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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第123話「辛いことは、ひとりで呑み込まないでよ。胸が重たくなって、はち切れちゃうから」

 宇都宮(うつのみや)(りん)の家を訪れるのは、はじめてだった。
 八嶋(やしま)(たえ)があいさつをすると、凛の母親はいたく感激した様子だった。翠林生としてはそつのない態度だったつもりだが、それが彼女の琴線に触れたらしい。母親は、妙に、冷えたくず餅と冷茶の乗ったトレイを託して、娘に渡して欲しい、と頼んできた。

 凛の部屋は、2階の奥にあった。ドアをノックして、呼ばわる。

「いま、だいじょうぶ?」
「……うん」

 しわがれたような声がして、ドアの鍵が開けられた。細く開けられたドアの向こうから、泣きはらした目の宇都宮凛が、こちらを見た。

「ごめんね」
「何が?」

 妙が首をひねると、凛は自嘲するみたいに苦笑いを浮かべ、妙を招き入れた。

 凛の部屋は、思ったより整頓されていた。別に彼女がずぼらだというのではなく、ここ数日の凛の様子からすると、部屋の掃除なんてする余裕はなかったのではないか、と想像していたからだ。勉強道具はきちんと机に片付けられ、クローゼットの中身もはみ出たりはしていない。
 部屋の真ん中のテーブルには、白い携帯プレイヤーと黒いイヤホンが投げ出したように置かれている。ちいさなイヤホンから、聞き覚えのある音楽が漏れ出て、部屋の空気に静かに染み渡っていた。

「何聴いてたの?」
「……月のうらがわ」

 ひとこと、ぽつりと凛は答えた。妙はうなずき、イヤホンをすこしだけよけて、テーブルにトレイを置いた。冷茶に浮いた細かな茶葉が湯呑みの中で渦を巻き、くるくると踊る。

「お母さん、心配してたよ。ちゃんと食べてる?」
「平気。私がちょっと落ち込むと、すぐに慌てるんだから」

 凛はそういって、くず餅をつまむ。飴のようにとろりと伸びて曲がるお餅をぱくついて、うれしそうに目を細めた。妙も凛の向かいに座って、くず餅をいただく。ひんやりとした甘味が、口の中に行き渡っていく。なんだか、ほっとする味だった。
 くず餅を飲み下すと、妙は居住まいを正して、凛を真正面から見つめた。ぼさぼさの髪、化粧っ気のない顔はふだんとさほど変わらないけれど、今日は唇さえ手入れを怠っているようで、下唇がわずかにひび割れていた。エアコンで乾燥した部屋に、ずっとこもっていたのに違いなかった。

「妙さんも、心配してきたの?」

 その荒れた唇の隙間から、かすれた声が漏れ出る。

「まあ、ね。あの後、しばらく会ってなかったし」
「……気にしなくていいのに。ぜんぜん、平気だから」

 凛のことばは、しかし、ちっとも元気そうではない。くず餅を半分つまんだままの指先も、力なくテーブルの上に崩れ落ちてしまいそうだ。
 イヤホンから、あのときの歌が、ずっと響き続けている。

 1週間、妙は、凛の好きな人の名前も聞かされていない。

「辛いことは、ひとりで呑み込まないでよ。胸が重たくなって、はち切れちゃうから」
「……妙さんも、そんなことあったの?」

 低い声で問われて、答えに窮する。
 妙の悩みなんて、クラスでの人間関係や、成績、あとは体のことぐらいだ。苦しいことがあれば、ほどよくぼかしてネット上に匿名でことばにして、当たり障りない慰めのことばを受けて、どうにかごまかし、やり過ごす。そういうやり方で、妙は切り抜けてきた。

 凛の感じている、身を焦がすような恋心を、妙は知らない。

 ことばを発せない妙を、凛は細い目で見つめる。左手でそっと、半透明の湯呑みを手にとって、冷茶をひとくちだけすすった。
 わずかに湿らせた左手の人差し指を、凛はテーブルの上で踊らせ、凛と妙のあいだに凸凹の線を描く。その線は一瞬で、点々とした水滴に変わり、蛍光灯の光を反射して震えた。

 水の上で、変わらず、音楽が鳴り続けている。

「……聴いてもいい?」

 イヤホンを指さして妙が訊ねると、凛はうなずいた。妙は、右の方だけイヤホンを手に取り、耳にはめる。
 流れてきたのは、あの夜のライブで聴いた曲。「月のうらがわ」。

 ちりちりとしたノイズと、かすかに聞こえる観客の歓声、そしてスピーカーのハウリング。おそらくは、ライブでの音源を録音したものなのだろう。いまにものどが潰れそうに擦れるボーカルが、生演奏の切迫感をひしひしと伝えてくる。一瞬とちるギターや、すこし走り気味のドラムも、一度しかない貴重な揺らぎだった。

 けれど、それでもなお、妙の耳にその音は臨場感をもたらさない。
 あの夜の音、圧力、衝撃、そのすべてが足りなかった。

 それとも、大切なものが足りていないのは、自分のほうなのだろうか。

「……その曲は、私だけの曲だよ」

 いたずらっぽく、凛は笑った。

「私だけを遠くに連れて行ってくれて、私だけを、この世界の果てに置き去りにするの。そして、私をずっと、ひとりにする」

「……凛さん」

 ふざけるな、と、切って捨てることは簡単だったかもしれない。
 妙はここにいて、凛の助けになろうとしている。その手を無碍に振り払うなんて図々しい、と怒ることだってできた。

 あるいは、拗ねて閉じこもった凛を優しく抱きしめることもできたろう。彼女を孤独の底から救い出すだけの力が、自分にあるかどうかわからなくても、その努力だけはできたかもしれない。

 けど、その何もかも、凛をほんとうに助けることにはならない気がした。

 テーブルの上に残された左のイヤホンに、凛の指先が触れる。桃色に染まった爪が、かつん、と音を立てた。
 そのまま、凛はテーブルに自分の頭を横たえる。磨かれた天板の上に、彼女の面差しが写る。溺れるように、浸るように、その憂い顔は黒い水面の奥に沈む。
 荒れた唇が、かすかに微笑んでいた。

 自ら溺れていくひとには、どんな手も届かない。

 いまの凛は、きっと、自ら決めた恋の海に沈もうとしているのだった。

 音楽の響きを片耳で感じながら、妙は、部屋の真ん中で佇むしかない。彼女のふらふらする両手は、凛には届きそうもなかった。
 でも、いつか、浮き上がる機会は作ってあげたかった。

「……2学期になるより前にさ。一度、会ってみれば? その人と」

 妙のことばに、凛は眉をひそめる。不審げで、まぶしげで、うつろな瞳だった。

「何もしないより、ずっとましでしょう。いつまでもこんなふうに、ひとりで泣いてないでさ」
「……泣いてなんて」
「泣いてないなら、よけい哀しいでしょ」

「……何がわかるのよ」

 ふてくされたようにつぶやく凛を、妙は、こちらこそ泣きそうな目で見つめる。

「わからないけど。わからなくっても、何とかしてあげたいじゃない」

 耳の中を、「月のうらがわ」が繰り返し流れていく。その音は相変わらずずっと遠くて、凛の声の半分ほども彼女の心に届かない。
 この世の果ての音楽より、目の前の友達のほうが、大事だった。

 テーブルの上で、茶葉がゆらゆらとたゆたっている。かすかな波紋が湯呑みの中を行き来して、いつか、消えていく。
 凛の胸の奥に、その聞こえない波音のなごりでも、届いてくれればいい、と思った。
 いつか彼女が顔を上げるときまで、妙は、待ってあげたかった。
「月のうらがわ」のエピソードは115話にて。
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