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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第152話「いらないわよ、そんな約束」

 阿野(あの)範子(のりこ)がふだん朝を過ごす、高等部の片隅に生えたプラタナスの木。
 今日は、そこに先客がいた。

「……美礼さん」

 小脇に抱えた文庫本をきつく握りしめながら、範子は、梅宮(うめみや)美礼(みれい)に声をかける。タブレットから顔を上げた美礼は、範子の顔をきょとんと見つめた。

「あら、おはよう」
「あら、じゃないわよ。どうしてここにいるの」
「それって理由が必要なこと?」

 前に、桂城(かつらぎ)恵理早(えりさ)も似たようなことを言っていた記憶がある。気まぐれなふたりは、言動も似ているようだった。
 範子もなんとはなし、恵理早といっしょにいる時間が多いが、それは真木歩を介しての関係だ。恵理早本人と範子とは、そこまで親しくもない。きっと、本気で向き合ったら、範子の方がついていけなくなるという予感がしていた。

 だったら、美礼とも、同じことになるに決まっている。彼女の放縦で感覚的な振る舞いは、きっと範子には合わないだろう。

「わけもなく、早起きして、学校に来て、誰もいない学校の隅っこで漫画描いてるの?」
「私、どうも眠りが不規則でね。今日はやけに早く目が覚めたの」

 範子の問いかけへの返答は不十分だった。最初の一事にしか答えていない。
 裏を返せば、他のことには、理由なんてなくていいか、答える必要はないと考えているのだ。
 そう思って、範子は、問いをあきらめた。

 きびすを返す。その背中に、美礼の声。

「行っちゃうの?」
「私がここに来るのは、静かで、ひとりで、本を読めるからよ。あなたがいると、静かでもひとりにもなれない」
「そんな予定立ててるんだ。えらいね」
「……えらくないわよ、ただの習慣」
「習慣ならもっとえらいでしょ。毎日同じように、なんて、私無理むり」

 小学生のようなことをいう。ひょっとして、初等部に入った頃から、彼女の性根は進歩していないのだろうか。つきあっていられない。

 そう思うのに、どうしてか歩を進められずに、範子はその場に突っ立ってしまう。足下で、いくぶんかしおれた夏草が濃いにおいを発している。フェンスの向こうで枝を伸ばす木々は、次第に褐色を帯び始め、時の移ろいをその身でさりげなく主張している。プラタナスも、そのうち黄色い実をつけて、冬枯れの寂寥を宿すことになるだろう。
 そんな空気に身をおく自分を、一瞬だけ想像すると、ひどく切なくなる。

「……それ、きのうの続き?」

 振り返って問いかける。きのうの放課後、帰り道、薄暗い階段の途上で出会った彼女の絵。そこには、範子を引き写したちいさな女の子の姿が、彫り込まれている。

「ううん、別の。きのうの奴はなんとなく満足したから、ひとまず保留かな。でも、あの世界はなんか気に入ってるし、そのうち続きは描くかな」
「そう」
「したら、範子さんにも見せてあげる」

「……別にいい」

 範子は肩をすくめ、目を伏せた。美礼がこちらを見つめる瞳が、自慢げな幼子のようにはしゃいでいて、妙に、胸が痛んだ。

「漫画、興味ないし」

 わざと突き放すようにいって、範子は、その場を離れようとする。呼び止められても、足を止めないつもりでいた。どうせ、彼女の絵描きにつきあわされて、絵のモデルにされるのが関の山だ。そんなの、面白くもない。
 彼女といっしょにいたって、何もいいことはない。話も合わないし、どっちも相手の趣味に興味なんてない。

「範子さん」

 その背中に、美礼の声。

「だいじょうぶだよ。あしたは、ここ、開けとくから」
「いらないわよ、そんな約束」

 思わず声を張り上げていた。範子は意固地になって、足を早める。小走りに裏庭の雑草の中を駆け抜け、誰もいないこじんまりした花壇のところで曲がり、礼拝堂の影へと駆け込んでいく。
 その、ほんの数秒のダッシュで息が切れた。はあ、はあ、と、両手にひざを突いて、荒い息を吐く。
 右手から、文庫本がこぼれ落ちる。今朝は1ページも読めていない。きのうの夜から、読書のペースがずっと悪い。

 美礼のせいだ。
 美礼の、あのたった数秒の筆さばきが、範子の心を美礼の世界に引きずり込んでしまった。

「……興味なんてないのに」

 美礼の世界の中で、範子がどういう役割になるのか、気がかりな自分がいる。
 彼女がどんなふうに範子の存在をとらえているのか、知りたくてたまらない。

 ずっと、一歩引いた場所から人を見つめて、物語を眺めていたつもりだったのに。

 ほんの数秒で、美礼は、その壁を破ってしまった。
 あんな些細なことで。あんな、何気ないことで。

「……私のことなんて、意識しなくていいのに」

 範子のことなんて忘れてくれていいのに。
 あしたになったら、勝手にプラタナスの下を占領してくれていたってかまわないのに。
 範子は彼女の邪魔なんてしたくないのに。

 彼女のことは知らないけれど、きっと彼女は才能ある人間だ。
 範子は、美礼の才能を妨げたくはない。

 足音が聞こえた気がして、振り返る。
 しかし、範子の目に映ったのは、フェンスの穴からこちらに滑り込んでくる、やんちゃな黒い猫の姿だけ。猫は、餌でもねだろうとするかのように、じろりと範子の足下を見上げつつ、甘ったるい声を発する。

 範子は猫に首を振って、取り落とした文庫本を拾った。泥だらけになった表紙を手で払って、そのまま、小脇に抱えて歩き出す。
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