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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第126話「何もないステージなんて、面白い? 何も起きないのに」

 その田舎町の片隅には、中学校の校舎を利用して作られた資料館がある。展示されているのは、古い民俗資料や写真で、地元の記録や歴史研究には貴重なのかもしれないが、部外者が見てもあまり面白いものではなかった。
 木曽(きそ)穂波(ほなみ)が心を惹かれたのは、その資料館の隣にある、大きな講堂だった。かつては中学校の体育館だったが、いまでは、劇団やボランティアによる公演が行われ、地元の人々が見に来るらしい。住人といえば大半が老人で、演目もそれに合わせた古風なものや時代劇が多いという。

 自由に入れる、というので、穂波は講堂に足を踏み入れた。スリッパの平板な足音が、おどろくほど大きく響いた気がした。
 つまるところ、誰もいない体育館だ。それは、事故で止まったエスカレーターのように、本来果たされるべき機能の果たされていない、奇妙な違和感を与える。高い天井の水銀灯も、ワックスのかけられた床も、ゴールリングだけが取り外されたバスケットボールのゴールも、どことなく奇妙に思われた。

 旅先で、さらなる異世界に迷い込んだ、という気分だった。

 山下(やました)満流(みちる)と約束をした小旅行は、夏休みも終盤に近づいたこの時期になって、ようやく実現した。課題をほとんど終わらせ、満流の演劇の稽古も一段落つき、懸案は何もなかった。
 かくしてふたりは、必要最小限の荷物だけをカバンに詰め込んで、ろくな目的もなしに旅に出た。ちいさな田舎町の、満流の親と懇意だという旅館に、部屋をとった。
 町に着いてからは、ほんとうに身のあることは何もしていない。古い街路をさまよい、ボロボロの駄菓子屋をのぞき、細長い川をどこまでも上流にのぼり、荒れ果てた公園で自販機のジュースをがぶがぶ飲んだ。

 そんな散策の合間、穂波たちの訪れたのが、この退屈な資料館の、誰もいない講堂なのだった。

 がらんどうの講堂の真ん中に、穂波は立つ。彼女はぼんやりと、舞台を眺めていた。前の公演の痕跡はまったく残っていない、空っぽの舞台は、穂波の視線だけをむなしく受け止めながら沈黙し続けている。
 その静寂に、穂波は耳を傾ける。

「立ちたい? ステージ」

 いつのまにか、満流がとなりに立っていた。凜々しい顔立ちににんまりとした微笑を浮かべ、満流は何かを期待するような目つきで穂波を見ていた。

「そういうことじゃなくて」

 穂波はすこし、困ったように眉尻を下げながら、ステージの上に視線を戻す。

「それは、きっとわたしの仕事じゃないからね」
「そう? 穂波さん、舞台に映えると思うけど」
「……そういう歯の浮くようなお世辞、いいから」

 満流のことばに、穂波は首を横に振る。満流はふしぎそうに、鼻息を漏らす。

「じゃあ、どうしたの。何もないステージなんて、面白い? 何も起きないのに」
「けど、何かが起きる予感はするから」
「……誰もいないけれど」
「誰もいなくても、だよ。満流さん、そういう感じ、心当たりない?」

 問いかけて、ふたたび穂波は、舞台を見上げる。
 誰もいないステージは、しかし、何かが動き出しそうな気配がする。空気の中から、ふと見えないものが形をとって、生き生きと会話を交わし始める、という空想が、穂波の脳裏から離れない。
 学校の体育館の舞台なんて、大半は教師の他愛のない説教や、神父の聞き飽きた説法に費やされるものだ。実際、翠林の講堂では、こんな感覚に陥ったことはない。

 知らない町の、知らない学校の、知らない体育館だから。
 穂波の心に、舞台の魔力が忍び入ったのかもしれなかった。

「舞台なんて、誰かが立たなきゃ、何も始まらないんだよ」

 一歩、満流は穂波のそばに寄った。今日の彼女は、いつもと違って、長い髪をくくりもせずに背中に流したままにしている。黒髪に覆われた彼女の背中から、かすかな緊張が漂う。

「でも、こうしてると、突然誰かが現れそうな気がしない? ほら、そこの、舞台袖とかから」
「……やめてよ」

 ふと、満流の声音が、寒風を浴びたように震えた。いささか唐突なその反応に、穂波は、ふと意地悪な想像をした。満流にも、恐いものがあるのかもしれない。
 穂波は舞台袖の緞帳のそばを指さした。

「ね、何か動かなかった?」
「気のせいよ。それか何か忍び込んだんじゃない? タヌキとかアライグマとか」
「アライグマって意外と凶暴だっていうけどね」
「とにかく、たいしたことないってば」
「……あ、いま」
「やめてってば!」

 甲高い声が、講堂の天井にまでこだまして、満流は穂波の腕にしがみついた。そうしていると、ふたりの本来の身長差をひしひしと感じる。急に縮んでしまったみたいにちいさく感じられる満流の体は、触れたらようやくわかるくらいにかすかに、震えていた。
 二の腕をぎゅっとつかんで離さない満流の右手を、穂波は、そっと左手で包んだ。

「ごめんごめん、脅かしすぎた」
「もう」

 ふくれっ面の満流は、穂波の肩に額をぶつける。

「そんなに怖がると思わなかったんだよ……幽霊とか、恐い?」
「そういうわけじゃ」

 強がりをいいかけて、しかし、満流はすぐに首を振る。

「……恐いよ。だって、ほんとうにいるんだもの」

 彼女の視線は、がらんどうの暗い舞台に向けられている。白い垂れ幕だけが下がり、明かりのついていない舞台では、陰影だけが本物に見える。かつてここで繰り広げられたであろう劇も、公演も、一夜の幻でしかない。
 ただ、沈黙の片隅に、その日のこだまだけが響いているかのようだった。

「ほんとう、って?」
「ほんとうは、ほんとうよ。舞台に立つと、ときどき、誰かがそこにいるような気がするの」

 満流のことばが、堰を切ったように流れ出す。

「前にそこで演じられた役が、その役柄だけが、舞台に残っているように感じるの。かつてそこにあった世界が消えてなくなったあとも、登場人物の記憶や思考だけがそこにこびりついて、いまも、自分たちの役を演じてるんじゃないか、それとも、全く独自の行動を続けているんじゃないか、って。劇の世界は、そこだけで終わらなくて、永遠に舞台の上で続いてるんじゃないか、って。そう思ったら、きっと、人の魂も死んだあとも生き残って、この世界に、すっかり入れ替わったこの世の舞台の上に、あり続けるんじゃないか、って、そんな気がしてならないのよ」

 一気呵成に、満流はいいきった。それは、それこそ舞台の上で演じられる長台詞のようで、どこか作り事めいていながらも、真に迫る響きを宿していた。
 息を吐く満流を間近に感じながら、穂波は、背筋に、薄ら寒いものが走ったような気がした。
 彼女にまで、舞台の霊が、とりついたのかもしれなかった。

「……こんなこと話すの、あなたが初めてよ」

 まだすこし荒い息で、満流はいう。穂波は、ちいさくうなずくだけで、何も答えられない。そんな彼女に、満流は、上目遣いに問いかける。

「穂波さんも、恐くなった?」
「そんな、こと」

 いいかけて、口を閉ざす。満流の前で、嘘は通じない。満流は白い細面をきゅっと微笑ませて、穂波の腕にいっそう強く腕を絡ませてくる。
 見上げる瞳は、講堂の薄闇をそのまま浸したように、底深く、吸い寄せられるよう。
 その闇の奥に、なにか、いつもと違う満流の陰が見え隠れする。
 それは田舎町の過去の残滓か、それとも舞台の亡霊か。

 あるいは、ほんとうの山下満流か。

 穂波はそれを見通すことのできないまま、ただ、まといつく満流の細長い腕の感覚に、からめ取られているしかない。
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