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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第115話「すごく刺さった。あの曲が。」

 半地下のライブハウスから、短い階段を上って外に出て、大気が膨れ上がるような夜風を顔に浴びて、八嶋(やしま)(たえ)は大きく両腕を上に伸ばした。ライブの開始前はまだ明るかった空も、もう完全に夜の色に変わって、点々とまたたく星がビルの看板の明かりと拮抗していた。
 彼女の後ろから、足音がする。宇都宮(うつのみや)(りん)の足取りはひどくゆっくりで、コンクリートの階段を一歩一歩、存在を確かめるように踏みしめていた。
 振り向いて、妙は、凛の顔を見る。階段の横の壁に掛かった白いライトが、呆然とした彼女の表情を際だたせていた。

「よかったね、ライブ」

 妙が声をかけると、凛はこくりとうなずくだけ。その反応の鈍さは、不満があるのではなく、むしろ感情を揺さぶられすぎた反応なのだろう、と妙は想像する。

 もともと、このライブに誘ってくれたのは凛のほうだった。同じバンドが好きなふたりだが、どちらかというと妙はネットや動画で情報を集め、凛は現場に足繁く通うタイプだ。今回は、件のバンドとイベントで対バンしたグループのソロライブだった。音楽性も近いし、きっと妙も気に入る、と凛は太鼓判を押した。
 凛の期待したとおり、妙は大変満足した。おそらく今夜は、ブログに載せるための数百行を下らない長文を書くために徹夜するだろう。頭の中で、イベントの空気と音楽を表現するためのことばが、次々に浮かんでくる。
 いまから駅に駆けだして、いや、それともこの場でスマートフォンで下書きを、などと、妙は考えていた。

 その目の前で、凛が、すとんとその場に座り込んでしまった。

「……凛さん?」

 しゃがみ込んだ凛は、膝を抱えるようにして、ジーンズの破けた裾へと目線を落とし、動かなくなってしまう。ぼさぼさの髪が、ライブハウスの熱気と汗でくったりと凛の顔にまといつき、表情を覆い隠していた。

「凛さん、危ないよ。出てくる人の邪魔になる」

 妙が腕を引くと、凛はすこしだけ体を持ち上げて、巨石が転がるようによたよたと数歩脇によけた。
 しかし、それでも、立ち上がる気配はない。

「大丈夫、凛さん? 疲れた? 飲み物、何か買ってこようか?」

 もぞっ、と凛が首を動かしたのを、妙は同意だと判断した。

「ちょっと待ってて」

 いい置いて、妙は道路の向かいにあった自動販売機から、甘い炭酸とオレンジジュースを買った。凛にオレンジジュースを手渡すと、彼女は無言でそれを開けて、ちびちびと飲み始めた。
 妙は、炭酸の刺激を口の中で浴びながら、そんな彼女の姿を横目に見ていた。しばしば、凛が言葉足らずになって、うまく人に気持ちを伝えられなくなることを、妙は承知している。

 それにしても、こんなに固まった姿を見るのは、初めてかもしれなかった。

 熱とざわめきをまとった人の流れが、まばらに階段を上がってくる。その中のひとりがこちらに目を留め、出待ちなら裏口に回った方がいい、と忠告してくれた。妙は、そういうのではない、と返そうとして、結局、ただ感謝の言葉だけ返した。彼らはかすかに笑いながら、夜道を去っていく。
 バンドのファンは、妙たちよりすこし年齢層が高く、男性が多いようだった。たしかに、演奏の激しさやヴォーカルの女性のクールで人を寄せ付けない美貌は、男性をひきつけてもおかしくない。

 けれど、彼女たちの歌詞に宿った世界は、少女たちのもろさや悲しさに共鳴し、それを救い出そうとしてくれるものだった。

 知恵の回る子たち、撫子組でいえば範子あたりにいわせれば、歌詞や物語の世界が自分たちのためにあるのだ、と受け手に錯覚させるのが送り手のテクニックだ、ということになるのだろう。
 けれど、理屈や技はどうあれ、あの歌詞、ステージからこの世の果てまで響かせるようなヴォーカルに、妙の心は共振した。それが、ほんとうのことだと思う。

 ぱた、と、何かが落ちる音がする。
 妙は視線を右下に向けた。凛のつま先のそばに、ちいさく黒い、雨粒のような染みがあった。

「……っ」

 それは、凛の涙だった。彼女は声を押し殺し、背中をひくつかせ、静かに泣いていた。

 声をかけようとした。でも、そうしたら、凛が本当に号泣してしまいそうだった。この路上でそんな事態にはしたくなくて、妙は立ち尽くした。
 そうするうちに、涙は幾粒もアスファルトに落ちた。手の中のジュースの缶まで、いっしょに落ちてしまいそうだった。
 妙は、体を前に後ろに傾ける。声をかけようとして、やめて、でも放っておけない。土台、泣いている女の子を相手にするなんて、誰にとっても難しいのだ。

 ライブハウスの奥から、残り火のようなざわめきが聞こえた。

「月のうらがわ」

 ぽつり、と、凛の声がした。

 問い返しかけて、妙は察した。さっきのライブの、最後から2曲目。客とメンバーが燃え尽きる直前の、最後の火花を放つ瞬間に投げ込まれたような、炸裂するような曲だった。

 ギターの轟音と、ほとんどブラストビートといっていいような荒々しいドラム、そして、ほとんど嗄れた声で怒濤のようにがなり立てたヴォーカル。

 そこに載せられた歌詞は、ひどく繊細で、臆病な、恋の歌だった。

 凛は、小声でつぶやき続ける。

「すごく刺さった。あの曲が。でも、どうしてだかわかんなくて」

 涙がまた、一筋落ちた。

「ほかにもラブソング、いっぱいあるのに、なんでそれ、1曲だけなのかな、って。わからなくて、わからなくて。気が遠くなるくらい考えてて」

 妙は、凛のかそけく響く声を、懸命に聞いていた。
 ひざを曲げ、耳をそばだて、けれど一言だって邪魔しないように、声を殺し、呼吸さえ抑えていた。
 でないと、そのことばは、夜の底で拡散してしまいそうだったから。

「きっと、同じ恋をしてる」

 すっ、と、針が刺さるように、凛の声は妙の耳に届いた。

 握りしめすぎて、白くなった凛の指が、震えていた。

 妙も、自分の右手の手のひらに、中指の爪が深く食い込んでいるのに気づいた。
 恋、というその単語は、それくらい、強く少女をえぐる。

 だけど、と、妙は思わずつぶやきそうになった。

 あれは、あんまりにも遠い、報われない恋の歌だ。
 青くて土の色をした地球から、まっしろな月のそのまた向こう、誰の目にも見えないちいさな星のような相手を探し求める歌だ。

 それは、とてつもない遠くにいる相手を思うことか。
 それとも、可能性のない相手を思うことか。

「きっと私のことなんか眼中にもない。私なんか通過してくだけ、ほんとうに大切な相手はきっとほかにいる。わかってても、苦しくて」

 遠心力の彼方へ、と、彼女らは唄った。

 そんな速度は出せない少女たちだから、彼女たちは、その歌詞に心を震わされる。

 凛は、まるで地球に引きずり落とされる人工衛星みたいに、がくりと頭を垂れた。膝の間に、額がぶち当たる、鈍い音がした。かすかな呻き声が、泣き声に変わった。

 妙は、それでも何もいわずに、彼女のそばに寄り添った。
 ブログのための数千字のことばをいくら寄せ集めても、きっと、凛の気持ちには1ミリも届かない。いまの凛のために、妙はひとことだって発せられない。無力さに、彼女のほうが泣きそうになる。

 でも、妙はそこにいる。わずかな体温と、呼吸だけでも、凛に寄り添えることができればいいと思った。
 星とおなじ孤独に苛まれるよりは、せめて、すこしでも、誰かがいたほうがいいから。
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