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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第138話「わたしでも見たことないような朝、まだいっぱいあるんだね」

 教室の前に飾る花を、秋らしいコスモスの花にさしかえて、ようやく内海(うつみ)弥生は新学期の始まりを実感したような気がした。

「こんなもんでどうかな」
「万全ですよ」

 花瓶の位置と花の配置のバランスをしばらく吟味していた弥生は、初野(はつの)千鳥(ちどり)のその回答に満足げにうなずく。
 その日の朝も、いつものように、弥生と千鳥は教室に一番乗りでやってきた。誰の手も触れていない静かな部屋は、どこか神聖な気配すら感じさせ、弥生は背筋が伸びるのを感じたものだ。
 2学期からも、こうして教室をきれいに整え、美しく磨き上げてみんなを出迎えられるのは、ささやかながらたしかな彼女の幸福だった。となりに千鳥がいるのなら、なおのことだ。

「ずっと気になってたのよね。夏休みの間は、花瓶、空っぽだったから」
「始業式の日に準備できなかったのが、うっかりでしたね」
「そうね。やっぱり慣れないことはするものじゃないわ」

 弥生はそういって、ちょっとはにかむ。千鳥はずっと変わらない無表情で、しかし、いくぶんばつの悪そうな様子で目線をそらした。

 始業式の日、いつもと違うことをしようと思って、弥生は千鳥を誘っていっしょに登校することにしたのだ。弥生の家と千鳥の家は、学校の南と北で真反対。しかし、千鳥にとっては、弥生の家くらいなら朝の散歩コースの延長にすぎない。
 結果、ふだんの起床時間よりもさらに早く、弥生は千鳥の来宅によって起こされる羽目になった。

 それ自体が、悪かったわけではない。むしろ、千鳥がしごく乗り気でいてくれたことが、弥生にはうれしかったのだ。
 待たせては悪いから、と千鳥を家に上げ、彼女の用意してきた朝食用のサンドイッチをふたりで分け合って、いそいそと彼女たちは出発した。もちろん、理屈の上では、誰よりも早く学校に着けるはずだった。

「でも、楽しかったよ。朝の景色」
「でしょう」
「わたしでも見たことないような朝、まだいっぱいあるんだね」

 時間に余裕があるから、と、弥生と千鳥は、いつもより遠回りで学校に向かった。広い通りを避け、わざと細い道を通るみたいにして、ふたりは、まるで夏の記憶をたどり直すように歩いた。
 道ばたに、誰かの食べたアイスの棒が落ちていた。はずれだったし、雨で汚れていたけれど、なんだかやけに貴重なものみたいに見えた。
 どこかの家から、聴いたことのない音楽が流れていて、ずっとその源を探したけれど見つからなかった。外国の電子音楽だったと思うのだけれど、ただ、その美しくて緩やかな旋律だけが、空中に漂い続けているかのようだった。
 古い窓に反射する朝の日差しは、銀色だった。
 狭い道を、千鳥と弥生は縦一列で通り抜けた。先に立った千鳥の背中は、ちいさいけれど大きくて頼もしかった。
 千鳥は、誰も通れないような細い道や、草むらに続くフェンスの裂け目や、そのほかいろんな道を知っていた。
 弥生は、ときどき道ばたですれ違う老女に、友達を紹介した。

 ほんの1時間もなかったろうけれど、それは、途方もない冒険だった。

「でも、そういうのは、夏休みのうちにすませておくべきでしたね」
「ほんとにねえ」

 ふたり揃って、苦笑する。

 あちこちほっつき歩いたおかげで、結局登校時間は遅くなってしまった。先に教室にいた生徒たちは困惑気味にふたりをじろじろ見るし、芳野つづみからは「あなた方も夏休みですっかりたるんでしまったようですね」などとたしなめられてしまった。別にいいわけするでもなく、弥生も千鳥も、つづみにあいまいな笑みを返しただけ。
 せっかくの新学期の教室をきれいにする時間も、新しい花を飾るひまもなかった。

「みんなをがっかりさせちゃったかな」
「考えすぎでは。教室の隅の埃も、花びんの花も、皆さんそんなに意識してないですよ」
「それはそれで、ちょっと悔しいなあ」
「自己満足でいいじゃないですか。私と弥生さんだけは、知っているんですから」

 千鳥は、かすかに口元に笑みを浮かべ、コスモスの花びらを指でなぞる。黄色い花弁が、窓から入る日射しを跳ね返して、それ自体がちいさな太陽のように見えた。

「それ以上に、何か必要ですか?」

 いいながら、思わせぶりな横目を向ける千鳥の面差しを見て、弥生はつかのま、息を止める。
 いつのまにか、千鳥の表情が織り成すわずかな機微に、すっかり詳しくなっていた。彼女の横顔にじんわりとにじむ、満足感と、ほのかな自尊心は、いつも冷たい千鳥の奥底に潜む強い自我の硬質さを暗示する。

 彼女のなかには、決して撓められない、強烈な自負がある。
 その心に、弥生の存在も、抜きがたくからみついている。

 誇らしいと同時に、すこし、恐いような気さえする。
 未知の世界に踏み込み、暗闇をのぞき込むときの恐れ。
 でも、そこにいるのが千鳥なのだから、不安なんてなきに等しい。それは、快い恐れだ。

 何もいえないでいる弥生に、千鳥は、ちいさな声でいう。

「それに、今日からちゃんと新しいスタート切れたんだから、いいんですよ」
「そうだね……教室も、きれいになったもんね」

 昨日のぶん、いや、夏休みのぶんも合わせて念入りに掃除された教室は、どこもかしこもぴかぴかで、床さえもワックスを塗ったばかりのように輝いていた。たぶん、ほかの生徒たちは何も気にせずにずかずか踏んでいくのだろうけれど、それでも、弥生は満足だろうと思う。
 気持ちよさを、いちいちことばにしてもらう必要なんてないから。

「んー……」

 開いた窓から流れ込んでくる、朝の清らかな空気を、弥生は思いきり吸い込む。窓の外から、かすかに人声が聞こえてきて、学院の朝の始まりを感じさせる。ふたりのささやかで幸せな時間も、そろそろ終わりだ。
 南向きに開けた窓から、遠く、街の景色が朝靄のなかに浮かぶ。

「千鳥さん」
「はい?」
「昨日みたいにさ。たまには、朝の散歩、いっしょにしようよ」

「弥生さんがお望みでしたら、いくらでもつきあいます」

 ためらいも、よどみもなく、千鳥はきっぱりとそう言い切った。朝の空気にきっぱりと響き渡るその声は、弥生の胸の奥に、すっと染みいった。

 一分の隙もなく、清らかに整えられた教室へと、弥生は振り返る。
 千鳥といっしょに築いたこの空間が、いまは、ひどく愛おしく思えた。
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