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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第132話「楽しいことばかりしていて、ほんとうに楽しい?」

 朝から1日雨の降り続く日は、久しぶりだった。この夏はずっと快晴か、せいぜい夕立が降るばかりで、まとまった雨には縁がなかった。濡れたアスファルトから立ちのぼる雨の独特なにおいに包まれて、舟橋(ふなばし)妃春(きはる)は家路につくところだった。
 住宅街の静謐な空気も、いまはどことなく重苦しいように感じられた。いつもは気にならないような、路地の片隅の薄暗がりから何かが現れてきそうな、不気味な静けさ。

 妃春の向かいから、人影がこちらに歩み寄ってくる。雨合羽をかぶり、雨中だというのに両手でタブレットを手にし、奇妙に早足で水たまりを蹴飛ばして歩いている。
 その挙動はどことなく不審で、奇妙で、けれど何か見覚えがあるような気もした。

 そして、人影は妃春の目の前で立ち止まった。

「どこかで見たと思ったらクラスメートだ。こんちは」
「……ごきげんよう、美礼(みれい)さん」

 ちょこんと頭を下げた梅宮(うめみや)美礼に、妃春は眉をひそめつつ返事をした。
 よく見ると、美礼の姿はいっそう怪しげだった。雨合羽の下にはマスクをしているし、かろうじて隠れていない目の周りは、アレルギーか何かのように赤く染まっている。

「どうしたの、その格好?」
「ちょっと日焼けしすぎちゃって、肌を出すのが恐いんだよね。皮膚が弱くて、夏はいつもこうなんだけど、うっかりするとすぐにいろいろ忘れちゃう」

 羮に懲りて鱠を吹く、という諺を思い出した。熱い食べ物で舌を火傷した間抜けな男が、その後は冷たい料理まで息を吹きかけて冷まそうとするようになった、というたいそう間抜けな故事だ。
 この曇り空なら、紫外線もろくに降らないだろう。美礼の格好は過剰防御というほかないし、みっともない見た目を隠そうとするには逆効果だった。

「で、そんなにまでして、何をうろうろしてるわけ?」
「こんな雨は久々だから、外を見とこうかと思って。スケッチがてらに」
「……スケッチなんてするのね。めずらしい」
「そ?」
「あなたは人間にしか興味がないと思っていたから」

 妃春が美礼のイラストやマンガを目にするのは、生徒会役員として部活の見回りをするときくらいだ。美礼の所属する漫画研究部も、下校時刻ぎりぎりまで居残っていることが多く、妃春はたまに彼女たちに下校を促しに行く。
 そんなときに、妃春はなんとなく、美礼の絵をちらりと見ることがあった。
 マンガのことはよくわからないけれど、彼女の描いているのはいつも人間か、この世のものではない何かだ。風景を描いているのを見た記憶はない。

「ちょっとね」

 美礼はひとことだけいって、首をすくめた。

「で、何か新しいものは見つかったの?」
「よくわかんない」

 首を振った美礼は、しかしどこか満足げだ。わからないことが愉快、という感覚は、妃春にはぴんとこないが、それも彼女なりの収穫なのかもしれない。
 美礼のことばは端的でなく、あいまいで、だから読みとるのは難しい。妃春もそれをわかっているから、深くは問わないことにした。

「程々にね。もうすぐ夏休みも終わるし、2学期頭から風邪ひきじゃあつまらないわよ」
「わかってるよう。熱っぽいときは別世界が見えるから楽しいんだけど」
「だからって自分から病気になることないわよ。で、宿題は……」

 問いただしかけて、美礼が雨合羽の奥で視線を逸らしたのに気づき、妃春は嘆息した。訊かなくても見当がつく。

「……せめて体裁くらいは整えておきなさいよ」

 こんな忠告をするのは、妃春の役目でないような気がする。しかし、ここで誰かがいっておかないと、不幸になるのは美礼のほうだ。

貴実(たかみ)さんやつづみさんに、何をいわれるかわかったものじゃないでしょう?」
「叱られるのは恐くないけどねえ」
「でなくとも、補習や何かで、無駄に時間をとることはないわ」
「そうねえ」

 あいまいにうなずく。自覚があるのかないのか、わかったものじゃない。

「けど、絵を描いてるほうが楽しいから、つい、ね」
「楽しいことばかりしていて、ほんとうに楽しい?」
「……妃春さん、意外と変なこというね。当たり前じゃないの?」

 変、といわれて、すこしかちんときた。思わず、口が軽くなる。

「私は、しんどいことや、苦痛を乗り越えて、成長を実感したほうがうれしい。楽しいだけでは、そういうの、わからないと思う」
「そうかなあ? 楽しいことだけでどんどん楽しくなるよ」

 しばし、妃春は美礼の顔を見つめる。マスクの奥の顔が笑っていることは、想像がついた。妃春と美礼のあいだに横たわっている価値観の川の深さ、広さに、一瞬、気が遠くなる。
 美礼は壁を感じることがないのだろう。好きなことに関してなら、障害や難題をそうとも思わずに乗り越えられるタイプだ。

 傘に当たる雨が、いささか強くなってきた。そうして雨音に包まれていると、彼女は、自分の周りにいる人々の遠さを実感する。妃春の想像を超えるたぐいの人々ばかりが、彼女の前に現れている気がしてならなくなる。

「……そろそろ、雨が激しくなりそう。美礼さんも早く帰った方がいいわよ」
「どうしようかなあ。豪雨ってけっこう楽しいんだよね」
「あなたみたいな人が、増水した川に呑まれるのよ」

 つぶやいて、妃春は鼻をすすった。肩にひんやりした空気を感じる。革靴の下のソックスに、かすかな湿り気がまといついてきている。気圧がひどく下がっているような気がした。

「美礼さんの家ってどっちだったかしら」
白見平(しろみだいら)
「国道の向こうじゃない。けっこう歩いてきたわね……」

 家につくころには大雨だろう。ここから帰らせるのは、すこししのびない。
 そう思って、妃春は、自宅のほうを指さした。

「雨宿りしていくといいわ。私の家、すぐそこだから」
「……いいの?」

 きょとん、と目を見開く美礼。妃春は顔をしかめた。

「私をよほどの薄情ものと思っていたわけ? 失礼だわ」
「いや……そうじゃなくて……ええと……」

 しばらくことばに迷いつつ、しかし、美礼ははっきりと口にできないまま、視線を自分のタブレットに落とす。防水加工はしているのだろうけど、雨でずぶ濡れのそれは、壊れてしまわないか不安にさせられる。
 妃春は、美礼のほうに傘をさしかけた。タブレットの画面に降り注いでいた雨が、とぎれる。
 画面には、得体の知れない抽象図形が描かれていた。美礼の指がその上を滑り、動き、図形を描いたり消したりしている。

「それ、いいところで区切りつかないの?」
「……わかった」

 うなずいて、美礼は、ディスプレイの隅をタップする。画面に描かれていた図形が、一瞬で真っ白になった。妃春は驚いて、眉をひそめる。

「消せとはいってないわよ」
「いわれてないね」
「……よかったの?」
「よかった」

 彼女がそういうなら、たぶん、大丈夫なのだろう。美礼の考えていることは、妃春には、見当がつかない。追いかけても追いつけない、というのではなく、まったく軸が違う気がする。

「ともかく、いいなら、行きましょう。温かい紅茶でもごちそうするわ。それと、日焼け止めも」

 妃春がいうと、美礼はうなずく。雨合羽の奥の表情は、間違いなく、笑っている。

 かくて、ふたりは並んで歩き出した。美礼はまた新しいインスピレーションでも浮かんだのか、タブレットの上で指を滑らせている。雨に濡れた指は、しかし、いまにもつるつるの機械を滑り落としてしまいそうで、危なっかしい。
 妃春が無言でハンカチを差し出すと、美礼は数秒してそれに気づき、何もいわずに受け取って画面と自分の顔を拭いた。灰色に汚れたハンカチを受け取り、妃春は、肩をすくめて、ポケットにしまった。

 ことばがなければ、それはそれで、結局かみ合わない。そういうものらしい。
 けれど、ふたりの歩調はふしぎにぴったりと揃っていて、妃春はすこし、楽しかった。
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