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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第141話「空気がそんなにおいしいと、おやつ差し入れた甲斐がないよ」

 けだるく甘い夢から目を醒まし、津島(つしま)(つぐみ)がまぶたを開けると、眼前に山積みのマシュマロがあった。白くふわふわした塊を前に、一瞬、まだ夢の中にいるのではないかと、自分の意識を疑う。
 顔を上げ、人の気配を感じて視線を机の脇に向けると、マシュマロを頬張っていた佐藤(さとう)希玖(きく)が驚いたように目を見開き、ごくり、と口の中の物を呑み込んで、こちらに微笑みかけてくる。

「おはよう」
「……寝てた、私? どんくらい?」

 問いかけながら、鶫はゆっくりを上半身を起こす。姿勢が良くなかったせいか、それとも演奏の疲れが残っているのか、両腕に錘でもぶら下げているような倦怠感がある。

「15分ってとこかな、わたしが見てた限りだと」
「先輩は?」
「先に帰ったよ。鶫さんのこと、よろしくって」
「そう……」

 つぶやきつつ、鶫は大きなあくびをひとつ。口から流れ込んでくる空気は、使い込んで古びたシャツのように、重たく生ぬるい。

「鶫さん、酸素足りてる?」
「どうかな……」
「もっと窓開けようか。暑いかな?」
「大丈夫、私が行く」

 立ち上がりかけた希玖を手で制し、鶫は椅子から体を起こす。演奏後の心地よい疲労も、一寝入りして爽快感が薄れれば、もう体に重くのしかかるだけだ。ぺたぺたと、引きずるようにスリッパで床を踏みしめながら、鶫はカーテンと窓をいっぺんに開けた。
 がたん、と、窓枠がぶつかる鈍い音とともに、空気が入れ替わる。

 赤い日射しに熱された夕方の空気は、ずるり、と、粘っこい手触りすら伴って音楽室に流れ込んできた。一瞬、むっとした熱気に不快感を覚えるけれども、それよりも、真新しくてすがすがしい空気の心地よさが、頭の隅々まですきっとさせてくれるみたいに思えた。
 大きく伸びをして、鶫は、空気を胸の底まで吸い込んだ。

「あ~……」

 ふう、と、思い切り息を吐き出して、鶫はきびすを返して机の前に戻る。希玖が、そんな彼女を苦笑しながら眺めて、マシュマロを指で摘まむ。

「空気がそんなにおいしいと、おやつ差し入れた甲斐がないよ」
「いや食べるしマシュマロ」

 わざとらしいくらいに慌てたそぶりで、鶫もマシュマロを口に入れた。舌の上でつぶれそうな食感と、口にいつまでも残る甘みに、鶫は満足げに目を細めた。

「おいし。希玖さんが作ったの?」
「部員みんなだよ、ひとりじゃまだまだ」

 希玖の所属する家政科部と、鶫のいる軽音部とは親しい関係にある。軽音部が窓を開けて演奏している音が、ちょうど下の階の家庭科室に届くせいだ。おかげで、家政科部の生徒たちが作ったお菓子がしばしば軽音部に差し入れられて、おやつには事欠かずに部活に取り組めるというわけだった。家政科部の人々も、味への忌憚ない感想を聞けて喜んでいるという。

「鶫さんのほうは、調子どう?」

 気安い希玖の問いかけに、鶫は口を開く。いささかマシュマロの甘みがしつこく口に残っていて、すこし、舌の動きが重たく感じた。

「休み明けだから、ちょっと鈍ってるかも」
「それで、窓閉めきって、酸欠になるまで練習?」

 そう問う希玖の声は、すこし低い。彼女の水筒から注がれた紅茶が、ふんわりと甘酸っぱい香りをあたりに漂わせる。鶫は一瞬、頭の奥で意識が引き締まるような気分だった。

「そんな大それたことでもないんだけどさ。そもそも、そこまで熱心な活動でもないし」
「うんうん」

 水筒のコップを受け取って、紅茶を口に含む。すっきりした酸味が、マシュマロの味を洗い流してくれるようだった。
 甘みと、酸味と、まるごと呑み込んで、鶫はふたたび顔を希玖に向ける。

「でも、やっぱり、なんとなくズレてる気がして。一度、気になったら止まらないじゃない、そういうの」
「奥歯にいつまでも挟まってる食べかすみたいな?」
「……そのたとえ、適切かなあ」

 苦笑する鶫。とはいえ、的外れではないと思う。実際、食べかすのような些細なものが、意外と感覚を狂わせてしまうものだ。
 弦を押さえる指先の動き、リズムのちょっとした走り、歌声のひそかな掠れ。ひょっとしたら、ふだんは気にしなかっただけのものかもしれないが、それが気になってしょうがなくなる。

「自分がおかしいのか、みんなが変わったのか、よくわかんなくて」
「……うん」

 希玖は、すこしあいまいにうなずいた。ひょっとしたら、この言葉自体、うまく伝わっていないのかもしれなかった。
 鶫は、軽く頭を左手でかく。演奏と、昼寝のせいで、いくぶん乱れた前髪は、ちょっと手櫛を入れた程度では直らない。微妙に跳ねた髪の毛を、いらいらと手で押さえつけながら、鶫はぼやく。

「たぶん、時間が経てば解決するとも思うんだけど」

 無言でうなずいた希玖が、山の上からマシュマロをとって、こちらに差し出す。うなずいて、鶫は、マシュマロを口に入れた。甘みが口にしみると、すこし、落ち着く。

「でも、こういう感じ、忘れたくないんだよね。忘れたら、見失っちゃうもの、ありそうな気がして」
「……ドロシーさんも」

 ぽつりと、希玖がつぶやいた。

「そういうとこ、ある。厳しくて、繊細で」
「……ああ、うん」

 褒められているのか、認められているのか、それとも共感されているのか。希玖の言葉はふわりと浮いて、鶫の心にうまく届いていないような気がした。
 ドロシー・アンダーソンの、険しくて美しい表情を思い浮かべる。彼女のうちにある苛烈さ、鋭さにあこがれて、一度、彼女のための曲も書いた。その曲は、夏休みの間に一度、ちょっとしたイベントで演奏した。
 あのとき、客はどれくらい盛り上がっていただろうか。みんなはどんな演奏だったろうか。

 思い出せない自分に、驚く。それはまるで夢の中の出来事のようで、記憶はひどくおぼろげで、つかみ取れない。

 ただ、胸の奥からはじけた火薬のような情熱と、奏でられていく音に浸っていた陶酔感だけは、よく覚えている。
 自分がボーカルをとったわけじゃなかったのに、あんなにも、曲と一体になっていた。

 ふいに、鶫は立ち上がった。教室の後ろの壁に立てかけたベースを、ケースから取り出す。驚いて見つめてくる希玖に、鶫は、告げた。

「ちょっと練習する。よければ聴いてて」
「いい、けど」
「ベースだから、つまんないかもしれないよ」
「……うん」

 困惑しきりの希玖と、まだ山と積まれたマシュマロを前に、鶫は、組んだ膝の上に自分のベースを乗せて、弦に触れた。重たい低音が、響き出す。

 いつか、鶫が『ドロシー』を唄うときは、どんなふうになるだろう。いまは、まだ想像できない。
 でも、その一瞬のために、彼女はずっと自分の精度を保っておきたい。ドロシーに負けない、自分でいたい。

 鶫は、指先に、すべての神経をそそぐ。
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