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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第161話「役者も演出も、なんなら裏方さえ自己主張が激しいんだから」

 演劇部の活動はたいてい第1体育館で行われている。あまり熱心でない運動部とは対照的に、演劇部の稽古にはいつも熱がこもっていて、何となれば、バスケ部やバレー部といったふつうなら花形であるはずの運動部さえ圧倒してしまう。白熱している時期の演劇部には、誰もが道を譲る。それは1年生でも、例外ではない。

 そんなわけで、タオルを頭にかぶせて出入り口のそばに横たわる山下(やました)満流(みちる)は、ほかの誰からも取り残されているみたいだった。

「……生きてる? 満流さん」

 木曽(きそ)穂波(ほなみ)は、満流のつま先の前に立って、おずおずと声をかける。額にかけたタオルはなかば乾いて、満流の頭の熱を取り除くにはいささか力不足であるように見えた。満流の息づかいは静かだが、どこか、不穏さを漂わせてもいる。

「タオル、濡らしてこようか?」
「いい」

 乾いた息に入り交じって、はっきりと言葉が現れた。

「すこしそこにいて」
「はいはい」

 穂波は、満流の胸のそばまで歩み寄り、膝を抱えてしゃがんだ。さっきまでグラウンドの土を蹴っていた両足は、まだいくぶん張りを残していて、ぎゅっと両腕で抱え込むと心地よく筋肉が引き伸ばされる。こき使われた肉体が、すこしずつ日常に引き戻されていく、帰り道のような時間。
 タオルに覆われた満流の顔を見下ろす。彼女の目も、額も、隠されたままだ。
 声だけが、かすかにこぼれてくる。

「……熱がね」
「何?」
「すごいの」
「大丈夫?」
「……私のじゃない。部の」

 ぶの、という音が、一瞬なんだかわからなくて、穂波は眉をひそめた。つかのまの困惑にも、もちろん満流は気づかない様子で、か細い声を続ける。

「脚本の先輩が、もともと、話をだいぶ書き上げてて。話したっけ、美礼(みれい)さんのこと」
「ああ、うん」

 演劇部の文化祭での新作は、梅宮(うめみや)美礼の漫画を原作に、脚本が書き下ろされる。そのことで、満流は美礼との交渉に当たった……といっても、ほとんど美礼自身は自作の扱いを気にしていなかったらしい、というのが、穂波の聞いたいきさつだ。

「あの調子なら、美礼さんの許可なんてなくても、押し切ったかもしれない。そういうテンションだった」
「強引だね」
「でなきゃ、翠林演劇の脚本家は務まらない。役者も演出も、なんなら裏方さえ自己主張が激しいんだから」
「満流さんも?」
「……だから、こうして、半分死んでる」

 力尽きたみたいに、満流の言葉が瞬間、消え入る。

 舞台上での満流の姿は、何度か穂波も見たことがあった。稽古の際でさえ、まるで役が憑依したみたいに、ほかの役者や監督とやり合っている姿さえ知っている。
 彼女の体は、そういう、たくさんの役柄によって動かされているのかもしれなかった。

 それは、たいそう消耗することだろう。穂波だって、ふだんとは違うフォームで走ったり、バレルロールで高飛びしたりすれば、それだけでいつもよりずっと疲れる。体の動かし方ひとつとっても、人には適性や慣れというものがあって、その積み重ねが固有の仕草を形作っているのだと思う。

 役者というものが、別人の体の動かし方をいちいち身につけていくのなら、それはもう、恐ろしく消耗することに違いなかった。

 突然、はっ、と、満流が手を伸ばした。空中をつかむようにしているが、そこには何も支えがなくて、両手だけがひたすら動き回る。
 何か、救いを求めてあがくようだった。

 それに手を触れていいのかどうかわからなくて、穂波は、一瞬、動けない。

「……ああ」

 やがて、手が空を切っているのに気づいたように、満流は深々と息を吐いた。
 その手を、万歳するみたいに、頭の上に落とす。

「まだちょっと、入ってる」
「……ゆっくり休みなよ。私、ここにいるから」

 穂波の言葉に、吐息だけで満流は応える。穂波は、かすかに笑う。

「今の満流さん、演劇部、って感じだった」

 それは彼女にとっては、ちょっとした賛辞のつもりだった。舞台から帰ってこれなくなるくらい、意識のすべてをそそぎ込めるくらいに、劇に打ち込める人の姿というのは、穂波にとっては敬意に値するものだった。
 穂波は一瞬にしか力を掛けられなくて、だから長距離走などは遅くはないが得意ではない。
 ずっと時間をかけて、ひとつのことに打ち込める人は、それだけですごいと思っていた。

 けれど、満流の答えは、苦しそうなうめき声だった。

「……満流さん?」

 満流は、一瞬、起き上がりそうな素振りを見せ、けれど、結局立ち上がれなかった。
 その代わり、彼女はただ、両腕で顔を覆った。タオルの上と、唇の上に、各々の二の腕を強く押しつける。
 彼女ののどの奥から、嗚咽がこぼれた。

「満流さん?」

「……いい」
「でも」
「このままにして」

 きつくそういわれては、穂波は、引くしかない。声量の大きい満流の声は、これほど押さえつけられていてさえなお、迫力を保って穂波の胸を突いた。

 穂波は、満流を見下ろしながら、きつく膝を抱える。

 満流は、両腕の奥から、絞り出すような声を発し続ける。
 その意味のない音は、ただ彼女の悔しさばかりを激しく伝えて、穂波はひどくいたたまれない。
 何が満流をそんなに打ちのめしたのか、穂波には何も、見えなかった。

 体育館の中からは、未だ稽古を続ける演劇部員の激しい声だけが聞こえる。口論のように聞こえるのが、演技なのか、ほんとうの喧嘩なのか、穂波には判断が付かない。
 壁をひとつ隔て、校舎裏の草むらから漂う草いきれを浴びながら、穂波はなんだか、心細さを感じる。
 秋のぬるい風が、のろのろと通り過ぎる。あたりは薄暗い。日暮れが早くなったせいか、体育館の偉容が日射しを覆い隠すせいか、わからない。

「満流さん」

 穂波はぎゅっと、きつく膝を胸に押しつけながら、いった。

「いいたいこと、あるなら、聞いてるよ」

 つかのまの沈黙。
 満流は、ためらうように、しばし声を止めた。
 彼女はすこしずつ、右腕を下に動かしていく。隠されていた唇が、見えてくる。薄く開かれたそれは、ひどく乾ききって、今にもひび割れてしまいそうだった。

「……でも」

 乾いた声が、漏れる。

「何か喋ったら、全部、それが、演技みたいになる」

 感情のない、起伏の乏しい、声。
 けれど、それは、いつもの満流の声よりもずっとほんとうらしく聞こえた。感情を突き動かしたり、コミュニケーションを円滑にしたりしない、そういう、投げ捨てられるような本音。

 ごつん、と。
 満流の両腕が彼女の顔から滑り落ちて、両肘がコンクリを打った。はらり、と、タオルが地面に落ちた。大丈夫、と、声をかけることさえ、穂波にははばかられた。

 表情の消え失せた満流の顔は、何か、作り物のようで。
 穂波の心は、その、わずかに開いた瞳の漆黒の奥に、吸い込まれた。

 穂波は、両手をほどき、膝を地面について、満流の胸に覆いかぶさる。
 顔を避けたのは、ほんの一瞬の逡巡と、わずかな理性のせいだったと思う。
 激しい稽古の後の、満流の汗のにおいが、穂波の鼻を突いた。
 長い両腕で、満流を抱きしめた。彼女はここにいるのだと、決してどこにもいかないし、ほかの誰にもならないのだと、確かめたかった。
 満流はそれからひとことも口にしなかった。言葉の代わりに、疲れ果てた右腕をゆっくりと穂波のうなじに乗せた。じっと、微動だにしない右の手のひらは、それ自体が、最高に優しい心の表出のようでもあった。

 ふたりはそんなふうに、互いの体をたしかめあっていた。
 今は、それが、互いのことを感じられる一番の方法だと、そう思っているみたいだった。
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