挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
129/233

第127話「私の指、おいしかった?」

「あ痛っ!」
「うわ!?」

 小田切(おだぎり)(あい)の悲鳴を聞いて、(なつめ)沙智(さち)は思わず手にしていたシャーペンを取り落としてしまった。何が驚いたといって、愛がこんなに甲高い大声を上げるのを、初めて聞いたからだ。
 それに、いまは夏休みの課題を片づけるべくふたりでノートと向き合っていたところで、叫びをあげるようなシチュエーションではない。

「どうしたの愛さん!?」
「見て……」

 あわてて向き直った沙智に、愛は、自分の右手の親指を見せてきた。
 指の腹に、まるでインクでも落としたような、ちいさな血の滴が浮き上がっている。

「シャーペンの先っぽ、刺しちゃった……」
「なんだ、そんなこと」
「なんだじゃないよ、めちゃくちゃ痛かったんだから」

 沙智の反応に、愛は不満そうに言い返してくる。うっすら涙目でこちらをにらんでくる愛の表情は、普段はめったに見られない。その貴重さに、沙智の胸がきゅんとする。

「うんうん、ごめんね」

 つぶやいて、沙智は愛の親指に顔を寄せる。
 そして、その、血のついた親指を、ついばむように口にくわえた。

「わ」

 愛は驚いたようだったが、抵抗はしなかった。沙智は、一度、親指の腹を舌でそっとなでるようになめる。塩と汗の混じった味に、一瞬、自分の舌が切れたように錯覚した。
 口の中に、愛の体温を感じる。
 唇をすぼめ、つ、と、指先を吸い上げるようにして、唇を離す。

 もともとたいした傷ではなく、それで、愛の親指はきれいになった。沙智の唾が彼女の指先を潤わせ、ぬるっとした艶を与えていた。

「……なんで沙智さんがなめるの」
「いけなかった?」
「いけないよ。条例に触れたりしない?」
「もっとナイーブなところに触るんでなきゃ大丈夫だよ。それより、バンソコ貼っとく?」
「いちおう。なんかまたおなじミスしそう」

 そういって、愛は部屋の隅に置かれた救急箱に歩み寄って、絆創膏を取り出す。

「私がやるのに。ていうか、何でそんな慣れてるの? 私の部屋なのに」
「何となく覚えた」
「ふうん……」

 英単語もそのくらい自然に覚えてくれれば楽なのに、と沙智は思った。愛の成績は中くらいだが、どうも集中力がないのか、暗記が苦手らしい。
 利き手じゃないほうの左手で、愛はわりと器用に絆創膏を巻いた。

「大丈夫そう?」
「うん。なんか、沙智さんの体温が残ってる」
「……うれしいような、そうでもないような」

 にこにこして、愛は親指を何度も握りしめてみせる。その様子を見て、沙智はいまさら、恥ずかしい気分になる。つい勢いでなめてしまったが、やっぱり、やりすぎだっただろうか。いや、キスだってした仲だ、指をなめるくらい、なんてことはないはず。
 表情をころころ変える沙智を見て、愛が、にんまりとしてこちらににじり寄ってきた。

「お礼に、私も、沙智さんをなめてあげようか?」
「やめて」

 目をそらして拒否する。愛はそんな沙智のほっぺたを指でつついて、おかしそうに笑い続ける。沙智はいっそう顔をそむけて、左手で頬を隠した。

「まじめに勉強しなさい」
「してないのは沙智さんのほうじゃない? さっき、なめるとき、すごい顔してたよ」
「いい加減なこといわないでよ」
「写真撮っとけばよかったなあ」
「やめて」

 頭がかっと熱くなって、逃げ出したくなる。ちょっとした出来心で、こんなにさんざんからかわれるのでは割に合わない。

「そうだ、ひとつ聞き忘れてたけど」
「……何よ」
「私の指、おいしかった?」

「……うん」
「じゃあよかった」

 何がよかったんだかさっぱりわからないが、愛は満足したらしく、自分のノートの前に座り直す。彼女はあくまで、自分のペースを崩さない。

 だからこそ、さっき、愛を驚かせた沙智の行為は、なかなかのファインプレーだったと思う。

「それじゃ、課題片づけちゃおうよ。ここ、わかんないんだけど」
「……はいはい。えっと」

 ようやく頭を落ち着かせた沙智は、振り返って、愛が示した英文を見やる。接続詞が立て続けに出てきて、ちょっとややこしい構文だ。沙智は文章を丸と線で区切って、愛に説明する。
 ぱっ、と、説明を理解した瞬間、愛の表情が輝く。

「あー、なるほど、主語が共通なのね」
「そうそう」

 愛は解答欄に、きれいな字で訳文を書き込む。彼女の手書きの字は、さらりと書かれるわりに形がすごく整っていて、とても読みやすい。
 彼女の素早い指の動きを、沙智はじっと見つめる。親指に巻かれた絆創膏も、妨げにはなっていないようだった。

「愛さんさ。旅行とか行かないの?」
「何、藪から棒に」

 休み前にクラスの子から聞いた話を、沙智はいろいろと思いだす。何しろ裕福な家の多い翠林の生徒だから、休みともなればバカンスの噂で持ちきりになっていた。

「旅先から、手紙とか欲しいな、って思って。愛さんの手書きの字で」
「それならべつに、メモとかでもよくない?」
「そこはこう、気分とか格調の問題」

 授業中に取り交わされる秘密のメモとかいうのも、それはそれで趣はあるものだ。けれど、遠くから、彼女のために長旅をしてやってくる手紙には、独特の喜びがある。
 それに、そもそも、今時手書きの文字なんてめったにやりとりしない。それだけで、十分貴重だった。

 しかし、愛はなんだか気乗りしない様子で、口をとがらす。

「あんまり興味ないなあ」

 そして、何気ないそぶりで、沙智の手に触れる。

「私は、沙智さんといる時間が長ければ、そのほうがいい」
「……ああ、そう」

 そういわれてしまうと、どうしようもなくて、沙智も肩をすくめるだけ。
 愛の右手の、絆創膏の手触りが、沙智の二の腕をいたずらになでていく。その、かすかにとがった感じがくすぐったくて、沙智は、息をひそめて笑った。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ