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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第108話「自分じゃぜんぜん用事を作れないんだもんね」

 開け放たれた門の向こうから、庭先をのぞき込む気配がする。軒先に並べたプランターのそばに座り込んでいた阿野(あの)範子(のりこ)がそちらを見やると、真木(まき)(あゆみ)が笑っていた。

「珍しいね、範子さんが日なたにいるなんて」
「人を吸血鬼みたいにいうな」

 範子は、そばに置いてあったベースボールキャップをかぶり直して立ち上がる。我が物顔で庭に上がり込んできた歩は、夏の日中にふさわしいラフな格好で、日差しのまぶしさにいささかも劣らない晴れやかな笑顔だ。
 範子のほうは、変な柄のTシャツに学校指定ジャージの下だけ履いた芋臭い格好だ。ジャージは膝丈の上まで折り畳んで、足下は父から借りた古びたサンダル。家の中だし、歩の前なら、かっこつける必要もない。

「意外と似合うね、ポニテ」
「そんなかわいいもんじゃないよ。邪魔だから結んだだけ」

 ふだんは首もとあたりで切りそろえている範子の髪は、そろそろ肩に届くくらいに伸びている。暑さのせいで切りにいくのもおっくうになって、よけいに暑苦しくなってしまう悪循環だ。
 今日は作業のために後ろでくくっていて、首筋に解放感がある。しかし肌を直射する日差しは鉄板を焼く炎のようで、涼しいかといわれると微妙だった。

「何してたの? ひとりで野球?」
「小学生じゃあるまいし。花壇の世話だよ」

 母が趣味で育てているプランターの植物は、いまはまだ青々とした葉を茂らせているだけ。秋になれば、色とりどりの花が咲き、ついでに野菜もちょっとは採れるはずだ。母はこういう、家の中でこじんまりと続けられる趣味が好みだった。範子がインドアになったのも、彼女の性格がより極端に進んだ結果のような気がする。

「仕事で手が離せないから、代わりにやっといてって、母さんが」
「そんなの朝の内にやっとけばいいのに」
「寝てた」

 休みとなると、どうしても夜中まで本を読みふけってしまって寝るのが遅くなる、というか昼夜がひっくり返りそうになる。今日だって、親の指示がなければ、夕方まで寝ていたかもしれない。
 歩はにやにや笑いながら、範子のそばまで歩み寄ってくる。彼女の足下には、細長いホースが蛇のようにとぐろを巻いて横たわっている。さっきまでプランターの水やりに使っていたものだ。

「じゃあ、目を覚ましたほうがいいかな」
「……ちょ、待って」

 範子が制止したときには、もう、歩の手の中にはホースが握られている。飛びつこうとした範子の手を魔法のようにすり抜けて、歩はホースの根本の蛇口に手をかけた。

「いぇーい」

 しゅわーっ、と、噴水のようにホースから水が噴き出して、範子を直撃した。


「あんたはまったく頭いいのにバカなんだから……」

 びしょぬれになった髪をほどいて、範子は悪態をついた。上から下まで濡れ鼠で、軒下にうずくまってTシャツの裾をしぼる。
 歩のほうも、頭から水滴を垂らして笑っている。範子だけでは不公平だ、といって、自分で水をかぶったのだった。歩の考えの理路は、ときどきよくわからない飛び方をする。

 歩の薄いカッターシャツがしっとりと濡れて、胸の上の斜面にぴたりと貼りついている。ほっそりした身体の形が露わになっているのも意に介さない。
 頭を左右に振って、歩は毛先の滴を払い落とす。

「いいじゃない、涼しくなったでしょ?」
「蒸し暑いだけだっての……」
「そんな軒下でうずくまってるからいけないんだよ。日当たりいいとこなら一瞬で乾くって」

 いう間に歩は範子に近づき、その腕をとる。

「ちょっと、やめてって」
「何、やっぱり日光浴びると蒸発しちゃうの?」
「じゃなくて! こんな格好で明るいとこ出たくないの!」

 シャツどころか下着まで濡れた状態で、立ち上がれば体型が丸見えになってしまう。塀はあるから表からは見えないかもしれないけれど、それでも恥ずかしいことには変わりない。
 女子校育ちだからといって、羞恥心が育たないはずはない。無頓着な歩がおかしいのだ。

 いやがる範子を、歩は逆にいっそう強く引っ張る。こういうところが、ちっとも大人になっていないのだ。体ばかり大きくなって、背丈が高くなっても、真木歩の中にはずっと、幼い子どもがいる。

「やめてって、ほんとに」

 強いて醒めた声を発し、範子は歩を突き放すように押した。諦めて手を離した歩は、つまらなそうな顔をして、肌に貼りついたシャツの裾を引きはがし、ぱたぱたと服の下に空気を流し込む。
 一瞬、真っ白なおへそが見えて、範子は眉をひそめる。歩の濡れた肌は、ほんとうにまたたく間に乾いたようだった。へその窪みにわずかに溜まった水滴が、ひとすじだけすっと垂れて、ショートパンツの下に滑り落ちた。
 パンツから伸びるふくよかな太ももは、はち切れそうに輝いている。特別なことをしているそぶりもないのに、どうしてこんな体型を保っていられるのか、ふしぎでならなかった。

 湿ったシャツと、その下の自分の体を意識する。範子は濡れ髪をざっとかき上げて、水を跳ね散らした。プランターから広がる緑の葉っぱの上で、落ちたしずくが踊る。
 範子も、母も、あんまり真面目に世話をしていないのに、元気に育っているように見えた。たぶん、放っておいても勝手に生長するのだろう。手をかけるのは、ひょっとしたら、単なる自己満足かもしれなかった。

 日射しのエネルギーを浴びているみたいに、歩は両腕を上に伸ばす。一瞬で、数センチも背が伸びたみたいに思えた。

「そうそう、範子さん。試写会のチケットもらったんだけど、行く?」
「いつ?」
「明日」
「また急ねえ」
「でも暇でしょ?」
「うん」
「やっぱり。自分じゃぜんぜん用事を作れないんだもんね、範子さん」

 無邪気に笑う歩を、範子は半眼で見上げる。
 実際、放っておけば、範子はいつまでも家か図書館で本を読んでばかりだろう。自宅と学校と図書館と書店、そんなわずかな地点を結ぶ経路だけを知っておいて、あとは書物で知識を得ておけばいい。

 そんなふうに思っている範子を、経路の外に引きずり出すのは、たいてい歩だ。
 彼女の引く手のテンションが、範子の人生にわずかな変化をくれる。

「夏休みなんてどうせ退屈だし、用事はあるごとに押し込んどかないとね」
「歩さんのそういう生き方、真似できないわ」

 彼女のことだ、どうせさっさと宿題も終えているのだろう。余った時間を楽しむ術を、歩は心得ている。
 そういう生き方すらも、幼いころのままだ。

「で、さ。明日までは退屈なんだけど」

 歩はそういって、ふたたび、日陰の範子のそばで前かがみになる。肌に貼りついていたシャツはとっくに乾いて、ふわり、と垂れる。胸の奥から、歩の肌のにおいがした。
 汗をかかないようにすら思える歩も、当たり前に人間の女の子だった。
 彼女は、幼い笑顔で、歩にいう。

「今夜、泊まってっていい?」
「……勝手になさいよ」
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