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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第112話「奴が出た。その事実で充分」

 この炎天下に、ぶるぶる震えながら姿を現した佐藤(さとう)希玖(きく)を見て、ドロシー・アンダーソンはあきれてかぶりを振った。住宅街の真ん中で、唇まで青ざめて、ついでにシャツをジャージの裾から半分はみ出させている彼女の姿は、なんだか誘拐犯から逃げ出してきた人質みたいに見えた。

「大げさすぎるのよ、おきくは」
「だって、だって、ほんとに心臓止まるかと思ったんだから。あの、黒い影が、こう、すーっ、て」
「やめて」

 ドロシーは右手を伸ばし、希玖の口を手のひらでふさいだ。むぐぐ、と希玖がうめくのを、ドロシーは険しい目で見すえる。

「くわしい話なんか聞きたくないの。奴が出た。その事実で充分」

 ナイフのように冷たく平坦な声で、ドロシーは告げる。こくこく、と希玖はうなずいて、ドロシーの手から逃れた。
 それから希玖は、恐る恐る、という様子で目配せをしてくる。ドロシーは、無言でうなずいた。お互いの意志ははっきりと伝わったものと、ドロシーは確信した。
 ふたりとも、あのすばしっこくて黒い生き物には、1ミリとて近づきたくない。
 その鉄のように冷たく固い意志を共有し、ドロシーと希玖は並んで歩き出した。

「お昼食べれるとこ、探さないとね」
「財布は持ってきた?」
「……忘れた」
「仕方がないわね」
「だって、慌てて出てきたんだもん……」

 ドロシーが横目でにらむと、希玖は気弱げにつぶやいた。とはいえ、希玖のそのときの心情を考えれば、彼女を責めるわけにもいかない。
 お昼時で、揚げ物の下ごしらえをしていたときに、奴が出没したのだという。背筋も凍る思いで、希玖は着の身着のまま家を飛び出し、ドロシーに助けを求めたわけだ。スマートフォンを持ってきただけでも上出来というべきだろう。

 希玖の服装は、いかにも部屋着という感じの素っ気ないシャツとジャージ、それに適当に引っかけてきたとおぼしき茶色のクロックス。身だしなみに気を遣う希玖にしてはずいぶんラフな格好で、それが、ドロシーには新鮮だった。

「慌てすぎよ。ほら、シャツしまいなよ」

 最初からずっと気になっていた、はみ出たシャツの裾に手を伸ばす。ドロシーの手が近づくのに、希玖はびくっとして飛び退く。

「だいじょうぶ! 自分でやるから」
「そう?」
「子どもじゃあるまいし……」

 うつむいて、いそいそと両手でシャツをしまい込む希玖の仕草は、秘密をばらされた子どものようだった。丸く縮こまる彼女の背中を、ドロシーは引っぱたいてやりたかったけれど、これ以上驚かせたらほんとうに希玖の心臓が止まってしまいかねない。

「ていうか、油とか火にかけっぱなしじゃないよね? 家ごと燃えたらただ事じゃないわよ」
「それは大丈夫なはずだけど。火は使う前だったし」

 つぶやきながらも、希玖は不安そうに眉をひそめる。彼女の柔弱な態度は、いつものことではある。

「でも、なんだか久しぶりな気がするわね、おきくに会うの」
「そうだよ、久しぶりなの。8月に入ってからは初めて」
「そうだったかしら?」

 思い返してみると、たしかにここ1週間以上、希玖の声を聞いていない。
 首をかしげていたドロシーに、希玖は不満げな目線をぶつけてくる。

「薄情よね、ドロシーさん」
「そんなつもりはないのだけど。おきくのこと、忘れてたわけでもないし」
「声をかけてももらえないなら、忘れられてるのといっしょだよ」
「そんなにいうなら、自分から話しかけてくればよかったでしょう。そっちこそ、私のことなんかどうでもよかったんじゃない?」

 はっ、と、希玖は、ドロシーに食ってかかろうとするかのように大きな口を開けた。一瞬、桃色の舌が唇の奥にのぞく。
 けれど、希玖の発しようとした声は、結局言葉にならなかった。ため息をついて、希玖はうなだれる。

「……どうでもいいこと、ないよ」
「わかってるわよ」

 歩いているうちに、ふたりはマンションの並ぶ白い住宅街を抜けて、古い下町の景色の中にいた。たまに散歩してみると、年月に晒されて風化したオブジェや、工事か何かで無用の長物になった階段など、よくわからない風物が立ち並んでいて、面白い場所ではある。
 ただ、昼ご飯の場所を探すのに向いているかというと、それはわからない。

「おきく、何か食べたいものある?」
「んー……さっきまで唐揚げ作ってたし、揚げ物の気分かなあ」

 うなずいて、ドロシーは視線をめぐらせてみる。小ぎれいなパン屋や、品の良さそうなカフェが目に入るが、なんとなくしっくり来なかった。希玖の様子を横目に見ると、彼女もさほど心惹かれていないようだった。
 おなかが空いているときほど、意外とぴんとくる店がない。

「あそこの定食屋さんとか」
「……あれ、空いてるの?」

 その店の軒先には、薄汚れたガラスケースと古びたサンプルがあって、いちおう値札もついている。しかし、年季を感じさせる引き戸はわずかに傾き、長らく開け閉めされていないような気配を漂わせていた。
 結局、ふたりはその店の前も通り過ぎた。

「……どうする?」
「もうちょっと行ってみる?」

 ふたりで、そっとうなずき合う。
 通りを進んでいくと、だんだんと通りは狭く入り組んで、空は薄暗くなるように感じられた。立ち並ぶ家々の壁はいっそう薄汚れ、空き家の割れた窓の奥に、片付けられていない家具が見える。
 半分飛び出したタンスの抽斗から、ドロシーは目をそらす。何か、ひどく見てはいけないものを見たような気がした。

「こんなところ、お店なんてないんじゃない?」
「かもね……」

 そういいながらも、引き返そう、という提案はどちらからも出なかった。なんとなく、そのまま進んでいかないといけないような気がしていた。目に見えない圧力に背中を押され、ドロシーの足は、ふしぎなほど迷いなく前に進んでいく。
 自分の足が、自分のものでないような、危うい心地。

 ふたりの目の前を、黒い何かが通り過ぎた。はっとして目をやれば、猫だ。

「不吉……」

 希玖がつぶやく。ドロシーは無言で、その背中を小突いた。逃げてきたつもりが、よけいに悪いものにぶち当たってしまった。
 拳を希玖の背に押しつけながら、ドロシーはそのまま、彼女に寄り添う。そうして初めて、体温が下がっていたのに気づいた。希玖の体がなんだか、とても頼りがいのある、ぬくもった布団のように感じられた。

「……ドロシーさん?」
「ちょっとの間、こうさせて」
「ん」

 目線をそらしながらのドロシーのつぶやきに、希玖はあっさりとうなずいてくれた。そのことが、ひどく彼女を安堵させた。

 それから50メートルほど歩くと、ふいに通りが大きくひらけた。まばゆい夏の日射しに、一瞬ドロシーの目がくらむ。同時に、自分たちがやけに暗い空間にいたのだ、と気づく。
 角にあったちいさな蕎麦屋に、どちらからともなく飛び込んだ。店の主であろう老夫婦が、おだやかにふたりを迎えた。ふたりして熱々の蕎麦を頼むと、店主はおにぎりをサービスしてくれた。
 どうしてだか、こんな真夏日でも熱いものがよく売れるのだ、と店主はいった。

「……結局、唐揚げは食べそびれたね」

 いたずらっぽくドロシーがいうと、まあいいよ、と希玖は笑う。おにぎりとお茶を口にして、ほっと息をついた希玖は、内緒話の声でドロシーに告げた。

「正直、ちょっと恐くて、楽しかった」

 ひそひそ声が耳をくすぐり、ドロシーも笑った。
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