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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第173話「かも、なんて、留保ばかりすることはないですよ」

 南校舎の最上階の端にある図書館からは、意外と校内の景色は見えない。
 彼方の街並みが暮れなずむ風情も、フェンスの向こうに茂る木々の色合いが変わっていく様子も、それはそれで趣があるもので、だから阿野(あの)範子(のりこ)はそれに満足していた。第一、もちろん、図書館は本を読みにくる場所だから。窓の外に目をやることなんて、めったになかった。

 けれど、いま、範子は図書館のいちばん東側の窓の近くに腰を下ろして、カーテンの隙間から外をのぞいていた。机の上では、棚から適当に取ってきた古いハードカバーが開かれたままだ。きれいにビニールを張られた表紙と、長い時間をかけてすこしずつ消耗する頁、という、図書館の本が持つ独特の風合いは、幼い頃の範子にとって、なんだか魔術的なほどの魅力を持っていた。それが、知識と物語という広い世界に直結する扉である、という感覚が、そうさせたのだろう。
 ぼんやりと置かれた彼女の指の下で、うっすら茶色く焼けた頁が、一枚、また一枚とめくれていく。

「何を見てるのですか?」

 声をかけられ、範子は振り返った。香西(こうざい)(れん)が、ふんわりとした微笑みでこちらを見ていた。これから帰るところなのか、すでに肩に鞄をかけている。

「……別に。恋さんは?」
「先ほどまでちょっと試験勉強を。図書館も、わりとはかどりますね」
「で、何か用事?」

 つっけんどんな範子の口調にも、恋はいささかも物怖じしない。翠林の生徒はたいてい、こういう独特の鈍感さ、あるいは強靱さを持っていて、範子のような同級生がとげとげしいことばを発してきても、びくともしない。

「そろそろ閉館時刻ですので。範子さんも、お帰りになるか、と」
「そうね」

 時間のことはすっかり頭から飛んでいたけれど、さも知っていたような顔つきでうなずいて、範子は立ち上がる。恋はそんな範子の虚勢にも素知らぬ顔で、微笑んでいるばかりだ。

 何となく、並んで図書館を出た。廊下にはぽつぽつと人影が見える。試験前、ということもあるだろうし、そのすぐ後に挙行される文化祭の準備をしたい生徒も、こんな時間まで粘っているらしい。
 1年撫子組は、こういう時にあまり集団で盛り上がらないような性質の生徒が多く、おかげでたいした企画も立っていない。部活に属していない生徒は、文化祭全体をふんわりと過ごしていくのだろう。範子もそのつもりだった。

 しかし、一部の部活は、話が別だ。

「まだ帰らないのは、文化部の方々でしょうか?」

 恋が教室をのぞき込みながらつぶやく。範子も何となく、そちらに目をやる。どこの部活かわからないが、教室の真ん中で顔をつき合わせて何か話し合っている様子だった。ドア越しに見えるその風景は、声が聞こえない分、なんだか遠く感じられた。
 その教室の前を通り過ぎてから、恋がふと範子に目をやる。

「ひょっとして、さっきは体育館を見ていたのですか?」
「……何でそう思うの」
「角度、でしょうかね。何となく、あそこから見えそうな気がしたので」

 小首をかしげ、恋はじっと横目で範子の表情をのぞき込んでくる。口元に浮かぶわずかな笑みは、愉しげでもあり、何か不安げでもあった。

「残念。あそこからじゃ見えないよ」
「つまり見ようとはしていたと」
「……くどいね。そんなに気になる、体育館のこと?」
「ええ。演劇部の練習、いまもやっているはずですもの。範子さんもそれが気になっているのでは?」

 恋の方から、そうやって話題にしてきた。それでも、認めるのが癪で、範子はすこしのあいだ押し黙って、じっと廊下ににじむ自分の影を見つめる。わずかに空いた窓から、夕暮れの涼しい空気と一緒に、外の音が聞こえてくる。

「そういえば、範子さんは、文化祭は何か予定が?」
「……別に」

 じっ、と恋を見上げる。ずっと涼しい顔をしている恋の横顔に、やけに心がささくれる。

「何。退屈で悪い?」
「いえ? 私も騒々しいのは好みではないですから。お祭りのたぐいからは、たいてい距離を置きますね」
「……そう」
「まあ、文化祭は、思いもよらない組み合わせが生じるのを探しに行く楽しみはありますが。ですから、なるべく校内をうろうろして観察するつもりですけれど」
「観察、ねえ」

 教室の片隅から、クラスメイトの様子を見つめている恋の目つきを思い出して、範子は肩をすくめる。お祭りのなかなら、彼女好みの出来事もたくさん見つけられるだろう。
 範子には、それこそ興味のない話だけれど。

「楽しいのを横から見て楽しむのも、お祭りに参加してるのと同じことよね」
「参加しない自由があるのも、お祭りのうちですよ」

 うなずくような仕草で、恋はつぶやく。

「遠くから聞こえるお囃子、好きじゃありませんでした?」
「それはわかる」

 家の中、布団の中で聞く、遠い祭り囃子の響きは、幼心にさえ奇妙な郷愁を誘われたものだ。懐かしい、という感覚は、年齢とも世代とも関係がない、何か独自の感情なのだと思う。
 だから、見当もつかないような過去や、行ったはずもない異世界の小説にさえ、範子は同じ感情を呼び起こされる。

 創作物の奥底には、何か、そういうものがある。
 集合的無意識とかいう類いの言説には眉唾の範子でも、たまに、それを信じたくなる瞬間がある。

「……演劇部の新作、観に行くの?」
薫子(かおるこ)さんが乗り気なのですよね。あのかた、美礼(みれい)さんの漫画のファンですから」

 恋の返事は、苦笑交じりだった。

「ただ、まあ、原作を好きな人といっしょに観に行くのは、なかなか面倒なことになる可能性がありますね」
「……」

 範子には返すことばがない。なんとなれば、範子自身は”面倒な”側だ。実写、アニメ、洋画、いろいろと観に行っては、ひとり文句をつける客だ。自分はターゲットではないのだ、とわかっていても、そうせざるを得ない。

 何をしていても、いつも、そういう気分が澱のように心の底にたまっている気がする。場違いな空間で、ひとり、みんなと違う気持ちを抱いているような。

「でも、観ないで後悔したり、文句いったり、そういうのよりはずっと健全ですよね」
「……そうかもね」
「かも、なんて、留保ばかりすることはないですよ」

 とん、と、ふいに背中を叩かれた。
 はっとして見上げると、恋が、細い目をきらりと光らせて、こちらを見つめた。傾く夕陽が、窓から光を投げかけて、彼女の面差しをうっすらと照らしている。

「誰にも文句を言わせない気迫で、背筋を伸ばしてるときが、いちばんきれいですよ」

 恋の声音は、やわらかく、重く、胸にじんわりと染みる。
 すぐそばで聞く恋の声は、あまりに馴染みなくて、それなのに、ふしぎに懐かしかった。嘘くさいことばにさえ、説得力を持たせられるほどに。

「きれい? 私が?」
「ええ。女の子はみんなきれいです」
「……単語の対象が広くなりすぎると、信憑性がなくなる」
「本気ですのに」

 あっさりといいながら、恋は微笑んだ。その静かな微笑が、本気なのか嘘なのか、範子にはわからなくなる。黄昏のなかの会話は、あいまいに通り過ぎていく。
 でも、範子の背筋はすこしだけ伸びて、廊下の薄暮の景色もいくぶん、明るく見えた。
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