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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第146話「しまいには血の池だの火炙りだの、もう地獄巡りって感じで」

弥生(やよい)さん。弥生さん」

 二度名前を呼ばれて、内海(うつみ)弥生は、薄く目を開けた。大垣(おおがき)風花(ふうか)が、苦笑気味にこちらを見下ろしている。

「こんなとこで寝てると、悪い夢見るよ」
「……あれ?」

 首をひねり、目をこすりながら身を起こす。あたりには、夏草の濃厚な緑のにおいが満ちていて、ざわざわとした人声がひどく遠く聞こえた。高い建物の陰に隠れ、ひんやりとした空気の流れるこの一角は、外の世界と隔絶したような雰囲気に包まれている。
 辺りを見回すと、彼女の後ろには、緑の草花が所狭しと生い茂る花壇があった。

 それで、ようやく目が覚めた気がする。二学期から新たに任命された美化委員の仕事で、礼拝堂裏の花壇の世話を頼まれたのだった。

 花壇といっても手狭なもので、しかも誰かが手入れしているのか雑草もすくない。世話といえばせいぜい水をやる程度のもので、如雨露でさっと土を湿らせて終わってしまった。
 意外に手早く作業を終えて、拍子抜けした弥生は、花壇の前に腰を下ろしてぼんやりと夏草を眺めていたのだった。
 そのうちに、うとうとしてしまったらしい。

「……ありがとう。うっかり寝坊するところだったわ」
「弥生さんの寝坊なんて、珍しいよね。いつも朝は真っ先に来てるし、授業もまじめに聞いてるし」
「そのせいで、夕方はわりとすぐ眠くなっちゃうのよ」

 腰を左右に回して、こりをほぐすようにしながら、弥生はふと目の前の風花を見つめる。

「そういえば、風花さんはどうして」
「ここ、好きなの。聖歌隊のレッスンの後とか、ときどき顔を出して観察してる」
「そっか。ここがきれいにされてるの、風花さんのおかげなのね」
「あたしだけじゃないよ。顔はあんまり見ないけど、いろんな人が代わる代わる世話してる感じ」

 見知らぬ人たちによる連携、という感じらしい。翠林ではふしぎと、暗黙の了解による奇妙なコミュニケーションがときどき引き起こされる。
 夏休み前に小耳に挟んだ、百葉箱のこともそうだ。誰も表だっては口にしないまま、水面下で伝えられた噂が、いつしか形を取っていた。

 そういう、夢か幻のような出来事が、しばしば翠林の片隅では起こっている。

「……そういえば、なんだか、変な夢を見たような」
「お」

 弥生のつぶやきに、風花はやけに興味深げな顔をする。そういえば、さっきも夢がどうとか。

「どんな夢?」
「……千鳥(ちどり)さんにつれてってもらって、街を歩いてるの。最初はこのへんなんだけど、だんだん、変なふうに変わってって……お店の人は機械みたいだし、道行く人は、犬だか狼に追われてるし、ほかにもいろいろ……」
「ふうん?」
「しまいには血の池だの火炙りだの、もう地獄巡りって感じで……」
「それ、最終的には天国にたどり着く流れじゃない?」
「……何。風花さんも、やっぱりそういう話、好きなの?」

 ダンテを筆頭に、地獄やら煉獄やらを夢の中で巡って回心する話は、キリスト教の世界では中世からメジャーらしい。翠林の教師や神父の中には、やたらにそういう話に詳しい学究肌の人がいて、初等部の子どもたちに怪談めかして話を聞かされたものだ。
 風花は高等部からの転入生だし、そんなおとぎ話を聞かされてきた口ではあるまい。とはいえ、聖歌隊に入るからには、実は西洋文化にひとかたならぬ関心があるのかもしれなかった。

「好きじゃないけど。聖歌隊の先輩とかがちょくちょく話すから」
「だんだん染まってきてるのね」

 弥生が笑うと、風花は居心地悪そうに頭をかく。

「そんなつもりはないんだけど。まだ、ぜんぜん馴染めた気がしないし」
「……そう?」

 風花のため息混じりの述懐は、弥生にとっては少々意外だった。(なつめ)沙智(さち)にしろ、風花にしろ、撫子組の編入生たちはすんなり学校になじんでいたように、弥生には見えていた。

「やっぱ、聖歌隊にいるような人たちと比べちゃうと、ね」
「堅苦しいもんね」

 目の前にそびえる礼拝堂を見やり、弥生は肩をすくめる。風花はうなずきつつも、どこか、申し訳なさそうに目を背けていた。

「つづみさんも、さ。あたしが馴染めるように気を配ってくれるし、だんだん、あたしに歩み寄ってくれてる感じはするんだよね。だから、最初の頃みたいに、つづみさんが理想的で神聖な人、とか思えるわけじゃないんだけど」

 そんなことを思っていたのか、と、弥生は内心でちょっと驚いてしまう。たしかに芳野(よしの)つづみは、自分にも他人にも厳しく、どこか近寄りがたいオーラを発する人ではある。その強靱さに魅了されてしまう人がいるのも、わからないではない。
 そして、風花はさらにその先のつづみを見ているらしかった。

「だから、よけいに、あたしのせいでつづみさんが道を踏み外してないか、心配になる」
「……きっと大丈夫だよ」
「そうかな?」
「なんとなく、つづみさん、そういう人じゃない気がする。かんたんに、自分を曲げたりしないよ」

 風花ほどに、つづみのことを知っているわけではない。けれど、つづみの心情は、弥生にもなんとなくわかる。他人のために自分を押し殺すような、そういう、弱い人ではない。

「あたしが、つづみさんを変な風に変えちゃったりしないかな?」
「変わったっていいと思うけどね。まだ高校生だよ、私たち」

 仮に、つづみが風花に何かの影響を受けたとしても、それが悪いこととも思えなかった。身も心も、いくらでも変わり得る年頃だ。多少の変化は、起きて当たり前だろうし、それが意に沿わないものだったら、すぐにやり直せる。
 そうやって、迷う道のりだって、きっと意味がある。

「最後にはきれいな場所にたどり着くよ。だから大丈夫」
「……そうか。たしかにつづみさん、天使か聖女みたいだもんね」

 風花がつぶやいたひとことは、冗談とも本気ともつかなかったが、とりあえず弥生は笑っておくことにした。
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