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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第143話「最初から、薫子さんはこうした目を持っています」

「ノルディスクですね」

 そばを通りかかった初野(はつの)千鳥(ちどり)が、ふいにぽつりとつぶやいた。虚を突かれた近衛(このえ)薫子(かおるこ)が顔を上げると、千鳥はもう、前の方にある自分の席に向かって歩いているところだった。その背中に、薫子は思わず呼びかける。

「何ていったの、千鳥さん?」

 名指ししたおかげで、千鳥は薫子の声を無視せずに、立ち止まって振り向いた。机ひとつぶん向こうの距離から、彼女は薫子をまっすぐ見つめる。まともに向き合うと、はっとさせられるような強度のある目だけれど、それが彼女の常態なのだと薫子もわかっている。

「ノルディクス。そのテントのメーカーですよ」

 重ねていわれて、薫子は、プリントアウトされた旅行先の写真を改めて眺める。宿泊先の近くにキャンプ場があって、そこで珍しい形状のテントを見つけて写真に収めたのだ。底の広い円錐のようなの形をした白いテントは、なんだか妖精でも棲んでいるかのような神秘的な印象を彼女に与えた。
 写真の中では、その異国の気配はいささか衰え、ありがちな絵はがきのように薄っぺらな空気だけが残っている。
 旅の濃密な経験も、写真の中では、水で薄めたように味気ない。

「有名なメーカーなの?」
「北欧発のメーカーとしては有名ですね。日本にも進出しています」

 つかつかと足音を響かせ、千鳥は薫子の机のそばに戻ってくる。行くにしろ戻るにしろ、彼女の挙動には迷いがなかった。無機質なからくり人形のたぐいを思わせるが、しかし、人形のように意志のない存在と見なしてしまうには、千鳥の目はきらきらしすぎている。

「いい写真ですね」
「そうかしら?」

 千鳥の賞賛に、薫子は戸惑って自分の手元に束ねた写真を見直す。

 彼女の父にいわせれば、近頃の写真機はどれもこれも高性能すぎるという。ずぶの素人でも、オートフォーカスや色調補正、さらには数々のエフェクトや修正の力を駆使して、玄人はだしの写真を撮れてしまう。機械の方が、人の技術をまるきり奪ってしまった、といっていた。
 そうした、写真の補正技術は薫子も思い知っている。内藤(ないとう)叶音(かのん)につきあって撮影したプリだって、驚くほど多様な補正や書き込み機能が搭載され、ほとんど現実をとどめない写真だって撮れてしまう。思い出として、それが適切なのかどうか、わからなくなるくらいだ。

 そういうものに比べれば、彼女の写真は素朴だが、それだってスマートフォンに任せた露出と補正のおかげでずいぶん小綺麗なものになっている。芸術でもなければ、ありのままでもない。中途半端な映像だった。
 有り体に言えば、情緒がない。

「いい瞬間をとらえていると思いますよ。ほら、こことか」

 千鳥が指さしたのは、テントのそばにいた当地の子どもたちだった。色素の薄い肌と髪を持つ彼らは、日本人観光客のことなど知らぬげに、サッカーボールと戯れている。子どもの一人がボールを思い切り蹴飛ばそうと足を振り上げ、周囲の子どもたちは緊張と期待の入り交じった、熱っぽい笑みを浮かべて決定的瞬間を待ち受けている。

「飾らない顔でしょう」
「……そうね」

 薫子はぽかんと、千鳥の声にうなずいた。
 自分の写真が褒められたことよりも、子どもたちの存在にまるで気を配っていなかった自分のぞんざいさに、薫子は驚いていた。もしも、この写真に千鳥が目を留めることがなければ、薫子は彼らがいたことすら知らずにすませてしまっただろう。

 意外にがっしりした千鳥の指先を見つめ、それから、道をたどるように、薫子は彼女のポーカーフェイスを見上げる。

「ありがとう、千鳥さん」
「感謝されるようなことは、何も」

 首をひねる千鳥は、どうやら、何の自覚もないようだった。たいせつなことを教えてくれたのに。

「いいえ。あなたのおかげで、文字通り、蒙を開かれた気分だわ」

 路傍の名もない風物や、打ち捨てられた塵芥、そうしたものを写真にとらえることも、彼女の趣味のうちだった。だから、自分はいつだって、大事なことには注意を向けられるし、目を背けたりしない。そういうつもりでいた。
 でも、ほんのすこし気持ちがはやり、旅に浮かれているだけで、その目はあっという間に曇ってしまう。
 そんな自分の視野の狭さに気づけたのは、千鳥のおかげだ。

「私が何もいわなくても、いつか気づいていたと思いますよ」

 しかし、薫子の思いと裏腹に、千鳥の受け答えは素っ気ない。彼女は指をそっと写真から離して、机の上に滑らせる。
 積み重ねていた写真の何枚かがずれて、端々がのぞいている。その一枚を、千鳥はすっと指先で引き出して見せた。
 石畳の街路と煉瓦の町並み、その路地裏へと隠れるように歩いていく男性の後ろ姿が写っている。その背中には、哀しみのような、重みのような計り知れない感情が宿って、男はそれに押しつぶされそうになりながら、必死にあらがっているかのように、大きく足を踏み出している。
 それを撮影した瞬間の、自分の心境を思い出そうとして、薫子は眉をひそめる。よく思い出せないけれど、何か、重要な意味を感じていたような気がするのだ。

「最初から、薫子さんはこうした目を持っています。私が、同じ街並みを何度も繰り返し歩いて、ようやく身につけた視界です」

 千鳥はそういって、一度、ちいさくうなずいた。

「また今度、写真、見せてください」
「……欲しいものあったら、送るわよ?」

 薫子がスマートフォンを取り出すと、千鳥は肩をすくめて首を振った。

「いえ、薫子さんが選んでくれたものの方がいいです。ぜひ、厳選してください」

 そんなふうに告げて、千鳥は席に戻っていく。そのちいさな背中は、しかし、教室の景色の中にたった一点、強く印を付けたみたいに、薫子の目には際だって映った。
 彼女の背中をこそ、写真に残すべきだろうか。

 しかし、薫子はその思いを首を振って否定する。千鳥の求めているのも、薫子の求めているのも、そういうことではない。
 ふたりに必要なのは、もっと不意打ちのような何かだ。突然現れて、逃れようもなく心をつかむ何か。出会ってみるまで正体のわからない、そういうものを望んでいた。

 席についた千鳥に、内海(うつみ)弥生(やよい)が話しかける。千鳥は弥生にほほえみを返しながら、「私の教えることは何もありません」と、何かの師範のようなことを口にした。いつから師弟関係にあったのやら、と、薫子はひとり静かに苦笑する。
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