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前編

美吉野歌合



 真白を追って京都に発つ剣護を怜は見送った。

 時は師が走ると書いて師走。何くれとなく多忙を人々が抱える時節、怜とて例外ではない。

 花の都、京都で、すわ織田と伊達がぶつかるやも、という局面においても、論文の仕上げ作業に邁進し、勤しまねばならない大学四年の身の上だ。

 兄の剣護はともかく妹の真白が気懸かりではあるものの、将来は日本中世史の研究者になろうと、このご時世には大望と呼べる絵図を抱く怜に、旅行の武者合戦だのと現を抜かす余裕は無い。


 お土産は『よーじや』のあぶらとり紙で良いか、顔が今よりもっとキレ―になるぞ!という剣護の厚意は謹んで辞退した。代わりに東大寺宝物館の千手観音像のレプリカがどこかにあれば買って来てくれ、と返すと、高そうだから嫌だ、と断られた。


 冗談だ。

 好きで学業に埋没する道を選んだとは言え、気儘に動ける剣護が羨ましかったのだ。


 とにかく論文を発表するに、教授陣らを納得させる史料を蓄積してもし過ぎるということはない。

 テーマの骨子への地道な肉付け作業に長大な時間を費やすべきであることを怜は熟知していた。自然、注釈の量は増える。


 普段から殺伐とした男所帯だが、剣護は放出する熱量が人より明るいので、一人になると部屋の電気のワット数が急に落ちたように感じる。その上、華やぎと安らぎをもたらしてくれる上階の真白が不在だ。

 怜は殺風景なダイニングキッチンで梅茶漬けを手早くかき込んで夕食を終えた。

 風呂から上がると、今日は机に向かわず、ベッドに腰を下ろして息を吐いた。

 適当に乾かした髪に暖房の温風が当たり、前髪が数本、ぱらり、と目元に落ちた。

 秀麗なポーカーフェイスの奥には、物憂さが隠れている。

 疲労が溜まっていた。澱のように、彼の鋭敏な脳髄に。

 ベッドの脇の書棚の一段に置かれたガラス瓶を手に取ると、真白の髪より濃い焦げ茶の、艶のあるベークライトの丸い蓋を開けて中からビターチョコを何粒か出して口に放り込んだ。

 フル活用している脳へのささやかな褒賞だ。

 ガラス瓶の下の棚には、今日、大学でコピーした紙の束や文献がまだ未整理のまま、重ねて置いてある。

 怜は一番上にあったコピー用紙をつまみ上げて目を通した。

 「尼子義久(あまこよしひさ)袖半奉行人連署奉書」とある。


 重吉事、今度被遂籠城候、神妙被思召候、然間被成

 御扶持条々之事、


 これは戦国大名・尼子義久が、今では出雲大社と呼ばれる杵築大社の神官であった坪内重吉に、戦における籠城の功を賞し、報酬を与えると告げる書き出しだ。

 永禄七(1564)年、九月二十一日の日付がある。


 坪内重吉は単なる神官ではなく、怜や剣護、真白らの前生の小野家同様に、「御師(おし)」と言う職を有していた。

 御師とは、信仰普及と社への参拝勧誘員を兼ねた職権で、広く回国して商売も行う。

 のみならず、この史料に見られるように、自ら戦塵に塗れることもあった。


 怜自身も前生では、父から厳しい剣術の稽古を仕込まれたものだった。


(余り楽しい記憶じゃない)


 紙片を雑に戻そうとすると、手元を誤り紙と本が雪崩を起こした。


(ああ……)


 自己嫌悪に陥りながらも床の惨状を収拾しようと手を動かすのが怜だ。感情に左右されず建設的であろうとする。


 御師、剣客、丹生都比売、朱器


 それらの言葉が目に飛び込んだのは偶然だった。




 長袖のボタンダウンシャツの襟元を緩め、幅広のスラックスを穿いた両脚を肩幅に開く。

 カーディガンと靴下は置いて来た。


 怜は素足で青銀色の結界内に立っている。彼の創生する結界の基本色は月光のように淡い青銀で冴えた清さがある。だがここで行うことは美術鑑賞ではない。


虎封(こほう)。行くよ」


 怜の言霊に応じ、従順に姿を現すのは黒漆太刀(くろうるしたち)の神器。

 全体が漆黒の拵えで反りは高く細身。柄は、東京国立博物館蔵の重要文化財である黒漆太刀「獅子王」と同じく、鮫皮に黒漆をかけている。

 目貫はシンプルな真円の銀で闇夜に浮かぶ月のようだ。刀工の違いが顕著になる刃文は波打ちの起伏が少なくなだらかである。

 静謐で自己主張が少ないが滲み出るような美しさと気品がある。

 それでいてなよやかさとは無縁で芯を感じさせるのが虎封だった。

 怜が前生で、元服すると同時に父から貰った太刀だ。

 凶刃に斃れた時も握っていた。


 左腰に虎封を位置づけると、息を吐く。

 吐き切った刹那、銀光を抜刀した。

 鞘を手放して前に飛び進む度に、斬られた風が悲鳴を上げた。

 だだだ、と青銀の地を踏み駆ける。


 鍛錬は剣護と、たまに真白とも行うことがあるが、基本的には自主トレを怜は好む。

 兄妹らは怜の性格を笑って見守ってくれる。掛け替えない存在だ。


 刀を繰る怜の頭には先程、目にした史料があった。無心を心がける中に浮かび上がる。


 それは江戸時代初期の史料だった。

 乱世が輩出した剣豪たちの記録をまとめた物。

 その記述によれば怜たちの前生、小野家の縁戚に剣腕冴えた御師が一人いたらしい。


 名を小野桐峰(おののきりみね)


 大太刀を使った刺突が得手だったとある。相当な技術と腕力を要する筈だ。

 隠者のように過ごしたいと望んでいた彼がある日思い立って、九州は豊後国を目指した。

 当時、彼の国を治めていたのは戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)


 呪われた「朱なる茶器」を追って旅をする桐峰の手には愛刀があった。

 その銘を「丹生(におう)」と言う。



 新幹線で東京から京都まで行き、大和西大寺までは近鉄特急、そこで奈良線の快速急行に乗り換えると近鉄奈良駅に至る。上手く乗り継げば三時間くらいの時間を割くだけで済む。

 奈良はおっとりしているイメージがあるが、気温は東京よりも低いように感じられる。

 怜は駅構内の自動販売機で五百ミリリットル入りのホット緑茶を買った。

 中学校の修学旅行でも訪れた奈良だが、日本中世史的にも興味深い奈良には、社寺巡りが好きなこともあり、怜はしばしば足を運んでいた。


 どんな血生臭い現実も、時に洗われ苔むす程になれば、感慨深く往時を偲ぶ心を呼び起こすものだ。

 怜の目から見て奈良は、野趣のある、美しく苔むした石のようだった。

 駅を一歩出るとますますその感は強まり、トレンチコートを打つ風にも万葉の息吹を感じる。

 東大寺や奈良公園にも歩いて行ける距離だが、怜は奈良町に足を進めた。

 駅の出入り口にたむろしていた女子高生たちが怜を見て、耳打ちしたりはにかむように笑い合ったりしている。


(来てしまったな…)


 卒論を置いて。

 学究の虫がいたずらに騒ぐのを放置出来なかったのだ。

 前生の血縁にあたる剣客御師の存在が、怜をして奈良まで来さしめた。


 出雲国一宮・杵築大社の御師を気にしてなぜ奈良に来たかと言えば、彼が愛刀である丹生を手に入れたのが、大和国――――、現在の奈良県だと史料にあったからだ。

 その江戸時代初期の史料の書き手が桐峰の話を聴いた商家が、まだ奈良町に居を構えているらしい。

 怜は今からそこを目指すつもりだ。


「おお、寒い」

「なあ、かなわんなあ」


 怜の横を通る恰幅の良い中年女性二人が背を丸めて口々に言った。東京では耳にしない、関西特有のアクセントだ。


 商店街を通ってアーケードの下を奈良町まで向かう。上下左右に空気との遮蔽物があるだけで体感温度が上がり、白い息も出なくなる。

 うどん、蕎麦屋、和菓子屋が多い。喫茶店もちらほらある。抹茶専門のカフェがあるのはいかにも古都・奈良らしい。土産物屋も活気がある。

 外国人観光客とすれ違うと何人かが怜を振り向いた。

 嬉しそうに目配せし合いながらアシュラ、の発音を繰り返している。

 興福寺の国宝館で阿修羅像を観た帰りかもしれないが、なぜ自分を見てその単語が出て来るのか怜には解らなかった。


 奈良町は江戸期以降の歴史的町並みが今も残る。

 奈良町、奈良町、と呼び習わされてはいるが、それはこの小規模な区画の通称である。

 広くない一帯に、寺社、資料館、町屋などが立ち並ぶ。

 長閑な外観の郵便局もある。

 怜が歩いているとあちこちで赤くころん、として可愛らしい「身代わり(さる)」を軒先などで見かけた。庚申信仰から来た魔除けだと言う。


 五行、つまり木火土金水。

 十干、つまり甲乙丙丁戊己庚辛壬癸(こうおつへいていぼきこうしんじんき)

 それらと十二支を組み合わせた六十組を、昔は年・方位・時刻を表わすのに用いていた。


 その中で「庚申(こうしん)」、庚申(かのえさる)に当たる日は、人の体内に棲む三尸(さんし)の虫が夜、人が寝ている間に抜け出して天帝に悪行などを密告しに行くと信じられてきた。

 この信仰の為に、人々は長く庚申の日は徹夜して過ごしたのだ。

 「庚申」は青い顔をした金剛童子、青面(しょうめん)金剛の別称でもあり、青面金剛は病魔や病気を払い除く。

 西新屋町にある奈良町資料館には、青面金剛像が祀られている。


 果たしてこの丸い赤ん坊のような飾りを目にする人の、何人がそこまで知っているだろうか、と怜は思う。

 見て心和めば、遠く魔除けにも繋がる気はする。



 目当ての家は、今は町屋を改装したカフェになっていた。

 野暮とは遠い、瀟洒なイメージの入口にもやはり身代わり申はぶら下がっていた。奈良町のイメージ作りでもあろうが、民間信仰の根強さを感じる。

「いらっしゃいませ」

 店内には小さな歌声が流れている。


「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。


 怜も好きな曲だ。真白も好きだ。

 時々、二人で怜の持っているCDを聴く。


 怜より年長に見える女性がにこやかにメニュー表を持って来てくれる。メニュー表は淡く渋い桜色の和紙だ。

(吉野山で漉かれたものだろうか)

 水清き吉野では今も和紙を漉く職人がいる。

 厳寒期であろうと凍るような水に何度も何度も手をくぐらせて、趣の一枚を創り上げるのだ。


「お電話で連絡した、江藤怜です」

 怜は白湯を置いた女性に名乗った。

「あ。はい。聴いてます。すみません、こないお若い男性やとは思わへんで…」

 女性は三組いる他の客のほうに視線を遣った。

 トレイを胸に抱え、うーん、と言う顔をしている。怜は察して口を開いた。

「そちらのご都合の良い時間帯になるまでお待ちします」

「そうですか?そんなら、お願いします、すんません」

 客商売が板についているが、鄙の人の好さが滲み出る女性は、ほっとしたように怜に頭を下げた。二組の女性客と一組の夫婦連れが怜たちの遣り取りをのんびり眺めていた。

 時の流れがそこだけ緩やかになったような、この町のリズムに、彼らも浸っているらしい。

 現在は京都にいる筈の兄妹と、またここを訪れたいなと怜は思った。


 運ばれて来たティラミスは、くどくない甘さでマスカルポーネチーズの酸味も爽やかだった。微かに香る、白ワイン。

 濃く点てられた抹茶とよく合った。

 昼食は新幹線車内で食べたが、丁度、甘味が欲しいところだったのだ。


 抹茶の入っていた茶碗を見る。

 生成り色の釉薬がかかった、素朴な風合いだ。表面にひびの入った貫入が、持つ手にざらりと感じられた。


 史料によれば桐峰の追っていた「朱なる茶器」は、赤い油滴天目茶碗だったようだ。

 侘びさびの尊ばれた茶道の世界で、「血の滴るが如き」茶碗はさぞ異形視されたことだろう。

 森閑とした中に潜む赤鬼のように――――――。


「お待たせしました。祖父母がお話します、どうぞ、お上がり下さい」


 客が怜一人になった頃、先程の女性が声をかけて来た。彼女は店のドアの外に出ると下げていた木の札を「OPEN」から「CLOSE」に引っくり返した。

「すみません、お仕事の邪魔をして」

「いいえ、良いんですよ。さ、どうぞ」


 店より奥、町屋ならではの細く長い通路を抜けて通された部屋は古風にも火鉢で暖められ、中央には炬燵があった。

 その炬燵に道祖神が並んで座っている。


 そう見えたのは怜の目の錯覚で、どうやらこれが「祖父母」らしい。


(…どっちが祖父でどっちが祖母だ?)


 並ぶ二人は双子のようにそっくりで、顔には皺が刻み込まれている。男女の判別が非常にし辛い。長年、連れ添った夫婦は似て来るとは言うが――――――。

 金さんと銀さんのようだ。


 彼らの片方が言葉を発した。

 だが訛りが強い上に早口で、怜には聴き取れない。

「ようこそお出でなさいました、と言っております」

 孫となる女性の通訳は有り難かった。

 すると今度はもう片方、祖父か祖母かが喋った。

 ――――――やはり聴き取れない。



 彼らの話は奈良町自慢から自分たちの家がいかに由緒正しいか、公益社団法人奈良市観光協会マスコットキャラクターの愛らしさ(曰はく、曾孫にも劣らないと)についてなど、実に多岐に及んだ。

 怜は自分が何の話を聴きに来たのかを忘れそうになった。


「小野桐峰は昔、呉服屋を営んでいた当家の先祖と知己だったそうです」


 うっかり本題を聴き飛ばすところだった怜は、その台詞にはっとした。

 祖父だか祖母だかがもごもごと口を動かす。

 発音は明瞭なのに聴き取れない不思議。


「彼はここから吉野山に向かったと言っております。吉野から戻った時には既に、大太刀を所持していたと」


 では桐峰は、大太刀・丹生を吉野で手に入れたのか。


 喋り疲れたのか、祖父母らは炬燵に埋もれるように眠ってしまった。微笑ましい光景だ。


「今日は本当にありがとうございました」

「いいえ。お役に立てたんなら良かったですー。祖父たちも、久し振りに思い切りお喋りする相手が来て喜んでました」

「ですが御商売のお邪魔をしまして」

「いえ、いえ。あの、でも、代わりにと言ってはなんなんですけどぉ」

「はい」

「あそこの窓際の席に座って、うちのスペシャルメニューを食べていただけないでしょうか。それを写真に撮って、ホームページに載せたいんですー」

「………」

「あ、もちろん、お代はいただきませんし、お腹が一杯ならコーヒーかお抹茶だけでも!」

「………」

「ちょっと憂いがちに顔を伏せて、ええ、四十度くらい?睫が頬に影を落とすところを激写させていただけますか?」

 

 言い募る女性は笑顔で、真顔だった。

 怜の顔はごく自然に憂いがちになった。


 請われるままに激写されてから怜は店を出た。はあ、と白い塊を吐く。


(結局、どっちが祖父でどっちが祖母か、判らないままだったな……)


 青と白のストライプのマフラーを巻き直して、怜は歩き出した。

 一泊はするつもりだったので、今日のホテルは予約してある。

 チェックインの時間も過ぎているが、もう少し散策したい気分だったので、怜は奈良公園に向かった。

 そこここに転がる鹿の糞を踏まないように気を付ける。


 距離を置いたところに立つ鹿が怜を見ていた。値踏みされている気がする。


 こいつ、鹿せんべい持ってねえのか?


 そんなことでも考えているのだろうか。

 つぶらな瞳の彼らが大変に人馴れしていて、それがふてぶてしい程であることを知る怜は、鹿たちに一斉にたかられるような愚は犯すまいと決めている。下手をすればあの白い歯で、指を齧られそうな気がしてしまう。

 恐ろしく貪欲なのだ。

 だが一度、真白と来た時には違った。

 真白が近寄ると彼らは姿勢を正し、行儀よく、鼻面で彼女の手に触れて挨拶した。

 鹿せんべいに猛進する真似もしなかった。こうべを垂れて真白にかしづくような鹿たちの在り様に、奈良公園にいた人々は目を見張ったものだ。

 真白が歩く後ろを、鹿はそわそわとついて歩いた。


 今頃、妹と兄は元気でいるだろうか。


 怜が考えていた時、不意に奈良公園の喧噪が遠のいた気がした。

 結界内にいるように空気が切り換わったような。


 白い鹿が桜の樹々の向こう、小高いところから怜を見下ろしていた。

 立派な角は照り映えて金色にも見える。

 悠々とした足取りで浅い芝草の上を怜に向かって歩いて来る。


 怜の目前で立ち止まった鹿は金色のまなこを瞬きさせた。


「蛇除けの咒言 山の怪異を避ける神言 双方共にお忘れめさるな」


 しわがれた鹿の声が怜の脳の中枢に達した頃には、真白い姿は煙のように掻き消えていた。



 ホテルで入浴し、夕食を終えた怜は窓辺の肘掛け椅子に座り紫煙をくゆらせていた。

 部屋に置かれていた浴衣の肩にはコートを羽織っている。

 煮出したほうじ茶と煎り大豆を加えて炊いた茶飯は東大寺の僧侶が考え出した物だそうで美味だった。歯触りの良い隼人瓜の奈良漬も怜の口に合い、可能なら土産に買って帰りたいと考えている。剣護とは土産合戦になりそうだ。隼人瓜は熱帯アメリカが原産で大正時代に日本に渡って来た多年草だが、見事に日本の漬物文化と融合している。怜はそこに植物と外来種のたくましさを見る気がした。


 白い鹿の言葉が彼の頭を占めていた。


 藤原氏の氏神である建甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀る春日大社では、鹿を神使としている。

 建甕槌命が白鹿に乗って来たと言う伝承がその由来だ。

 奈良で鹿が神聖視されることには歴史があり、鹿を殺害した人間は斬首されたという話も中世にはよく聴く。


 昼間の鹿はいずれかの術師の遣いであろう。

 ただ、あの白鹿の言い様が気になった。


〝蛇除けの咒言 山の怪異を避ける神言 双方共にお忘れめさるな〟


 忘れるな、と言うことは、怜がそれらを知っていることを前提にした念押しに聴こえる。

 即ちそれは、神官家にあった怜の前生を知り、怜がこれから吉野山に向かおうとしていることも看破していることを意味する。

 これがもし、敵対する術師の言葉であれば恐るべきことであり、吉野に行くこと自体を見直す必要性も出て来る。


(敵意は感じられなかった)


 とんとん、と煙草の灰を灰皿に落とす。


 真白きものの真性は神聖なり。


 前生における父の呟きを思い出す。今生では剣護とそのことを話題にして、妹の真白について語ったりした。


 蓋し、至言である、と。


 眠りに降りる頃、冷気纏う水分の香を鼻腔に感じた。



 朝、起きて、窓のカーテンを開けると、奈良の町は薄い雪化粧を施されていた。

 新雪を朝日が清く照らしている。

 深山はさぞ冷え込んでいるだろう。

 結局、怜は吉野に向かうことにした。一度行ってみたかったところではある。

 吉野は水銀と蘇りの霊山。

 大海人皇子を始めとした権力者が権威と勢いの「蘇り」を求め、南北朝の時代には後醍醐天皇が籠った土地である。


 近鉄橿原線大和西大寺駅から特急に乗り、橿原神宮駅前で吉野線普通に乗り換える。

 桜の時期は混雑するケーブルカーにもスムーズに乗ることが出来た。吉野線本口駅から吉野山駅まで短時間で移動する。


 吉野山を踏み締めるとさくりと雪が凹んだ。

 サイドゴアレインブーツを履いて来て良かった。一見、革に見えるブーツは合成樹脂使用で防水性に優れているので雪中を歩くにも頼もしい。

 サイドにゴムが入っている為、脱ぎ履きが楽で旅行には重宝である。

 山道は想像より狭い。古来よりの第一の存在意義が観光ではなかったのだから、これは止むを得ないことだろう。

 花の時期には人で埋め尽くされる筈だ。

 息を乱さずに歩く怜の口からも、白いものが絶え間なく空気中に生まれる。


 小野桐峰が丹生を手に入れた季節はいつだったのだろう。


 吉野まで来たは良いものの、この先の彼の動向に関する手がかりを怜は持たない。

 徒労に終わる可能性は大きかったが、雪の美吉野に来られただけでも彼は満足していた。


 空腹を感じた怜は手近な店に入り、柿の葉すしを食べた。

 酢飯に焼鮎の塩気が効いて、温かいほうじ茶とよく合う。セットになっていた茶粥も胃に収めて、怜は体内から滋養が放熱される気がした。

 ほうじ茶を飲んでほ、と息を吐くと自然と微笑が浮かんだ。


 誰かの注視を感じた怜は視線の主を求めて顔を巡らせた。


 視線がぶつかった相手は、同じ店内に座していた聡明そうな面立ちの女性だった。

 軽く目を見張り、怜を見ている。

 うりざね顔で髪は艶やかに長く、黒い。

 服装を含め怜より年上に見えるが、女性の年齢は計り知れないものであると怜は日頃より認識していた。


 とりあえず、会釈してみる。


 すると彼女は我に返った表情になり、忙しなく怜に会釈を返すと顔を背けた。

 髪が肩から滝の細い流れのように滑った。

 静御前みたいだな、と怜は目を細めた。


 店を出てから真白へのお土産に吉野和紙を買った。

 桜色、若草、紫の三色。

 吉野和紙は変色しにくいのだ、と店主が胸を張って怜に語る。


 吉水神社、中千本、上千本を抜け、奥千本まで至ると人もまばらになる。

 昼食を摂った店の人間は桜の咲く時期も、同じ吉野山でも奥に進むにつれてずれるのだと話していた。


(桜の時期に太郎兄たちと来たい)


 前生の兄妹たちと打ち揃って。

 きっと真白は喜ぶだろう。


 奥千本から、雪を被った吉野の峰々の眺望を目に楽しむ。


 吉野山 峰の白雪 ふみわけて

 入りにし人の 跡ぞ恋しき


 源平合戦で有名な静御前が、源頼朝の前で唄ったとされる歌は、吉野で別れた源義経を想っての恋歌だ。

 謀反人として義経を討った頼朝の前で、白拍子は命懸けで恋情を晒したのだ。

 そこにはひたむきさと情熱と。意地もあったのかもしれない。


 先程の女性にも通じる頑なさがあったのかもしれない――――――。


「さてもさても、静御前はただ一途なだけの女子ではなかったであろうよ」

 いきなり傍らから響いた声に、怜はぎょっとした。

 いつの間にか彼の左横には老人が立っている。

 白髪、白髭、白眉の、仙人のような風貌に、この寒い中、薄い灰色の、変わった着物を纏うのみだ。

(この声――――…)

「咒言と神言は唱えられたようじゃな、結構」

 あの白い鹿と同じ声だ。


 怜は鹿の言葉に従い、ケーブルカーに乗る前にそれらを速やかに唱えた。


〝東山つぼみがはらのさわらびの思いを知らぬか忘れたか

 三山神三魂(さんさんじんさんこん)を守り通して、山精参軍狗賓(さんせいさんぐんぐひん)去る〟


「術士であられるようだが、あなたは―――――?」

「儂は前生より成瀬荒太めの陰陽道の師匠でな。人には臥千上人(がせんしょうにん)と呼ばれておる。詳しい話はあとじゃ。参られよ。小野桐峰について知りたいのであろう?」

 真白の夫である荒太の師匠という言葉に驚くと同時に、幾許か警戒を解く。

「彼についてご存じなのですか?」

「うむ。中々どうして、面白き男であったぞ」

「………」


 一体この老人は、何百歳、生きているのだ?


「はて、儂も自らの年を定かに憶えてはおらぬでなあ」

 怜の思いを見透かしたように臥千上人がにやりと笑う。

 人の思惑を推し量るのが何より得手であると、弟子の荒太であれば知っている。

 だが怜は、当然のことながら臥千上人の言を訝しんだ。


 山の斜面を老人の招きに従うまま、雪に足を掬われないよう慎重に降りて行くと、目の前に突如として岩窟が現れた。岸壁には蔦植物が絡まり繁っている。更に足元には雪に紛れて、古そうな髑髏があっちにころり、こっちにころり、と転がっていた。そのくらいで恐れ戦くような怜ではないが、薄気味悪い眺めだとは思った。

 岩窟に踏み入ろうとする臥千上人が怜に背を向けたまま語りかけた。

「お気に召さるな。大昔の愚かな盗人共が成れの果てよ。そこもとのように咒言の一つ、身に着けるでなくこの霊山の、よりにもよって儂の住まいを狙いおったは身の程知らずも甚だしい。隠棲する儂を何と見たるか知らぬが、強欲は命を縮めるものじゃ。―――――まあ怜どのは逆に、淡泊過ぎるかもしれんな…」


 導かれた洞窟の奥には、陰気な湿っぽさなど全くなかった。

 南国のように温暖な空気は今の季節を忘れさせる程。

 ぽかりと広間のような空間には乳白色の水晶で出来たテーブルと椅子が地面から生えている。

 天上に穿たれた穴は天然のシャンデリアのように輝く陽光を取り入れていた。

 見たことのない小鳥がその穴から舞い込んで、腰に金色の太刀を佩き華烏帽子を被った水干姿の白拍子に変じた。

「儂の式神じゃ。あの鹿もの。怜どのの気に入られるような趣向でおもてなししようと思うての老身の骨折りを、汲んでくだされよ。まずは一献、参られよ。帰りは宿まで送らせるゆえ、遠慮されることはないぞ」


 白拍子が、怜の手に桜色の玻璃の盃を持たせて舞扇を掲げると、そこから雫がこぼれ落ち、怜の持つ盃に見る間に溜まった。

 呷ったそれは甘過ぎず辛過ぎない美酒だった。

「良い飲みっぷりじゃ」

 臥千上人が自らも盃を持ちつつ笑った。

「雷除けの札を持って来いとは仰いませんでしたね」

「うむ?」

 怜が静かな目で上人を見据えた。

「山に入るに欠かすべからざるもの。怪異避けに蛇除け。それから雷除けの筈ですが、あなたはその内、二つしか俺に忠告しませんでした。雷除けの必要はなかったからですか?」


 臥千上人は無言で怜を繁々と見つめ返した。感心するような、面白がるような眼差しだ。

「月光の如き冴えた風貌に似つかわしく、冴えた頭脳をお持ちのようじゃ。如何にも、儂が怜どのに遣わしたような白鹿を式とするように、儂は建甕槌命の庇護を受けておる身でな。怜どのを招くのに雷除けの咒の必要はなかったのじゃよ」


 建甕槌命は雷神、刀剣の神、武神である。


「そしてこの吉野に在る儂は、今一柱、別の神の庇護下にもおる。それが大太刀・丹生を得た小野桐峰をも加護された丹生都比売命(におつひめのみこと)であらせられる」


 丹生都姫の名は怜も耳にしたことがある。

 水銀と蘇りを司る吉野の姫神。


「たたら製鉄で名高いのは何と言っても怜どの、そこもとが前生でおられた出雲国の、今では奥出雲地方と呼ばれるあたりじゃ。製鉄が神事が如くに見なされたのはどこの鍛冶場でも同様でな。ここ吉野でも刀鍛冶は一目置かれる存在じゃった。吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)には寄られなんだな」

「はい」

「子守明神とも呼ばれる神社でな、子授けの霊験あらたかなことで知られておる。桐峰がこの地を訪ねたころ、村人に、長く子に恵まれず悩んでおる夫婦がおった。そこで刀鍛冶であった夫が神剣を打ち、これを水分神社に奉納して悲願を叶えてもらおうと考えたのよ」

「それが、大太刀・丹生だったんですか」

「左様。ご存じの通り、吉野は水銀、みずがねが採れる地じゃ。みずがねは不死の妙薬などと珍重する輩もおった程でな。その刀鍛冶は鉄を精製する際、丹生都比売の祝福もあれかしとみずがねを含む辰砂を独自の手法で多く混ぜ込んでいた。鍛えられた刃はそれは美しい朱を含む色であった。しかし血をも連想させる赤い刃を社に奉納して良いものか、却って神の機嫌を損ねはすまいかと当の夫婦らが迷い始めた頃に通りかかったのが小野桐峰であった」

「彼に譲り渡したのですか?」

「賊に襲われたところを桐峰に助けられた恩もあっての。刀身五尺――――今で言う百五十センチはあったであろうそれを、あ奴であれば使いこなせようと儂も勧めたのじゃ」

「百五十センチ…」

 刀身およそ八十センチの虎封よりかなり長い。

「彼は長身だったんですか」

「うむ、怜どのと同じような背丈であったか…。当人が一見、細身で物静かな男であったから余り気付かれにくかったが、あの乱世には高木のようであったろう」

「丹生の柄の色や、刃文は。目貫はどんなものでしたか?」

 常に似ず、怜は矢継ぎ早に訊いた。日本刀を所持する者同士、ここは興味がある。

「刃文は大きく波打っておった。こう、飛び焼きが波飛沫のように散ってな、荒れる赤き海の如き刀身が、血の穢れなどより先に澄明なる厳かさを感じさせるは真に不思議よ。儂の目には十分、奉納するに足ると思えたが。拵えまでは知らぬが、桐峰は刃の色に合わせて柄は朱色にしたいと申しておったな」

「朱色…。桐峰は朱色の茶器を追って豊後に向かったそうですが、なぜ御師である彼が茶器にこだわったのでしょうか?丹生と何か関係が?史料を読んだ限りでは、商売熱心な気質とも思えませんでしたが」

「朱色の茶器…『鬼室(おにむろ)』か」

 臥千上人は忌まわしい物のようにその名を口にした。

「『鬼室』?」

「うむ。人をして心に疑念を生じさしめ、世に乱れを呼ぶと言う呪われし茶器よ。桐峰が何ゆえその行方に執心したかまではこの儂も詳らかには知らぬが。尼子氏の盛衰を見て育ったあの男は、この世に嫌気がさしていた。日がな一日虚しい心持ちで過ごしておったのよ。それがこの地で丹生都比売の加護せられし丹生を得て、蘇りというものに興味を抱くようになった。……胸のいずこかで、空虚な己を蘇らせたいと思うておったのやもな。『鬼室』を手にした大友宗麟は早晩、滅びの道を辿るやもしれん。それは蘇りとは真逆の修羅の道じゃ」

 饒舌に長く語った上人は、岩窟の天井に穿たれた穴から青空を見上げた。


 戦国時代の出雲(島根県)は長く国を実質的に支配していた杵築大社の国造家に代わり、尼子氏と毛利氏の抗争の地と成り果てていた。

 結果として抗争に敗れて零落し、滅亡に至ったのは尼子氏であった。


「何と言う明確な理由もなく、ただ放っておけなかったのではないかな……」


(放っておけなかった……)


 怜はふと奈良に在住した被差別民・河原者に思いを馳せた。

 臥千上人が血の穢れと口にしたこともあったからかもしれない。


 平城京、悠久の飛鳥、時代の勝者・大海人皇子、不遇の南朝、静御前などと聴くと華麗な時代絵巻のイメージが先行されてしまうが、奈良には(らい)病者の住まう北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんど)が生駒郡近くの奈良坂にあった。

 中世の被差別対象者には死んだ牛馬の解体、そこから派生する皮革職人、葬送に従事する者や刑の執行人に至るまで種々ある。

 鹿を殺害した者を斬首せしめた人々も「細工」と呼ばれ差別の対象であった。

 鷹狩に使う鷹を世話する者も、牛馬解体などに携わる非人の類ではなかったかとする説まであるくらいで、彼らの作業内容は意外にボーダーレスだったようだ。

 共通項は執政者を始めとして他者から「穢れ」に常人より深く関わっていると見なされていたこと。

彼らを「穢多(えた)」とも言った呼称の由来はここからであろう。

 馬皮などを使う太鼓張り直しの任を奈良の北山(奈良町北方に広がる丘陵のあたり)在住の河原者が請け負っていたとする記録もある。


 御師として様々な人間と出逢う機会があったであろう桐峰は、そのような被差別対象者たちにどのように接しただろう。

 宗教者として一人の人間として。


 宗麟を放っておけないと感じたように、心に感じるところがあっただろうか。



 黄昏時の薄闇に淡く光る白鹿のあとを追うと、正規の山道に出た。

 礼を言うと、鹿は怜の未来を言祝いでから、ゆっくり回れ右して山林の狭間に消えた。

 昨夜の内に予約しておいた宿の庭に孔雀が檻の中、寛いでいた。

 吉野では孔雀を飼う家を多く見かける。羽は華やかだが寒くないのだろうか。

 そこで怜は知った顔に再会した。

 昼間の店にいたうりざね顔の、「静御前」だ。

 闇に落ちても、灯篭の灯りに仄白い面が浮かび上がる。

 薪能のような幽玄さがあった。

「今晩は。こちらにお泊りですか?」

 どこか困り顔の彼女に怜は声をかけた。

 白いチェスターコートからは茶色のロングブーツが見える。

「…いえ。日帰りのつもりで来たんですけど、ロープウェイが終わってしまっていて、山を降りるに降りられなくて」

「ああ、ロープウェイ。確か桜の時期以外は五時台まででしたね」

 旅行前に調べた時、予想外に早く終了するのだなと思ったのを憶えている。

「はい。それで、ここに飛び込みで泊まらせてもらおうと思ったんですけど、満室だと断られてしまったんです。他の宿も予約してないとダメだと。女一人の宿泊ってまだ歓迎されないんでしょうかね」

「最近ではそうでもないと思いますけど…、」

 それでは困るだろう。

 女性の身で野宿する訳にもいかない。ましてや積雪の山中で。

 怜は少し思案してから言った。

「俺の部屋を譲ります」

「―――――――とんでもない。何とか、してみます」

 心許無い語勢だ。

「俺は他に、当てがあるので」

 臥千上人の顔を思い浮かべながら述べる。

「いいえ、出来ません」

「大丈夫ですよ。いざとなれば歩いて下山します。足腰は鍛えてますから」

 怜は女性を宥める声を出した。

 彼女の頭の中では困惑と希望と良心がせめぎ合っているのだろう。

 表情に出ている。

 やがて意を決したように言った。

「それではいっそのこと相部屋にさせていただけませんか」

 怜は表面上、平静な顔をしていたが、内心ではかなり驚いていた。


「―――――――とんでもない」




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