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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第163話「音がそこにある、ってわかっても、形になるには時間がかかるの」

 んー、んー、と、歌とも何ともつかない奇妙な音が聞こえた。拍子も何もない音の長さ、妙に不安になる旋律。
 ドロシー・アンダーソンは足を止めて、かたわらの階段の上をのぞき込む。屋上に通じる階段のドアは閉ざされていて、てっぺんは薄暗く、ものの形も判然としない。ただ、そこに誰かが座り込んでいるのだけは、どうにかわかった。
 その人の声に、聞き覚えがあった。

「鶫さん?」

 津島(つしま)(つぐみ)は、ドロシーの声を聞いて、その珍奇な鼻歌を止めた。そして、盛大なため息をつく。

「……あー。失敗。残念。何でそんな所にいるのよドロシーさん」
「これから部活よ」

 鶫の難癖に、ドロシーはいらっとした声を返した。通りすがりにクラスメートに声をかけただけで糾弾されてはたまらない。

「そっちこそ、何してるの。軽音部は?」
「その前に、ケリつけたかったんだけど」
「だから何?」
「歌をね。見失っちゃったんだ」

 さらっとした声音でいうので、かっこつけた台詞もそれなりに様になっていた。
 鶫は姿勢を変えて、こちらを向いた。階段に両足をぶらぶらと投げ出し、両手を宙にさまよわせながら、彼女はぼんやりと天井を仰ぐ。

「今朝起きたときには、だいたいこの辺にあったんだよ。後はそれを捕まえるだけのはずだったのに、1日終わったら、もうどっかに行っちゃった」
「……つまり、いい曲ができそうだったのにできない、って?」
「有り体にいうとそれ」
「最初からわかりやすくいいなさいよ」
「わかりやすい言葉にするのも、頭使うじゃん。手間じゃない?」

 鶫の言い分は、ドロシーには理解しがたかった。言葉なんて、簡潔にして要点を得ていればたいてい伝わる、というのが彼女の信念だ。いいたいことがはっきりしないか、回りくどければ、わかりにくい。それだけ。
 そういえば、鶫の書いた歌詞は、中心の周りをぐるぐると迂回しているようなもどかしさがあるな、と感じたことがある。意図的にやっているのかと思ったが、それは鶫のもともとの性分なのだろう。

「そんなの、朝のうちに仕上げてしまえばよかったじゃない」
「そういうもんでもないのよ。音がそこにある、ってわかっても、形になるには時間がかかるの。夕方まで待てばいける、って思ったんだけどなあ」

 そこでようやく、鶫はドロシーを見下ろした。産みの苦しみを感じているのであろう彼女の表情は、いつもの飄々とした余裕をいくぶん失っていた。目元が、やけに険しい。
 薄暗がりの中で、彼女の姿は、妖怪のたぐいに似ていた。

「わからない? ドロシーさんも」
「……私のスタンスではないわね」

 自分の書には、その日その時の感情が宿る、というのがドロシーの考えだ。
 ある文字、ある書に何らかの理想形があるとしても、そこに到達するのは人のなせる技ではない。感情や迷いによって、ぶれが生じ、思わぬ変化があるものだ。完全なる無心で書と向き合うことは、ドロシーにはできない。
 だから、理想の形を捕まえられなくとも、それはその日の自分の結論として満足する。それがドロシーのスタンスだ。

 鶫のように、理想の音を捕まえようとして四苦八苦するという感覚は、あまりそぐわない。
 作曲と書道というジャンルの違いもあるだろうし、性格の差もあるだろう。

 いつか、鶫がドロシーの曲を書いたのは、その違いに興味を惹かれたせいかもしれなかった。

「しかしあれね、今の鶫さん、似てるわ」

 ドロシーが、さる有名な童話のキャラクターを出して指摘すると、鶫は首を傾げた。

「そうなの?」
「原作にそういう話があるのよ。できるはずの曲ができなかったり、作曲を邪魔されたり」
「で、どうやったら完成するわけ?」
「まあ、何となくよ」

 ハリウッド映画のように、原因と結果がわかりやすく決まっているような話ではない。繊細な心の動きは、物語や言葉そのものをたどらなければ見つけられないだろう。
 文庫で出ているその本のことをドロシーが紹介すると、鶫は、ふうん、とあいまいにうなずいた。たぶん読まないだろう。

「まあ、がんばって。私はそろそろ行かないと、部活に遅れちゃう」
「うん……」

 鶫をその場において、ドロシーは階段に背を向ける。
 その最後の一瞬、ふと振り返って階段を見上げたときには、鶫の姿は薄暗がりに溶け込んで、消えてしまったように思われた。


 ……部活の帰り、あえて同じ道を通ってみると、鶫はまだそこにいた。階段の一番上、ドアの脇に座り込んで、目線だけを天井に向けていた。
 かすかに、うなるような声だけが聞こえた。

「音符は見つかった?」

 ドロシーが呼ばわると、鶫は首を横に振った。階段の上はいっそう暗く、秋の夕暮れはあっという間に夜に近づいていて、鶫は黄昏の闇に潜む妖怪にいっそう近づいているみたいだった。

「もう帰りましょうよ。そのうち妃春さんに追い出されるわよ」
「ん……」

 応える声も、もはや人だか獣だかわからないようになっていた。

「もう」

 ドロシーは意を決し、階段を勢いよく駆け上がった。一段登るたび、夕暮れの奥にうずくまっていた鶫の姿が、鮮明になる。

 そこにいたのは、綺麗な両目をぼんやりと宙に向け、すらりとした両腕を、体を抱え込むのにだけ使っている、不安げで危うげな少女だった。

 ドロシーは、その少女の手をつかんだ。ベーシストの指は、繊細なのに、力強さを秘めて、ぐっとドロシーの手に抵抗する。
 かまわず、彼女は鶫の腕を引っ張り上げた。

「帰るわよ。こんなとこにいたって、音楽なんて見つかりっこない」
「……そうかな」
「段取りってものがあるのよ、物事には」

 つかつかと階段を駆け下り、鶫を教室まで引きずっていく。
 夕暮れの教室は空っぽだった。ドロシーは、自分の鞄と鶫の荷物をいっぺんに背中にしょった。鶫の愛用するベースは重たかったが、かまいやしなかった。

「行くわ」
「どこへ?」
「おやつよ。それとも早めに晩ご飯にする?」

 ドロシーは鶫の顔を見据えて、言い放った。

「私とあなたのスタンスは全然違うけど、それでも、わかることがひとつある。おなかが減ってるときにはいい仕事はできないのよ」

 鶫は沈黙した。
 その間、ドロシーのなすがまま、廊下を引きずられ、階段をよたよたと頼りなく降り、玄関口までようようたどり着く、という有様だった。ドロシーも何も言わず、ただ、どの店に鶫を連れ込むか、ということだけ考えていた。

 下駄箱を、激しく開ける。ドロシーは自分の靴を放り出した。
 そこでようやく、鶫の方を向いた。ぽかんとした彼女に、問いをひとつ。

「何? お靴も履けない?」

「……あは」

 鶫の口からこぼれたのは、そんな、気の抜けた笑い声だった。
 笑顔が、今まで見たこともないような笑顔が、鶫の顔にはじける。
 夕刻の薄闇も、下駄箱の前の切れかけた蛍光灯もおかまいなしの笑顔が、ドロシーの目に、焼き付いた。

「何よ」
「それ」

 ぴし、と、鶫はドロシーの口元を指さす。

「やっと見つけた!」

 叫んで、彼女は、唄うように音を奏でる。
 それは、下駄箱の開け閉めのような、鋭くて乱暴な音の連なりだった。
 ドロシーの挑発する声のような、荒っぽくてシャープなテンポだった。

 だけど、それは、紛れもない鶫の曲だった。

 その四小節ほどの旋律を歌い終えて、鶫は、はねるように、こちらに駆け寄ってきた。

 ドロシーが逃げる間もなく、鶫は、ドロシーに抱きついた。

 一瞬、動けない。
 体温と、吐息と、情熱がいっぺんに胸に流れ込んできて、ドロシーの思考がはじける。

「……ちょ、離れなさいよ!」

 ドロシーは鶫を突き飛ばすようにして、そのまま彼女に背を向け、しゃがみ込んだ。

「むー。感動を分かち合いたかったのに」

 残念そうに、鶫はつぶやき、またあの旋律を唄っている。もう、彼女はその音を離さないだろう。
 ドロシーは彼女の方を見ないまま、じっと自分の胸を抱きしめている。

 なぜだろう。心臓の音が、止まらない。
11/15:本文のミスをいくつか修正しました。
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