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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第130話「都合の悪い人には頼らないでしょう」

 真木(まき)(あゆみ)とも長いつきあいになる阿野(あの)範子(のりこ)も、彼女の弱った声というのはあまり聞き覚えがなかった。珍しいものだと思いつつ、それよりも、歩のことが心配で、彼女にしては早足で範子は駆けつけた。

「……ごめんね、範子さん」

 自宅の玄関前に立ち尽くしていた歩の肩を、なだめるようにかるく叩く。着の身着のままで家を飛び出したのは明らかで、薄手のシャツの襟元はいささかよれているし、右足がスニーカーで左足がクロックスという有様だ。
 さっきまで範子と通話していたスマートフォンを、彼女はぎゅっと握りしめている。
 範子は顔をしかめて、問う。

「で、どこにいるの、そいつは」
「家の中」
「……それしかわからないの?」
「たぶん、私の部屋だと思うんだけど。クローゼットの裏とか、机の陰とか、隠れてるかもしれない」
「あんなにでかくても隠れられるのね」

 つまるところ範子は、歩の部屋に突如出現したという巨大なカナブンを追い払うために呼ばれたのだった。歩はそもそも虫が苦手なのだが、街中では見かけない甲虫、しかも巨大なものとあって、恐れをなしたという。
 範子だって虫が好きというわけではないが、家の中に足を踏み入れられないほどではないし、武器を取って戦いを挑むことくらいはできる。

「お願い」

 懇願する歩は、真夏だというのに顔を真っ白にして、握りしめた両手を震わせている。範子は、深々とため息をついた。せっかく安穏とした読書を中断してまで駆けつけたのだ、何の成果もなしにはすまさない。

「わかった。任せて」


 10分ほどの悪戦苦闘の末、範子は戦闘に勝利した。


「助かったよ、ほんと」

 歩はホットコーヒーを口にしながら、にこにこと感謝の言葉を述べる。さっきの部屋着にカッターシャツを羽織っただけのラフな格好で、カップをきつく握る指先が白く、まだ不安が胸中に残っているのが伺い知れる。
 範子は彼女の向かいで、クロワッサンをかじりながら、笑みを浮かべる。

「歩さんが困ってるんだもの、ほっとけないよ」
「いやはや、いい友人を持ってありがたいよ、ほんとうに」
「都合のいいときばかり頼られてる気がするけど」
「そりゃ都合の悪い人には頼らないでしょう」

 しゃあしゃあとした歩の態度は、ようやく多少、いつものペースが戻ってきたように感じられた。範子はほっとしつつ、手元のアイスカフェラテをすする。

 パン屋のイートインコーナーには、焼きたてのパンとコーヒーの香ばしい空気が漂っている。昼下がり、日当たりのいい窓際の席からは、清潔に輝く高級マンションの景観がよく見える。範子がずっと生まれ育った住宅街の風景は、ときとして清浄すぎて窮屈に感じることもあるけれど、こうして眺めるぶんには嫌いではない。
 それは理想世界を描いたディストピアの一面のようでもあり、その片隅にいる自分が、それを客観視できていることを確かめられるからだ。

「ほら、もっと食べて食べて。いくらでも奢っちゃうから」

 歩は範子のトレイをぐいぐいこちらに押しつけてくる。カナブンを撃退したお礼、ということで、この場は歩がぜんぶ払ってくれた。だからといって、トレイに山盛りのパンを乗せるようなことは、範子はしない。単に、食べ物を粗末にしたくないからだ。

「いいって、そんなたくさん食べられないし」
「遠慮しなくていいからさあ」
「遠慮はしてないけど。ていうか、私に感謝したいなら、もっと私の体調を気遣ってよ」
「ん、具合悪い? 戦闘の後遺症?」
「じゃなくて。そんなに食べたらおなか壊す」

 善意の押しつけは、かえって害になる。やたらにおやつを食べさせようとする実家の親戚や、いかにも子どもの好みそうな絵本を押しつけてくる親戚には、幼いころから辟易させられたものだ。

「歩さんこそ、平気? ぜんぜん食べてないみたいだけど」
「大丈夫だよ」

 あっさりいう歩だが、彼女は一口も食べていなかった。ラムレーズンのクリームを挟んだパンは歩のお気に入りのはずだが、それにも手をつけようとしない。
 とはいえ、急かすのもそれこそ押しつけがましい。範子はマイペースに、カフェラテとパンを交互に食べ進めていく。

 向かいに座った歩は、コーヒーカップを両手で抱えたまま、うっすらと上る湯気の奥から、範子を見つめている。

「……食べてる私なんか、見ていて、楽しい?」
「楽しいよ。いつも、いつの間にか食べ終わっちゃってるから、なんだか珍しい」
「珍獣扱いしないでよね」
「獣だなんて思ってないよ」

 歩の視線を感じて、なんだか気恥ずかしくなる。範子は食には頓着せず、しかも小食なほうで、歩たちとお昼を食べるときも、弁当を半分くらい残してさっさと片づけてしまう。誰かとものを食べる時間は、彼女にとってはいくぶん、非効率な時間に思える。片手で食べれるサンドイッチかおにぎりを、本を読みながら片づけるのが、理想の食事だ。
 とはいえ、それでも、いつも歩たちと机を囲む時間は、嫌いではない。

「もうすぐ夏休みも終わりだねえ。宿題終わった?」
「あとちょっとよ。そっちは……どうせすぐ片づいたんでしょうね」
「心配事は先に終わらせたほうが効率的だもの。範子さんもそうするように、毎年いってるのに」
「何事も理想通りに片づくなら世話はないわ」
「世界には理想通りにすまないものはたくさんあるけど、高等部の宿題なんてそこには含まれなくない?」
「……それは歩さんだからよ」

 授業を聞いて教科書をざっと読む程度で、歩はだいたいのことを理解してしまう。成績はいつも優秀、学業でそうそう他人に後れをとらない優等生だ。
 彼女にとって、課題なんて日々の生活習慣のようなものなのかもしれない。顔を洗うのとおなじような気軽さ、自然さで片づけられるもの。
 範子にとっては、それは登山めいた非日常だ。そもそも認識が違う。

 目の前の、飄然とした才人の姿をにらむ。彼女のように、何事も片手間でこなし、自分のペースを保ったまま生きられたら、どれほど羨ましいかと思う。
 物語の登場人物は、結局は非現実で、憧憬の対象にもならない。
 その代わりに、範子の前には、真木歩がいる。

「……あっ」

 目を見開いて、範子は、口元を押さえながら歩の頭を指さす。まるで、何か危険な生き物が背後に迫っている、とでもいわんばかりの表情で、範子は切迫した声を上げた。

「そこ!」
「え、何何何!?」

 がたん、と椅子を鳴らして、歩は狼狽して左右を見回す。その様子を、ほかのお客が何事かと不思議そうに見ている。
 範子は息を吐いて、種明かしをする。

「……寝ぐせ」

「ちょ……」

 歩はつかのま、突っ立ったまま硬直した。それからきっかり5秒、その場に立ち尽くして、深々とため息をついた。

「……範子さん、そういういたずらするタイプだっけ」
「たまにはね」

 つぶやきながら、範子は、歩のほうに彼女のトレイを押し返す。

「ほら、ラムレーズン食べなよ。好きなんでしょ?」
「ん」

 ようやく歩は、パンに口をつけた。ひとくちで、彼女の目に輝きが戻って、ずっと固かった表情にもようやく、いつもの暖かみが戻ってきた。
 歩だって、超人ではない。恐いものもあれば、たやすく騙されたりする。別に彼女が弱いわけじゃなくて、人間には誰しも弱点や、心の弱る瞬間があるというだけだ。

 そういうほんのひとときに、そばにいてあげられればいい、と範子は思う。なんとなれば、それが友達だ。
 クロワッサンを食べ終えて、範子はちいさく息をついた。
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