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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第125話「この街を、上からも下からもよく見るんですが」

 昼と夜が別の世界だ、というのを内海(うつみ)弥生(やよい)が初めて認識したのは、たぶん、初等部2年生のときの家族旅行だったと思う。
 父親の運転するワゴンで、真夜中の高速道路を走っているさなか、後部座席で眠っていた彼女は、ふと目を覚まして外を見た。防音壁の上に点々と連なる照明、走り抜ける車のヘッドライト、彼方の山奥に見える人家の明かり、そして、闇、また、闇。
 真昼の光に包まれた世界とは異なる、夜の空間には、しかしたしかに人と車の息づかいが宿っているのを感じさせた。夜は、誰もが眠るのではなく、さりとて昼と同じような活動をするのでもない。
 夜には、夜の生き物が、夜の生活を送っている。弥生の脳裏をよぎったのは、そんな印象だった。

 その感覚を、弥生は、久しぶりに思い出した。
 山上から見下ろす街は、昼間とおなじ景色のはずなのに、別の都市に見える。そこに生きているのは、ほんとうに昼間とおなじ生き物なのか、うたがわしくなる。

 彼女たちはいま、街の北側に聳える山の頂上近くにある、キャンプ場を訪れていた。キャンプ場、といっても、自然に広がる山中の平地を整備してそう呼んでいるだけのものだ。スペースをすこし外れてハイキングコースの奥に踏み込めば、星明かりも届かない未整備の山林の闇だ。
 その暗闇をすぐそばにして、月光の下、草いきれを感じながら夜景を眺めるのは、どこか胸躍る体験だった。

 こん、こん、と、金属が熱される音がする。

「コーヒー、飲みますか?」

「うん」

 初野(はつの)千鳥(ちどり)の問いに、弥生は答えて、レジャーシートから腰をすこし浮かせて振り返った。
 千鳥は自分用のちいさな椅子に腰掛けて、パーコレーターを火にかけていた。試してみたい、と千鳥が1学期のころからいっていた、野外でコーヒーをいれるための道具だ。携帯コンロの炎の上で、その銀色の器が熱されて、注ぎ口から湯気が白く立ちのぼっている。

 パーコレーターのふたの上部には、ガラスでできた部分があって、そこにお湯の飛沫がぱたぱたと当たっている。中で沸騰したお湯が、内部の管を通って噴出し、中間に据え付けられたコーヒー粉の上に落ちる、というのが抽出の仕組みだそうだ。
 そしていま、お湯の色は、うっすらと褐色を帯びている。

「そろそろ、いい頃合い……なんじゃないかな、と、思うのですが」

 千鳥のことばは、彼女らしからぬ気弱なものだった。パーコレーターどころか、コーヒーを自分でいれることさえ滅多にしない。山に登ってくる前、千鳥は気恥ずかしそうに、そう告白した。
 彼女にも、体面とか、格好とか、そういうものを気にする感覚がある。弥生は、そういう新しい事実を発見するたびに、千鳥のことをいっそう好きになっている自分に気づく。

 コンロの炎が、千鳥の顔をほのかに赤く染めている。

「千鳥さんがいうなら、それでいいよ」

 弥生がそういうと、千鳥はうなずいて、コンロの火を止めた。お湯の噴出が弱まり、ガラスの内側にはコーヒー色の水滴が残るだけになる。
 弥生と千鳥は、リュックから各々のカップを取り出して、レジャーシートの上におく。弥生のは、自宅に届いたお中元から選んだ、シンプルな柄のマグカップ。千鳥は、見るからにアウトドア向けな金属のコップだ。

 両方の器に、おなじくらいのコーヒーが注がれる。真夜中の色に負けないほどの、漆黒の液体。

「濃すぎじゃない?」
「……きっとだいじょうぶですよ」

 夜のせいかもしれないし、そもそもいれたてのコーヒーはこんな色なのかもしれない。弥生も千鳥も、そんなにコーヒーに詳しいわけではないから、見当がつかなかった。
 念のために準備してきたポーションを、ふたつ開ける。

「千鳥さん、いる?」
「いえ」

 徹底的にかっこつけるつもりなのか、千鳥は決然と手振りで拒否した。弥生は肩をすくめて、2杯のミルクを自分のカップに注いだ。

 いただきます、と、同時につぶやいて、コーヒーに口をつける。

「にがっ」

 そういったのは、弥生のほうだった。
 千鳥は、無言で、カップを手にしたままぴたりと静止していた。いいたいことは、それで十分伝わる。

「……やっぱりいる?」

 ポーションの殻を見せながらいうと、千鳥は、首を横に振った。

「……こんなこともあろうかと」

 千鳥は自分のリュックから、携帯用のちいさな角砂糖の袋を取りだした。なんだかんだで失敗を想定しているところは、彼女らしい。

 砂糖とポーションをめいっぱい放り込んで、どうにかコーヒーを半分ほど消化したあたりで、千鳥はずっと座っていた椅子から降りて、弥生のそばに腰を下ろした。
 真夏とはいえ、夜中の山上は冷える。レインウェアを羽織った千鳥は、ぎゅっと身を縮めて、両膝を胸のすぐ手前までくるほど曲げている。夕方頃は汗を拭くのに活躍したタオルも、いまは首に巻かれて、夜風から千鳥を守っていた。

 ちいさいのにたくましい彼女の体も、夜気に包まれたこの空間では、本来の背丈ほどしかないように見えた。

「……きれいだね」

 街の景色を見下ろしたまま、弥生はつぶやく。彼女たちの眼下では、赤や白のちいさな光が、この時間になってもまだ動き回っている。

「私、この街を、上からも下からもよく見るんですが」

 千鳥が、タオルで口元を隠すようにしながら、つぶやく。その状態でも、彼女のはきはきとした声は、よどみなく弥生の耳にも届いた。

「こうしていると、そのどちらにも自分がいるような気がして、不思議な気持ちになります」

 彼女のまばたきが、闇の中で、やけに鮮明に見えた。

「この高台から見下ろす私が、同時に、あのちいさな光の点のひとつになって、ずっと街を歩き回っているような……とても不思議で、おもしろいけれど、すこし恐くもなります」
「恐い?」
「自分が、ちっぽけな光のひとつか、それとも、夜の森に隠れて見えない影か、そのどちらかでしかないような気がして」

 千鳥は、首を振る。彼女の柔い髪は、タオルの布地とこすれ合って、一瞬、大きく揺れ動いた。

「どちらの私も、はかなく消えてしまいそうな気がするんです」

 夜風が身にしみる、という感覚を、弥生はいま初めて、心底から味わっているような気がした。それは、こんなにも寄る辺なく、落ち着かなく、自分がひとりで立ち尽くすしかない瞬間にこそ訪れる、正体なき不安なのかもしれなかった。

 千鳥とおなじように、弥生もぎゅっと、両膝を抱え込む。膝の上で、よそよそしいマグカップが、いまだ湯気を立てている。琥珀色に薄まった液体は、その手のなかでわずかに渦を巻いて、とろとろと揺れていた。

 カップを傾け、ひとくちすする。苦みにもすこし慣れてきたけれど、やっぱり、彼女にはまだ早すぎる。舌の上で、ざらざらとした味が残って、口の中を埋め尽くしそうだ。

 いつか、再挑戦が必要だろう。
 かすかに息を吐いて、弥生はかるく、千鳥に肩を寄せた。防寒繊維がこすれあう、薄い感触。

 千鳥が振り返る。
 彼女の目は、遠くの星とおなじに、指先ほどの輝きで弥生を見つめる。

「私は、ここにいるよ。わかるでしょう?」
「もちろん」
「ひとりじゃないものは、決して消えないよ」

 弥生の声に、千鳥は、吐息程度の微笑みで応じた。繊維越しに伝わる互いの温度は、光よりもたしかに、相手の存在を確かめさせてくれる。千鳥がわずかに身じろぎして、肩をぶつけるみたいにして、弥生に触れた。
 弥生も笑って、じゃれるように、千鳥に肩を押しつけた。
 髪の毛が絡み合うくらいまで、身を寄せ合って、ふたりは、視界を埋め尽くす一面の星をずっと眺めていた。
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