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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第104話「人が犬を噛んだ、なんていわれて信じる人いる?」

 仏心を出したのが間違いだった、と、飯塚(いいづか)流季(るき)は後悔するはめになった。

「え、ええっと?」

 駅ビルのざわつくフードコート、流季の座るテーブルのすぐ脇で、子どもが流季のほうを興味深そうに見つめている。流季はしどろもどろに、彼の言葉を聞き返した。
 子どもはぺらぺらと、流暢な英語で答えた。
 早口な上にだいぶ崩れていて、単語がうまく聞き取れない。父親がどうとかこうとか言っているようだが、流季の英語力でははっきりしない。
 とりあえず視線を四方に向けてみるが、子どもを探している父親の姿は見えなかった。どこかのカウンターで注文していて、息子が迷子になったのにも気づいていないのかもしれない。
 流季は子どもに曖昧な笑みを返しながら、どうしたものか、と思案する。彼女の目の前で、買ったばかりのジェラートが溶け始めている。

「わっつろんぐ?」

 そこへ、聞き覚えのある声が現れて、子どもの後ろから話しかけてきた。
 はっと顔を上げると、そこには西園寺(さいおんじ)るながいた。背の高い彼女は、子どもに身長を合わせるように軽くひざを曲げて、トレイ越しに彼の顔を見つめた。

 るなの口から、なめらかな英語が流れ出す。
 流季はぽかんと、今度はるなの顔を凝視してしまった。普段の英語の授業では、るなはこんなに流暢にはしゃべっていなかったはずだ。

 子どもは目を輝かせ、るなに対して何か身振り手振りを交えて説明する。こくこくとうなずいて、るなはまた返答。流季ひとりが置いてきぼりだった。
 やがて、ポロシャツを着た若い男性がこちらに歩み寄ってきて、子どもを見つけて声を上げた。子どもはその男性を振り返って、英語で何かしらやりとりしている。男性は子どもの手を引いて歩み去ろうとしたが、一度るなのほうを振り返った。

「すみません、ご迷惑をおかけして」
「いえ、ご無事で何よりです」

 あっさりと日本語で謝意を示した父親に、るなも迷わず日本語で返した。

 親子連れが去っていくのを、流季は何となく見守る。と、ふたりの行く手に別の子どもが現れて、父に対して抗議している。こちらは日本語。父親もまあまあと、ちょっと年上らしき子どもをなだめながら歩いていった。

「よかった、迷子にならなくて」

 るながつぶやき、流季もうなずく。

「相席いい?」

 サンドイッチとコーラが載ったトレイをテーブルに置き、るなは流季の向かいに腰を下ろした。子どもの相手をしていた時間を補うように、るなはすぐにハンバーガーにかぶりついた。流季も、ようやくジェラートにありつきながら、首をかしげる。

「さっき、何話してたの? あの子と」
「何、ってほどの話じゃないよ。お父さんといっしょにお昼食べるってのと、新しいゲームと攻略本買いに来て、友達のほうが先に進んでてメダルもいっぱい持ってるから羨ましいとか、そういう」
「けっこう聞き出してるじゃない」

 ほんの1分ほどのやり取りで、そこまで聞ければたいしたものだ。英語のなめらかさもさることながら、子どものあしらい方にも長けているのかもしれない。

「そういや、英語うまいね。びっくりした」
「うまくはないよ。しゃべれるだけ」

 るなの答えに、流季はまた混乱する。今度は、日本語の意味までわからない。

「……どういう区別?」
「私の英語なんて、単語をどうにか並べて文章に聞こえるようにしてるだけ。コントに出てくる外国人の日本語と変わらないよ。だから下手なの」
「それにしちゃ、すごくペラペラ喋ってたけど……」
「デタラメでも自信持って喋ったら通じる。意味なんて、雰囲気と断片的な言葉だけでもわかるもんでしょ?」

 なんだか、英会話教室の外国人講師みたいな言いぐさだな、と思う。しかし、さっきの子どもとの意志疎通を見る限り、るなは有言実行で、実際うまくいっているのだろう。

「だから堅苦しい授業は苦手。文法は嫌いなのよ。そんなの、言葉の意味とあんまり関係ないような気がしちゃうのよね」
「えー、でも語順で全然違う文章になったりするでしょ?」
「そんなの、会話の中ならだいたい意味通じるじゃない。人が犬を噛んだ、なんていわれて信じる人いる?」
「いないことはないと思うけど、まあ、レア……だねえ」
「それと、文章読むの自体、なんとなく苦手。聞けばわかることも、文字で書かれると違う気がしてくる」

「ああ、それは、わりとわかる」

 流季がうなずくと、コーラのストローに口を付けたるなが、上目遣い気味にこちらを見た。
 ふだんは20センチ近い身長差も、同じ高さの椅子に座るとだいぶ軽減されてしまう。そのうえ、コップに顔を近づけて前屈みになったるなの目線は、流季の顔よりすこし低い。そんな位置から見上げてくるるなを見るのは、流季は初めてだった。
 一瞬、奇妙な感じを覚えて、流季は言いよどんだ。

「えっと……あたし、音楽ってあんまり聴かなくて」

 そして、誰にも話したことのない告白が、滑り出てくる。

「ふつうに歌詞とか、文章で読めば、いい歌なのかな、って思ったりするんだけど。曲、って形で、メロディに乗せて歌われると、とたんにピンと来なくなっちゃうのね」

 ポップスやロックの類でもそうだし、童謡や合唱曲でも同じだ。
 文章や話し言葉として聞くのと、音楽として聞くのとでは、同じ言葉でも別のものに聞こえてしまう。そして、歌として唄われる言葉は、ただ音の羅列として耳を通り過ぎていく。そんな経験を、流季は何度もしてきた。
 音楽をふつうに聴いて楽しんでいる友人たちに、そんな話はできなくて、だからずっと黙っていた。歌詞の意味だけならわかるから、話を合わせるだけならできる。曲の好き嫌いの突っ込んだ話は、適当にかわしてやり過ごした。

 けれど、ときどき、何かむなしい感じがしていた。
 自分のどこかが欠けていて、人と違って、そのせいで楽しむべきものを楽しめない。そういう、疎外された感覚が、流季の奥にはかすかに存在していた。

「なんか、そういうのって、変なのかな?」
「変かもね」

 あっさりと、るなはそういった。流季は思わず目をしばたたかせる。意外な答えに、声が出ない。
 否定してくれるのではないか、変じゃないといってくれるのではないか、と、期待していた。そんな自分に、いまさら気づく。

 そして、るなは、かすかに笑う。

「変なとこあっても、別にいいんじゃない?」

「いいのか……」

 思わず、そんな間抜けな言葉を返してしまった。吐息混じりの声は、何か、胸の奥に引っかかっていた淀みまでも、いっぺんに流し出してくれたみたいだった。

「直感でわからないものは、わからないでほっといてもいいんだと思うよ。話が通じれば、それで」

 そういって、るなはにんまり笑う。

「流季さんは真面目だね」
「……るなさんがいい加減なんじゃないの?」

 言い返して、流季はジェラートをのどに流し込むみたいにしていっぺんに平らげる。冷たさが頭にキンと染み渡って、思わずこめかみを押さえる。顔をしかめた流季に、何してるのよ、とるなはあきれた顔をしていた。
 痛みが収まってから、流季は、ふと思い出して口を開く。

「そういやさ、さっきの子だけど」
「何、私の話はあれで打ち止めだよ」
「お父さんのほうさ、上の子には日本語で喋ってたよね。あれ、何なんだろ?」
「さあ?」
「いい加減だなあ。気にならない?」
「真面目な流季さんが考えてよ、ちゃんとした答え」

 そういわれて、流季はジェラートで冷えた頭をひねる。
 たとえば、じつは下の子は実子ではなくて、ホームステイだとか、知人の子を預かってるだけとか。
 たとえば、下の子のほうだけが英語を勉強してるような環境もあるかもしれない。
 翠林の幼稚部ぐらいになれば、英語学習を推進していたっておかしくはないし。

「……ということは、あの子、じつは女の子だったのかな?」
「そういえば、性別は確認してなかったね」

 しれっとるながいうので、流季は、はふっ、と気の抜けた声で笑った。どうやら、彼女自身もかなりいい加減らしい。そう悟ったら、肩の力がどっと抜けて、流季はテーブルに両肘をついて、ぐにゃりと背中を丸めた。
 そうすると、るなの顔の位置が、いつもとおなじくらいに高くなって、なんだか安心する。

「明日、部活の練習あるんだよね。どうしようかなー」
「サボりたい?」
「逆。いっつもマネージャーだから、たまにはフィールド出てみたい」
「いいじゃない、楽しいよ、きっと」

 無責任に言い切るるなの言葉が、流季の胸にすとんと落ちてきた。頭痛の消えた頭の中で、何かが入れ替わった気がして、流季はしばらくの間、るなのおどけた微笑をずっと見つめていた。
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