段のりりしい面差しと、さほど変わるところのない表情。しかし、その目はどこか頼りなく、宙を泳いでいるみたいだった。鶫にそんな顔をされると、妃春も落ち着かない。

「ほんとにたいしたことなかったんだから。気にしないでよ」
「でも……あたしのせいで、妃春さんの肌に傷を付けちゃったのは事実だし」
「100年前じゃあるまいし、かすり傷ひとつでそこまで騒がないわよ。それに、鶫さんっていうより、軽音部全体の問題よ、あれは」

 3日前、妃春は、軽音部が活動している音楽室を訪れた。下校時間ぎりぎりまで部活をしている生徒の下校を促すためだ。
 しかし間の悪いことに、軽音部のメンバーは言い合いの真っ最中だった。どうやら、文化祭で演奏する曲目や、楽曲と演奏のクオリティに関する意見の対立だったらしい。議論はヒートアップし、一触即発の空気だった。
 そこへのこのこ近づいていった妃春も、空気が読めなかった、という意味では自業自得かもしれない。
 鶫が妃春に気づいて振り返ったとき、彼女と言い争っていた別のメンバーが、勢い余って鶫に接触した。不意をつかれてバランスを崩した鶫は、そのまま、妃春の上に倒れ込んだのだ。
 鶫も、他の軽音部員も無傷。ただ妃春だけが、とばっちりを食って、肘を痛めた。

 妃春の中では、笑い話でしかない間抜けな顛末だ。
 しかし、鶫にとってはずっと、そうではなかったらしい。
 あきれたような妃春の目線の先で、鶫は、肩を縮めている。肩に掛けたギターケースが居心地悪そうで、今にもずり落ちてしまいかねない様子だった。

「謝ろうと、思ってたんだ、ずっと」

 訥々とつぶやく鶫に、妃春は苦笑しか返せない。

「謝らないでよ。そんなおおごとじゃなかったんだし」
「でも、あれから、なんだか軽音部全体ぎくしゃくしちゃって。妃春さんに怪我させたの、先輩も申し訳なさそうで」
「……もともと、あれだけ大声出すくらいギスギスしてたんなら、しょうがないでしょう」
「それとこれとは違うの」

 その瞬間、鶫は決然と首を振った。

「音楽の話なら、そりゃいくらだってぶつかり合うし、本気になる。でも、それはみんなの解決する答えが見えてるからだよ。でも、それで第三者に怪我させたとか、それはもう別の話になっちゃう」
「……そういうものかしらね」
「人を巻き込んでまで、するような争いじゃなかったんだよ」

 嘆息して、鶫は廊下の壁に片手を預け、姿勢を崩した。肩に掛かっていた力がちょっとだけ抜けて、ギターケースは落ち着きどころを取り戻したように安定する。

「だから、謝るなっていわれると、困る。あたしたちの気持ちの行き場がない」
「……それで気が済むなら、聞くけど」

「うん。だから……ごめん」

 深々と頭を下げ、鶫は顔を上げる。いくぶんか気が晴れたように、彼女の表情は明るく見えた。裏庭に面した窓の外は薄暗いけれど、かすかに差し込む西日が鶫の横顔に注いで、頬を赤く染めている。

「よかった。これで、軽音部の話し合いも先に進めそう」

 それで満足ならかまわない。そう思いながら、何か、妃春の胸にはまだ釈然としないものが残ったように感じる。
 微笑する鶫を見つめ、妃春はふと眉をひそめる。

「そういえば、結局あれ、どういう話だったの」
「……それこそ、余所で話すようなことじゃないよ。恥ずかしいし」
「自分は独り合点しておいて、それ?」
「うーん……」

 妃春の皮肉混じりの問いに、さすがに鶫は迷った様子を見せ、頬をかく。一瞬だけ目をそらした彼女は、やがて、おずおずと答えを口にした。

「最初は、ドラムが走りすぎ……テンポが合わない、って話で。言い合ってるうちに、なんかどんどん話が大きくなっちゃって、ひとりで解決しようとしすぎとか、協調性がないとか、とかそんな話になって。
 あたしは、そんなふうに、バンドで個性を殺すのはあんまり好きじゃないから、そういったんだけど、それがなんか大きく取られすぎて、それならひとりで演奏してればいい、みたいなこといわれて」

「……ややこしい話ね」

 つぶやきながら、妃春はじっと、斜め下を向いた鶫のおでこあたりを見つめている。ぼそぼそとした鶫の声の響きは、彼女の演奏するベースに似て、独特のテンポを持って流れていく。

 一事が万事、そんなふうなのかもしれない。ひとりで行動し、ひとりで解決し、ひとりで納得する。
 そこに、妃春の介在する余地なんてなかった。
 要は、鶫のわがままだったのだろうか。

「でも、それは結局、鶫さんが合わせればすむ話だったんじゃない?」
「けど」

 はっと顔を上げて、鶫は厳しく、声を張り上げた。廊下の彼方まで届いて、陰影を揺さぶるような、重い響き。

「それじゃ……あたしたちの作った曲、それ以上ねじ曲げたら、そんなの」

 張りつめた声と、同じくらいに緊張した、鶫の面もち。唇をひきつらせ、のどの奥をひくつかせ、吐き出された声。
 一瞬、鶫はむせた。本来発したくない声を発してしまったみたいに、動揺し、焦り、かすかに涙すら浮かべた。
 けれど、顔を上げた鶫は、どこか、いっそう晴れ晴れとした顔をしていたのだ。

 ひょっとしたら、それは、あの言い合いの中でさえいえなかったことばなのかもしれなかった。
 気の置けない仲間たち、バンドメンバーたちの間にさえ、投げ込めなかったひとこと。

 それは、あるいは、鶫がいつの間にか負っていた胸中の傷の、瘡蓋のようなものだったのかもしれない。

 ほんとうは、最初に傷ついていたのは鶫で、その傷跡がいまようやく、消えてなくなったのだ。

「……あたし」
「ごめんなさい。変なこといわせてしまって」

 妃春は頭を下げた。そうしたほうがいい、と、とっさに思ってのことだ。
 困惑し、きょとんとした鶫は、首をひねる。

「あべこべじゃない?」
「いいの」

 人の傷というのは、おおかた勝手に癒える。痛みがあるうちは、痛みに耐えられなくて、混乱して、他人を巻き込んで大事になる。
 何もかも落ち着いたら、巻き込んだ相手に頭を下げておけばいい。そして、向こうは笑って許せばいい。

「鶫さんの傷に触れたのは、こっちのほうだもの」
「……そう、かな」

 鶫は、半分納得したような、でも、まだ傷跡にかすかな違和感を残したような表情で、眉をひそめる。

「そんなに痛んだ気はしないなあ」
「じゃあ鶫さんが頑丈なのよ。よかったじゃない」
「ほめてなくない?」

 いっそう顔をしかめた鶫の目線から逃げるみたいに、妃春は肩をすくめつつ歩き出す。

「帰ろう、鶫さん。もう下校でしょ?」
「うん……ほんとはもっと練習したいんだけど」
「試験が終わってからにして」

 妃春のことばに、鶫は今日最高の、苦渋に満ちた顔になった。
軽音部の喧嘩の件は、175話にもちらりと出てきました。
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