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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第119話「自分の好きなもの、ちゃんと好きっていうの、初めて聞いた気がしたよ」

 新城(あらしろ)芙美(ふみ)の家の玄関の靴箱をちらりと眺めて、西園寺(さいおんじ)るながいたずらっぽく笑った。

「スニーカー、買った?」
「……まだ2足」

 もともと持っていた1足と、あとは、るなといっしょに買いに行った1足だ。いつもだったら目にも留めないような、スマートでスポーティなデザインで、どうにも使いにくくて数えるほどしか履いていない。
 そういう事情を、たぶん一瞬で察したのだろう、るなはじっと芙美を見つめてくる。甘えるような、責めるような、微妙な目線が、芙美の胸をかきむしる。

「……へーへー、わかったよ。履けばいいんでしょ、履けば」
「ありがとねえ」

 にんまりしたるなの目が、玄関の脇に据えられたシューズボックスに向けられる。自宅の靴箱をじろじろ見られるのは、なんだか恥ずかしい。家族の靴には家庭の事情がすべて現れる、というから、靴箱を見られるのは家の中をのぞき見られるのに等しいのだ。
 履き慣れない靴を取り出しながら、ひょっとしたらるなは、芙美の家の靴を見に来たのかもしれない、と、思った。

 るなの来訪の名目は、昨夜のお詫び、ということだった。
 結局、1時間ほど他愛ない話をして帰り、親にもバレずにすんだのだけれど、夜中に芙美を誘いだしたことには変わりないから、というのが彼女の説明だった。そのくせ、芙美の両親に挨拶するときには、昨夜のことはおくびにも出さなかったのだから、そんなのはいいわけにすぎないのが明らかだ。
 そして、翠林の生徒らしい慇懃な態度で両親と会話した後、るなは、いっしょにお昼を食べよう、と芙美を連れ出した。

 昼下がり、1日でいちばん暑い時間。家の前の道路からは、夜の神秘に満ちた魅惑的な空気など一掃されていた。代わりに、うっすらと陽炎がたちのぼって、あらゆる景色が幻に変わってしまいそうな、くらくらする幻惑感が漂っている。
 芙美のすぐそばで、まっすぐに背筋を伸ばして歩くるなのたたずまいだけが、いちばん現実に近い。

 何度見てもおどろくほど細くて白い腕も、ピンで留めた髪の下の半分だけ出したおでこも、わずかに反った鼻筋も、消えてしまいそうに薄い色の瞳も、ほんとうにそこにいるのだ。
 ときどき、そのことが信じられなくなる。
 知り合えば知り合うほど、西園寺るなのことが、幻のように思える瞬間が増える気がする。

「どこ行く?」

 ちょこん、と首をかしげてるなが問う。間近から視線を向けられることに、すこしも恥じらいを抱いていないような、余裕ぶった態度だった。

「近くにパスタがおいしいお店があるの。ちょっと裏道に入ったとこなんだけど」
「オッケー。連れてってよ」

 るながそういいながら、自然に手を差し出してくる。芙美は、その手を取っていいのかどうか、数歩、迷う。同い年の女の子の手をとるなんて、小学生低学年のころ、まだ叶音を引っ張る側だったころ以来だ。
 あのころのちいさくて丸い手と、西園寺るなのほっそりして折れそうな手を握るのとでは、力加減も、覚悟も違う。

「おいおい、そんなに意気地ないの?」

 逡巡していた芙美に、るなが挑発するようにいう。それで、頭の中で何かがはじける音がした。

「うっせ!」

 芙美はるなの手を乱暴につかんで、早足に歩き出す。かるいスニーカーは歩きやすく、まるで自分で勝手に進んで行くみたいに、芙美の体を前に前に運ぶ。その速度に引きずられるような心地で、るなの手を引く。

「あはは、もっと一生懸命引っ張ってよ」

 それでもるなは、むしろ楽しそうに笑いながら、芙美のすぐ後ろを早足でついてくる。

「やってるよ!」
「ねー、前にさあ」
「何?」
「芙美さんが近所のおばちゃんで、私がセントバーナード、みたいなことあったよね」
「あったあった」
「いまは逆だね。芙美さんが、猛犬みたいに私を引っ張ってる」

 ふたりの速度は次第に上がっていく。真夏のアスファルトに、ふたりぶんのスニーカーの足音がこだまのように高鳴る。芙美は、ほんとうにテンションの上がった犬みたいに、るなの右手を引っ張っていく。
 ふたりのあいだに生じるテンションが、腕のあいだにぴんと張り詰める。右手と右手が、きつく握られる。
 急かすような足音の響きが、芙美の胸の奥から、笑いの衝動を引き起こす。

「あは……あはははは!」

 自分の中に、こんなふうに笑える回路がまだ残っているなんて、思いもしなかった。殺人的な暑気も、周りの視線も、恐がりな自分も、気にならなかった。
 強く伸ばした腕の先に、るなの存在を感じるだけで、何もかもが吹き飛んでいく。

「ね、道、こっちで合ってるの!?」
「合ってる合ってる!」

 いい加減に請け合う。でも、道なんて覚えてるから、どっちでもいい。ちょっとくらい回り道しても、最後には目的地に辿り着ける。
 それまで、手加減なしに遊んでいたい。
 右に曲がり、左に曲がり、ぐるぐる回る。通りすがりのお年寄りが、ふたりの勢いにびっくりした顔をする。道端に落ちていたセミが、自分の役目を思い出したみたいにふいに鳴き出す。

 るなの笑い声が聞こえてくる。彼女だって、とっくに回り道していることに気づいているだろう。でも、その笑いはひたすら明るく甲高く、夏の空に突き抜けていく。

 ふたりの笑いが、ぐるぐると、街路の彼方で渦を巻いていた。


「……死ぬ」
「……死なないでよ」

 洋食屋の入り口にも届かないままに倒れかけた芙美を、るなが後ろから支える。全力でダッシュしたふたりは、息も絶え絶え、汗びっしょりだ。
 ずっと握りしめていた手には、ひときわ重たい熱がこもっている。

 どちらも体力のないふたりは、それからしばらく、ドアの前で死にかけていた。
 迷惑だったか心配だったか、ともかく店の人に導き入れられて、ふたりは店の奥の席に落ち着いた。お冷やを一気に飲み干して、ようやく、ひといき。

「……パスタ、食べる?」

 思わず、芙美は間抜けなことを訊いてしまった。息が荒れて、体がほてって、さっきまでの空腹がすっかり吹っ飛んだような気分のせいだった。

「食べるよ、そりゃ」
「……んなら、おすすめはアラビアータ。トマトがおいしい」
「じゃあそれにする。芙美さんもいっしょ?」
「私は……カルボナーラ。親とかあんまり食べないけど、私はそっちの方が好き」

 芙美がそういうと、ふいに、るなが微笑む。芙美は眉をひそめた。

「どしたん?」
「芙美さんが、自分の好きなもの、ちゃんと好きっていうの、初めて聞いた気がしたよ」
「……そうだっけ」

 るなの勘違いのような気もするが、いわれてみれば、そうかもしれない。芙美の前にいると、いつも彼女の迫力に押されて、自分の意見をいったりできないでいたようにも思う。
 夏の渦の中で溶け合って、ようやく、ことばをちゃんと発することができるようになったのかもしれない。

 ガラスのテーブルの上に、ちょこん、とるなが指を乗せる。ゆるく組まれた両手は、全力疾走の熱をまだ残しているみたいに、うっすらほてっている。
 2本の人差し指が、ぴたりと、芙美をさしている。

 るなの視線が、こちらに照準を合わせる。

「私のことは?」

「……恥ずかしいこと訊くなよ」
「恥ずかしいことでもちゃんと喋ってよ」

 そういうるなのほうこそ、芙美に何もかも喋らせようとしている。それで、自分はちょっとだけ上に立って、安心しようとしているのだ。
 そんなの、許さない。るなも、芙美とおなじ地平に立ってくれなくちゃ、許せない。

 テーブル越しに手を伸ばして、芙美は、るなの両肩に手をおいた。彼女の細くて薄い肩が、一瞬、頼りなげに揺れた。

「私は好きだよ。るなさんのこと」

 そう告げて、ほんの数ミリ、彼女の体を引き寄せる。

「るなさんこそ、聞かせてよ。私のこと」

「好き」

 ぽつり、ひとこと。
 それは、ふだんの西園寺るなにはまったく相応しくない、うつむきがちの、消え入るような、かすかな声。
 しかし、芙美の耳には、それはくっきりと届いた。ちいさな響きが無限に頭の中にこだまして、一瞬、芙美には何も聞こえなくなる。

 ずるい。勝てない。るなには、どうしたってかなわない。
 心地よく負けを認めて、芙美は、泣き笑いみたいな顔で、ずっとるなを見つめていた。
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