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#4 翼のある使者・5
「ああ、もう! 何なのよ今のあいつは!」
 アシュリーの大声に、周囲の数人が何事かと一斉に振り向いた。ただでさえ彼女は目立つのだ。何でもない、と会釈を繰り返しながら、新人は彼女の手を引き、会場の扉を潜った。
「とりあえず、落ち着いて落ち着いて」
「うるさいっ! ああいう気障な勘違い男って、あたし大っ嫌いなの。ちょっと顔がいいからって何言っても許されるとでも思ってんのかな。あー思い出したらイライラしてきた! きっとああいうのって子供のときから蝶よ花よと甘やかされて育ってんのよ。そうでもなきゃあんなセリフ真顔で吐かないし。なんでわざわざ人の神経を逆撫でするようなこと言ってヘラヘラ笑ってられるのかな。どういう家で育ってんの? 性格歪んでるとしか思えない! 矯正できそうにないところまでね。ああいう変な男がいるから世の中おかしくなるのよ」
「いや、世の中はさすがに言い過ぎだって……」
「何、シント、君またあいつの肩持つの!?」
「いやいや、肩を持つわけじゃないよ。腹が立ってるのは、僕も同じだから」
 腹は立っている。だが、それ以上に疑問が大きかった。エル・ロイと名乗った彼は一体何者なのか。なぜ新人のことを知っていたのか。『君に会いに来た』と彼は言った。もしそれが真実だとしたら、新人のことを知っていた理由にはなる。だが、疑問の上乗せになるだけだ。即ち、どうして新人に会いに来たのか。新人は彼を知らない。一度でも見たことがあれば、記憶に残ってもおかしくないのだが――。
「そうだ、アシュリー」
「何よ。あたしは今すごーく機嫌が悪いの」
「それはいいからさ、さっきエル・ロイに『どこかで会ったことある?』って訊いてたよね。あいつの顔に覚えとかあったの?」
 彼女はちょっとむっとしたような表情を見せ、それから溜息を吐いて言った。
「確かに、どこかで見たような顔なのよね。でも、思い出せなくって。あーもどかしいなあ、こういうの。灯台下暗しとか木を隠すなら森の中とか、そんな感じ。喉元まで出かかってるんだけど」
「そっか。分かんないか……」新人は白い壁紙の張られた壁に背を預けた。
 間接照明のオレンジ色が照らす廊下は人気がない。扉を挟んだホール内からは、曲名の分からない管弦楽の音が漏れ聞こえてくる。明るい色の絨毯は柔らかく、慣れない革靴を履いた足が沈み込みそうだった。辻々には大きな花瓶に、これも名前の分からない花が生けられている。造花ではない。壁にかけられた絵のタイトルも思い出せない。事物が自分を馬鹿にしているように思えて、新人は苛立つ。
 彼は一体何者なんだ、という疑問を再び繰り返す。アシュリーは覚えていない。と、すると残る手がかりは『ゼリア』というあの従者の名前だ。どこかで聞いたような覚えがあった。だが、どこで。これまでに出会った人間の顔を片っ端から思い描いても、ゼリアという名の人間には思い当たらなかった。あの全てを悟ったような冷たい瞳は、一度相対すれば忘れないだろう。では、会ったことがない――?
 いや、今はそんな取り留めのないことよりも大事なことがある。新人は、壁にもたれて目を伏せるアシュリーの姿を目の端に捉えた。
「あの、アシュリー」
「何?」
「僕がこんなこと言うのも何だけどさ、その……大丈夫?」
 アシュリーの碧眼がゆっくりとこちらを向いた。それに引き寄せられるように、新人は彼女と目線を合わせる。
「別に、どうってことない。パパのこと言われたのは……結構ムカついたけど、でも、あたしはパパじゃないから。パパと同じことは言えないんだなって思った」
「そりゃあ、同じ言葉でも、誰の口から発せられるかによって意味は変わってくるからね。言葉というツールの特徴的な……」
 言いかけて、しまったと口を噤む。だが、彼女は新人の言うことを聞き流していたらしく、新人は胸を撫で下ろした。
「やっぱ、知らなきゃ駄目なんだよね、世の中のことを。パパと同じ視角に立たなきゃ、あたしの言葉はパパと同じ力を持てないんだ。戦争のことだって……」そこで、何かに気がついたように彼女は言葉を切った。
「それって、すごく難しいことだと思うけど。もし完全に背景が一致しなければ、同じ言葉にも力は宿らないとするなら、全ての金言や格言は無意味になっちゃうよ。誰もが古典文学を読み込んでるわけじゃないし、歴史を熟知しているわけでもない」
「ねえ、シント」
「何?」聞いてないな、と新人は嘆息し、そして次の一言に耳を疑った。
「〈ストライクリザード〉、乗せてよ」
「はあ? 何で……」
 新人は必死で彼女の論理を追いかける。つまり、戦争を知るために、最前線で戦う〈ストライクリザード〉を知ろうというわけか。自分の言葉に力が欲しい――いや、単にエル・ロイに言われたことが悔しいから。
「いいじゃん、減るもんじゃないしー」
「減るよ! 一回の出動毎にどれだけの労力や人員が……。大体、民間人をおいそれと乗せるわけにはいかない」
「でも、フリージャーナリストのサラ・ウェインは乗せたんでしょ」
「あの人は特例だよ! ええと、そう、割と高度な政治的判断というやつが……」
「大人の理屈だよね」アシュリーは唇を尖らせる。「そういうの、嫌い」
「好きだ嫌いだの問題じゃないんだよ!」
「何よ! サラ・ウェインは乗せられてもあたしは駄目なの?」
「駄目、駄目駄目!」
 両手を振る新人をアシュリーの上目遣いが襲った。いけない、と後ずさろうにも既に背中は壁。我が意を得たりと真正面に回ったアシュリーは、拗ねたような表情で言った。
「ふーん……あたしみたいなのより、ああいう大人の女性の方が好きなんだ。ふーん」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃ、いいでしょ?」途端に笑顔を弾けさせる。
(ああ、もう! 演技って分かってても……。全く、ちょっと顔がいいからって何言っても許されるとでも思ってんのかな。あー何だかイライラしてきた! きっとこういうのって子供のときから蝶よ花よと甘やかされて育ってんだ。そうでなきゃ正気でこんなセリフ吐けるわけがない!)
 演技だという判断くらいはつく。目的のために自分を取り込もうとしているだけだと分かっている。それでも彼女の無邪気な眼差しには、抗しきれない力がある。少なくとも、男なら誰も。新人は頭を抱える。
「だから、そういう問題じゃなくて!」
「じゃ、どういう問題?」アシュリーは首を傾げる。
「根源的問題。そもそも、君を乗せるのはNG。サラさんとの比較は意味がないし、大人の理屈でも何でもない。もし万が一乗れる機会があるとしたら、上の許可が下りた場合だけど、少なくとも僕に判断できる事項じゃない。僕じゃ責任が取れないから……」
「責任とかいいから、気にしないで! あたしが怪我したらあたしのせいだから」
「いや、責任云々じゃない」
「君が言ったんじゃん」
「そうだけど……」
 やり辛い。かのジョニー・メイフェンより遥かに強敵だ、と新人は苦笑いする。
「とにかく、駄目なものは駄目だ。気持ちは分からないでもないけど、僕の権限で君を〈ストライクリザード〉に乗せてあげることはできない。危険だし……危険は顧みないって言っても駄目だよ? それに、僕の立場だって危うくなる。第一、非常識だよ」
「でも、今日の警備って言ったって、あるかどうかも分かんない、独立派組織のデモの牽制くらいでしょ? 火器だってほとんど使わないみたいだし、別に後ろに乗ってるだけなら、バレないから!」
「駄目だよ」
「邪魔しないから、お願いっ!」
「邪魔でも邪魔じゃなくても駄目!」
「……分かった」
 アシュリーは短く言った。納得してくれたのか、と新人が安堵するのも束の間、彼女は壁に背をついた新人にずいと身を乗り出した。逃げられない。両足の靴の間に、ハイヒールの爪先が見える。膝と膝が触れ合っている。新人の背中を冷や汗が伝う。
「な、何……かな?」と、どういう表情で対すればいいか分からず、半笑いで尋ねる新人に「何でしょう?」とアシュリーは応じる。彼女の右手が新人のネクタイを掴み、慣れた手つきで解いた。一箇所引けば解けるのか、と新人は初めて知る。
 まさか、と今更の悪い予感が新人の脳裏を過ぎった。果たして、それは一般的な悪い予感の例に漏れずに的中する。
 アシュリーの左手が、所在無く上着の裾を探っていた新人の右手を掴む。そしてそのまま、サーモンピンクのドレスの胸に触れた。柔らかな感触に全身が硬直する。マシュマロ、スポンジ、メレンゲ、どれも違う。それを形容する言葉を新人は持たなかった。真正面から暴風を受けたときの感触に似ているかもしれない。あの微妙な心地よさが、右の掌一箇所に集中している。脳細胞がブランクのグレーに染まっていくのが分かった。たった今まで警戒していたことがどこかへ吹き飛んでいく。
「さて、この状況。もし、今あたしが結構大きい声とか物音とか立てたら……」右手の解けたネクタイを玩び、彼女は甘えた声で言った。「どうなるかなぁ?」
 手を引こうとすると、逆に身体自体を押しつけられてますます密着する。シトラスの香り。
「さあ……どうなる、かな?」精一杯振り絞った声は、語尾が震えていた。
「あたし、そこそこ有名人だし、大スキャンダルになっちゃうかも。少なくとも、君、今まで通りの生活送れなくなるよ」
「……これは恫喝?」
「まさかぁ! ただのお願いだって」
「断った後のことを盾にするお願いのことを指して、恫喝って言うんだよ」
「へぇ。知らなかった。博識なんだね、君」
「ふざけたことを……」
「そんな強がったこと言ったって、手、震えてるよ。こういうことの経験、ないんでしょ」
「ああ、ないよ。それがどうした」
 苛立ちを抑えきれずにそう吐き捨てた新人の言葉を無視し、アシュリーは悪戯っぽく笑って言った。
「じゃあ、改めてもう一回。〈ストライクリザード〉にあたしを乗せて。お願い!」
 断ったらどうなるか。もし仮に彼女が言ったように騒いだとしたら、身の破滅だ。マスコミには晒し者にされ、もうリザードドライバーではいられない。彼女自身にしても、会ったばかりの一兵士とこんなことを、と虚実入り混ぜて報じられれば、父親の信用問題、ひいては国家の安全を脅かすことに繋がりかねない。下手をすれば、この国が戦争に負ける。
 なら、受け入れれば? アシュリーが言ったように、今日の任務にそう激しい戦闘機動は必要ないだろう。むしろ、街中の護衛なのだから、静粛な機動が求められるくらいだろう。明日以降の日程は移動しながらの警護なのでそうもいかないが、今日ならば、訓練も何も受けていない彼女を乗せても、大丈夫かもしれない。見つかった場合が怖いが、上手くやれば問題ないだろう。まだ子供だ、見過ごしてもらえるかもしれない。何より、彼女を後ろに乗せられるのだ。他でもない、アシュリー・ミネットを。
 新人は息を飲んで目を瞑り、その一瞬の間に全てを熟考して言った。
「……駄目だ」
 たとえ彼女のプライドを傷つけることになろうとも、駄目だ。新人にはこちらの選択しかできなかった。こちらを見上げるアシュリーの表情が、今にも泣き出しそうに崩れる。仕方ない、こうするしかない。これが自分にできる最善だと、この後に起こりうる全てのことに覚悟を決めた、その時だった。
 大袈裟な咳払いが聞こえた。知っている声に、新人は振り向く。
「……ええと」腕組みをし、顎に手を当てた巳澄美琴の姿がそこにあった。「参考までに一応訊くけど、何してんの?」
「うわああっ!」新人はアシュリーを押し退け、解けたネクタイを取り戻し、しどろもどろになりながら言った。「あの、えーっと、君が考えてることは大体分かるけどそれは違う。違うんだよ。誤解だよ誤解」
「あらら、人の考えが大体分かるなんて、通称根暗ボーイが凄い進歩。でも、あたしの質問に答えてない。もう一回訊くけど、何してんの?」いつも通りの頑とした口調。逃がさない、とその目が語っている。
「それは……」と言い澱んだ新人を押し退け、答えたのはアシュリーだった。
「秘密ですよ、相方さん」既に表情は笑顔に戻っている。
「相方……?」と怪訝な顔をして、ようやくそこにいるのがアシュリー・ミネットだと気づいたらしい。美琴は、途端に慌てた素振りを見せた。「なな、何でよりにもよって新人?」
 面倒なことになった、と頭を抱える。〈ストライクリザード〉に乗せろと脅されていた、と言うわけにもいかず、新人は根暗に押し黙るしかない。
「じゃあ、あたしはこれで失礼しまーす」半ばスキップするようにアシュリーは背を向け、そして会場の扉に手をかけて振り返った。「あたし、諦めないから」
 それだけ言い捨て扉の向こうの喧騒に消える彼女を、新人は唖然として見送った。何度駄目だといえば諦めるのか。いや、それよりも――。
「諦めない、諦めない」美琴の視線は、いつにも増して冷たかった。「何か、告白されて振ったみたいな状況に見えたけど。説明が欲しいかな、保護者として」
「保護者!? いや、それはいいとして……」新人は呼吸を落ち着ける。「説明は、できない。ちょっと厄介なんだ。それと、何度でも言うけど君の考えてることは違う。誤解曲解だよ」
「ま、ゴカイでもハマグリでも何でもいいんだけど」
「ここは八七階」
「話を逸らすな、馬鹿」
「ごめんなさい」やはりこれくらいの距離感が心地いい。「ところで……なんでわざわざ僕を探しに?」
「そう、それ忘れてた」美琴は掌を打つ。「マイストさんが呼んでる。何か会わせたいとか、あんたに会いたい人がいるとか言ってた」
「ふぅん。何だろう」
「あたしに訊かれたって分かんない。開発サイドの人っぽかったけど」
「そっか。ありがとう」と生返事を返し、アシュリーが消えた扉の方を見遣る。諦めない、と彼女は言った。何をするつもりなのだろう。見る限り、何を仕出かしても不思議ではない性格をしている。何だか嫌な予感がして、新人は嘆息する。
「ほら、ぼんやりしてないで」美琴が新人の手を取った。「待たせてるんだから、早く」
「ちょっと待って」と言って、引き摺られかけるのをどうにか押し止める。掌にこもる力、心地よい冷や汗が少し。何よ、と詰め寄る彼女に、苦笑いで目線を泳がせながら、新人は言った。
「あの……ネクタイの結び方、分かる?」

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