#4 翼のある使者・4
空には霞がかかっていた。天候は晴れ、それも快晴の部類で、星の瞬きを隠す雲は風に吹かれて消えてしまったはずなのに、星の光は今一つ不明瞭だった。都市が吐き出すガスや水蒸気のせいだろうか。それとも、光を地上に奪われてしまったのだろうか。
「ロマンチズムは、柄じゃないよなあ」
新人は、星空から室内の喧騒へと目を戻す。行き交う人々の隙間に、マイストの長身が見えた。大柄な男性と話している。場に不釣合いなドレッドヘアだ。誰だろう、と頭を捻り、〈ストライクリザード〉の仕様書にその写真が載っていたことを思い出す。名は忘れたが、開発主任者だ。確か、性同一性障害のため、あの筋肉質な姿でも性別は女性。女が強い世の中になった、と言っていつかジェズイットが笑っていた。
知った顔は他にもある。この地を支持基盤にする国会議員に、兵器会社の社長。芸能に疎い新人でも名を知っているレベルのトップモデルや、財界の重鎮がいる。変り種では、スポーツ選手やテレビでよく見かける司会者。それらが皆、この国の長である男、エイヴェッツ・ミネットを囲んで談笑している。いや、談笑などという生易しい話ではないのかもしれない。余り関わりたくないな、と新人は思わず眉をひそめる。
軍人もいる。なぜか見覚えがある将官がいる、と思ったら、訓練所で訓示を垂れていた男だった。一六特機隊に配属の旨を、新人に伝えた人間だ。向こうはきっとこちらのことは覚えていないだろう。三次徴兵、若年層への緊急動員の第一陣ということで、世代全体としての印象は強いかもしれないが、新人自身は、偶然の重なりで〈ストライクリザード〉に乗っていることを除けば、ごく一般的でありふれた、どこにでもいる人間だ。だから、覚えていたら、ほとんど奇跡のようなものだろう。
その細面な横顔をぼんやりと眺める。遠目だが、肩の章に、将官以上であることを示す青い星があることに新人は気づいた。新兵教育に、そんな上の階級の人間が介入するものだろうか。胸には勲章。新人が首を捻った、その時。男の顔が、新人を見た。そして、あろうことか、満足げな笑みを見せた。
新人は慌てて視線を逸らす。覚えられていたのだろうか。いや、そんなはずはない。一〇や一〇〇単位ではない数の人間を彼は見送っているはずなのだ。僅か数週間の簡易訓練を受けただけの新人の顔を覚えているはずがない。そして、パーティ会場でたまたま目線があった子供に、笑顔を向けるような性格の人間にも見えない。
もう一度盗み見た彼は、もう新人の方を見てはいなかった。同じ軍人や、政治家らしき男たちと、いつ果てるとも知らぬ談話に没頭していた。化かし合い、なのかもしれない。こういう場所で、具体的にどんなことが話し合われるのか、新人は知らない。
ふと、何かが足りない、と新人は思った。先刻まではあって、今はないもの。少し考えて、アシュリー・ミネットだ、と気づく。大人たちの間で少しも臆することなく立ち回っていた彼女の姿が、ない。
まさか、誘拐にでもあったのか。護衛、という任務のために飛躍してしまった想像を抑えつけた時、新人の背中に誰かが声をかけた。
「ねえ、君、一人?」新人は振り向く。
透き通った碧眼が目の前にあった。金髪に、桃色のドレス姿。幻か、と思わず瞬きするが、アシュリー・ミネットの笑顔は現実として、新人に向けられていた。彼女が、自分に話しかけている。眩暈を起こしそうになる頭を新人は叱りつけた。
「え? ああ、えっと……」
「誰かと一緒?」口ごもり俯く新人の顔を、彼女は下から覗き込む。身長は同じか、新人の方が少し高いくらいだ。
「えーっと、保護者が一人。それと……」美琴のことを何と呼ぶべきか、一瞬悩んで新人は言う。「相方が一人。多分、その辺にいると思う……思います。アシュリー・ミネットさん」
「敬語も何もいらないから、アシュリーって呼んで。あたしも同じ一六歳だもん」
「じゃあ、アシュリー」
「上出来!」
小さく身体を躍らせてまた笑う彼女、アシュリーに新人はたじろぐ。距離感の測り方が分からないのだ。年齢は美琴と大して変わらないが、彼女の場合は、どんなときでも誰に対しても一歩、引いている。それが彼女にとっての心地よい距離であり、新人にとっても都合が良かったのだが、アシュリーは違う。
高いヒールを鳴らしてアシュリーが歩み寄る。爪先同士が触れ合いそうなほど近づかれ、新人は後ずさる。圧力だけなら並みの〈ベルキャット〉より上だ、と新人は苦笑した。
「ねえ、あたしのこと、知ってる?」
「顔と名前くらいなら、僕でも知ってるよ。メディアへの露出、多いから」
「あたしも、君の顔と名前だけは知ってるんだ」
「え、どうして?」呆けた顔で新人は問い返す。
「どうしてでしょう?」アシュリーは目にかかった前髪を払って、当ててみろと笑った。
新人は目を背ける。一つ一つの仕草が余りにも華やかで、正視していると、頭が侵食されるような気がしたのだ。彼女は魅力的だが、怖い。新人の知らない、関わろうとしてこなかったタイプの人間。ああ、かわいいと呑気な考えが浮かぶが、それより先に警戒心が先に立った。相変わらずな自分に嫌気が差す。
しかしなぜだ、と新人は腕を組む。なぜ、ただの一兵卒、或いはどこにでもいる一六歳の子供に過ぎない自分のことを、大統領の愛娘であり、このような社交場にも物怖じせず、見れば誰もが憧れるであろう類稀な容姿を持つ――新人とまさしく正反対な人間である彼女が、自分のことを知っているのか。同じ一六歳と言った。つまり、年齢も知られている。
接点は皆無だ。もし、あるとしたら――。
「サラ・ウェイン女史の記事を読んだ、とか」
「その通り」と彼女は腕を組んで言った。ややあって、真似をされているのだ、と新人は気づいた。「君と話してみたかったんだ。だって、あたしと同い年なのに、最前線で戦ってるんでしょ? それもあの〈ストライクリザード〉に乗って。どんな子なんだろうって、すっごい気になったんだ。意外と……ううん、やっぱり、普通の男の子なんだね。ちょっと安心した」
「僕は、普通だよ」安心という単語が気にかかる。「普通だ」
「でも、〈ストライクリザード〉で戦えるんでしょ? 戦闘機動とかやっちゃったりして。すごいなぁ。格好いい」
「……そんな格好いいもんじゃないよ。整備は大変だし、壊せば怒られるし」
「でも、あたしの目からは、格好いいの」
パーティ客の一人がアシュリーの後ろを通り過ぎる。それを避けて、さりげなく、彼女は新人の正面から隣へ立ち位置を変えた。背丈よりも遥かに大きなガラスに背中を預け、会場の方を向く。新人は、目線のやり場に困ってマイストの姿を探した。見当たらない。
香水だろうか。柑橘系の匂いがした。嫌でも、隣に立っているのは自分と違う、異性なんだという意識を、新人は喚起される。
「ねえ、シント」ファーストネームを出し抜けに呼ばれ、新人は返事に詰まる。その困惑を知ってか知らずか、彼女は変わらず笑顔のまま言った。「どんなこと考えて、戦ってるの?」
「どんなことって、何? 戦闘中ってことか、それとも、僕の戦争観を?」
「んー、どっちも」
「戦闘中は……」どんなことを考えているだろう。常に考え続けているとは思う。何のために。「生き延びること。一体でも多く敵を落とすこと、かな。戦闘中は戦闘に集中してるから、他のことは考えない。考えてる余裕がないんだよ、僕には。だからこういう答えになる。ベテランの人たちなんかだと、もっと色々なことを考えていられるんだろうけど」
「じゃあ、戦争については?」
「それを、兵士である僕が君に答えるのは、問題がある気がするよ」
「何で?」
「何でって、戦争を主導している人間の娘じゃないか、君は」喧騒の中に、共和国大統領、エイヴェッツ・ミネットの姿が見える。「僕が言ったことに、悪い感情を持つかもしれないし、それで僕の立場が危うくなるかもしれない。さすがに軍法会議は勘弁して欲しいから」
「ふーん。君も、そういう風に言うんだ」アシュリーの視線が新人を睨めつけた。不機嫌そうに頬を膨らませる。「大丈夫。誰にも告げ口とかしないから!」
「いや、そういう問題じゃなくて、心構え、みたいな……」
「あたしは普通の女の子だから」
「いや、普通じゃないよ。誰がどう見たって」新人とは違う。
「じゃあ、君の前だけ」相好を崩して、彼女は言った。「君の前だけ、普通の女の子。これでいいでしょ?」
「……分かったよ」
ウインクする彼女を前にしては、そう答える他なかった。単にわがままに甘えているだけだと分かっていたが、否、と言うことはできなかった。普通ならそうだ。普通なら。だから新人も、普通に倣う。
「馬鹿げた戦いだ、って思ってるよ。国内の安定に戦争を利用してるようなものだからさ。戦争は外交の手段であっても、内政に使うものじゃないって、思うんだけど。まあ、三民族の勢力が拮抗していて、かつそれらが微妙なバランスを保って国家として成立している、っていう状況自体が、ある意味奇跡なのかもしれないし、手段を選んでいられない、為政者……大統領の思考も分からないではないんだけど、ね。
でもさ、国内の不満は、絶対に消えないよね。だって、異民族による最高の政府よりも、同民族による最低の政府の方が、統治に関しては優れてるんだ。何故かっていうと、異民族による統治の場合、政治に反対する手段として、武力の行使が正当化されてしまうから。例えば、南の倭族解放同盟。彼らには正義がある。倭族による倭族のための単一民族国家の樹立、っていう彼らの究極の目標には、一定の理解を得られるだけの正当性があるんだ。あくまで『一定の』だよ? 僕は彼らのテロ行為を容認してるわけじゃない。銃弾が飛び交えば、必ず誰かが泣くんだから。
大統領の劇場的な民主主義は、ある意味一つの回答だと思うんだ。戦いという一つの目標に向かって民意を煽り、愛国心で一つに束ねる。劇場的ってより、エンターテイメントかもしれないな。大衆には、戦争の後が見えてない。戦争しなきゃならないとは理解していても、それが何故なのか、また、どんな犠牲を生むのか、全然分かってない。テレビに流れる映像をただ眺めているかのように、受動的なんだ。もっとも、分かってないことに関しては、僕自身も同じなんだけど。
馬鹿げた戦いだって言ったね。僕は、必ずしも戦争という手段に訴える必要はなかったんじゃないか、って思ってる。かといって、国家の分裂を望んでいるのでもない。共和国の今の形は、経済的には、非常に都合がいいからね。統治には、別の手段を模索するべきだったんじゃないか、ってことだよ。いや、だからって、北の教国みたいによく分からない宗教を拠所にするのは余り歓迎できないと思うし、西の帝国みたいなのも、どうなんだろう。ごめん、じゃあどうしろっていう結論は、僕の中ではまだ出てないんだ。だけど、人が死ぬのは、殺さなきゃならないのは嫌だなって、戦場に出る度に思う。人間の死と僕の行動を遠ざける、〈ストライクリザード〉というシールドがあったとしても」
「そっか。パパのやりかたは、必ずしも歓迎されてるわけじゃないんだ」
「スマートじゃない、ってことだよ。ベターではあっても、ベストじゃない。そして、次善の策を取ってしまったことで、ベストの手段を模索する機会が失われてしまった。だから……」そこまで話して、新人は言葉を濁した。
アシュリーが目を伏せていた。先程までの笑顔は消えている。「そうだよね」と彼女は言って、また笑顔を作ったが、それは新人にさえ一目で作り物だと分かるほどの、不自然なものだった。だから話したくなかったんだ、と新人は呟く。彼女とは、距離感が測れないのだ。どこまで言っていいのか、何を言ってはいけないのか。落ち込ませたかったわけではない。話せと言われたから、思ってることを正直に話した。そして、方便を使いこなせるほど、新人は器用ではない。
前にも似たようなことがあった、と新人は思い出す。あの時は思いっきり殴られた。進歩していない。何も。普通に、倣えていない。
その時、全く違う方向から、からかうような拍手と共に、誰かの声が聞こえた。
「なるほど、非常に興味深いね」新人は目を向ける。見覚えのない相手だ。「それが、共和国兵の考えか。想像していたより、知的だ。だが、美的とは言い難い」
「誰です、あなた」
男、だろうか。黒のスーツ姿なので、恐らく男だ。だが、見た目では服装しか性別の確証となるものがない。そのまま女性としても通るような、浮世離れした容姿だった。胸元にはビビットな赤のリボンタイが結ばれている。美しさを空気として纏った彼の姿に圧倒され、新人は一歩後退る。並の人間ではない。だが、誰だ。
肌の色は、大理石のような白。いわゆる東方コーカソイドの白さとも違う。まるで、白くあることを宿命づけられているかののような、自然さと不自然さが共存していた。唇の赤がいやに際立って見える。
「あなたは誰、か。はて、僕は誰だろうね。敢えて言うなら、僕は、誰かになろうとする過程にある、かな。僕が誰かを決めるのは、僕じゃなくて、君だ。少なくとも今はね」
ブルーともグレーともつかぬ不思議な色の瞳が、新人を見た。照明の具合で変化し、どの色と決定することができないのだ。だが、何よりも彼を特異な存在にしているのが、髪の色――煌く、銀。肩を覆うほど伸ばされた長髪には、緩いウエーブがかかっている。
「ねえ、あたし、あなたとどこかで会ったことある?」アシュリーが首を傾げて言った。「思い出せないんだけど、どこかで、あなたを見たことあるような気がするの」
「どこかで会ったことある、か」彼は繰り返した。「まるで古風な誘い文句だね。そういうセリフは、薔薇の花束片手に男が吐くものだよ、アシュリー・ミネット」
「知ってるんだ、あたしのこと」
「もちろん。君はこの国では有名人だろう?」
「この国」新人は言った。「ってことは、君は共和国の人間ではない」
「その通り。鋭いね、なかなか。やはり君は面白いよ、シント・ミヤケ」
「やはり?」それに、なぜ名を知っている。問い返そうとした新人を遮って、彼は言った。
「自己紹介がまだだったね。僕の名は……そうだな、敢えて名乗るなら、エル・ロイとでもしておこうかな」
「偽名?」
「さあね」
「身分は。何者なんだよ、一体」
食ってかかる新人を宥めるように、うっすらと笑って彼は言った。
「旅人さ」
気障な男だ、と新人は苛立つ。確かに、銀色の髪を持つ人種なんて、聞いたことがない。だが、染めているようにも見えない。だから、この国の人間でないのは本当だろう。彼の民族、あるいは彼の家系に、特異なものなのだろうか。
給仕が寄ってきて、盆に乗った飲み物を勧めた。どれもアルコールらしく、新人は、嬉々として受け取ろうとしたアシュリーを制し、自身も固辞する。一方エル・ロイは、慣れた手つきで発泡するシャンパンのグラスを取った。
「さて、君は『馬鹿げた戦い』だ、と言ったね? 共和国は国家安定のために戦争を利用せず、他の道を模索すべきだった、と」手にしたグラスを傾け、エル・ロイが言った。
「ああ、そうだ。でも、肝心の他の道が、僕にはよく分からない」新人は応じた。
「なら、より先鋭的な国家の制度を参照してみよう。例えば、帝国。かの国に人種という概念はない。消え去った、とした方が適切かな。あるのは三層六士の階級だ。帝国における人の差は階級の差だ。身体的特徴も何も関係ない。髪が金だろうが、銀だろうが、黒だろうが、ね。自然に生まれてしまった差異を廃し、自らの手で新たな秩序を創生することで、帝国は安定を得た。君は、これをどう思う?」
「人々がそれを納得して受け入れることができるのなら、いいと思うよ。確かに帝国の国家制度は、君の言葉を借りるなら、美的だ。でも、大概の人間は、そんなもの受け入れられない。帝国化されてから最低でも一世代巡らないと、無理だろうね。
だけど、帝国には世界国家政策がある。確か、世界はすべからく帝国化すべし、だっけ。その階級に基づく社会制度は、絶対的に正しいものだから全世界規模で運用しなければならず、また、多種多様な人種民族を一つに束ねる唯一無二のセオリーだ。よって、帝国は拡大しなければならない……。迷惑な話だよ。制度になまじ良い側面があるだけにね。仮に共和国が単一民族国家でも、戦うだろうなあ」
「迷惑な話、ね」エル・ロイは繰り返した。「まるで親に反抗する子供みたいだ。マクロな視点を持てないんだね、共和国は。やはり国家としては帝国の方が成熟しているよ」
「そんな言い方、やめてよ」アシュリーが彼を睨む。「あんたがどこの国の人か知らないけど」
「ああ、すまない。君は反抗期真っ盛りな男の、愛娘だったね」
「あんた……!」
顔が青白い。アシュリーが一歩踏み出す。その手は、拳。新人は咄嗟に、彼女のアクセサリーの巻かれた腕を掴んだ。
「駄目だよ、アシュリー」
「何よ、君、コイツを庇うの?」ピンクのマニキュアが塗られた爪が、掌に食い込んでいる。「パパのこと馬鹿にする奴は、許さない!」
「だからって、彼を殴ればそれでいいわけでも、ない。だけど……」新人は、顎に手を当ててこちらを見ているエル・ロイを睨みすえた。「気に食わないのは、僕も同じだ」
「君の気分を害するのは、僕の本意じゃないな、シント。すまない。謝るよ」
「アシュリーは、どうなんだよ」
「為政者の一族は、どんな非難や罵声を浴びせられることも、甘んじて受け入れなければならない。それが人の上に立つものの義務であり、覚悟だ。この程度を耐えられないようでは、共和国も底が知れる」
「……いい加減にしろよ、お前」新人は悪びれる様子もないエル・ロイの胸倉を掴む。グラスが揺れるが、一滴も零れない。「親のやってることを馬鹿にされれば、普通の人間は怒る。それくらい分かるだろうが。わざわざアシュリーを挑発するためだけに君はここに来たのか?」
「君に会いに来たんだよ」
「真面目に答えろよ!」
「僕は至って真面目なんだけどね……。まあ、いい。君の望む真面目で答えよう。
普通の人間は怒る、と君は言ったね。だが、為政者が一々癇癪を起こしていたら政治は進まない。そんな人間には誰もついていかないよ。だから、最高権力者は、人を超えていなければならない。歴史を見ろ。かつての権力者は、その権力の正当性を霊的能力に求めていることが大半だ。もっとも、エスパーなんてこの世には存在しないから、ならば、現代で為政者とその一族に要求されるのは……崇高な理想と気高き精神。こんな、どこの馬の骨とも知れない男に、二言三言馬鹿にされた程度では動じない心さ。普通の人間では、駄目なんだよ。
しかし、僕にも疑問はある。シント、君はなぜ『誰だって怒る』ではなく、『普通の人間は怒る』という表現を使った? まるで、君自身は怒らないと言っているみたいだ」
「……この世の誰もが、肉親のことを尊敬してるわけじゃない、ってことだよ」新人は掴んでいた手を離す。「君には関係ない」
「やっぱりね」エル・ロイは襟元を軽く整え、言った。「僕と、同じだ」
「同じ……?」どういうことだ、と言い立てかけたのを自ら押し止め、新人は吐き捨てた。「君の家庭事情は、僕には関係ない。それに、僕の質問に答えてないよ」
「君の質問? ああ、僕がなぜここにいるのか、だね。だがそう訊かれても、旅の途中としか答えられないな」
「じゃあ、あんたの国はどこ? なんで旅なんかしてんの?」怒りを収めたアシュリーが割って入る。だが口調は刺々しく、『あんた』という二人称も変わらない。「こんな戦争ばっかりやってる国に来て、何が楽しいのよ」
「世界を知りたいのさ。知らなければならないんだよ、僕は。この地の果てには何があるのか、海の向こうはどこへ繋がるのか、空の彼方には、何が待っているのか」
エル・ロイは窓の向こうの夜空を仰ぐ。つられて見上げた空には、霞んだ星々が遠慮がちな瞬きを見せる。眼下の夜景は美しいが、夜空の方は、綺麗とは言えない。
「海の向こうには、他所の国があるじゃない」と怪訝な顔のアシュリー。
「君は共和国から出たことがないのに、よく言うね。本当かな?」
「地の果てはないよ。天動説じゃないんだから」新人も、彼の意図を量りかねて言った。
「君は世界のどこまでを見た?」
「何を言ってるんだよ。誰もこの世の中を全部見ているわけがない。伝聞じゃ何も信じないってこと? だったら、空の彼方を……宇宙を直接その目で見た人間なんて、ほぼ皆無だ。でも、宇宙の存在を疑う人間なんていない」
「さて、どうだろうね。最後にロケットが飛んだのはいつか、覚えているかな?」
「それは……覚えてないけれど。今は戦争中だ。第一、この辺りはフロウ・ダストが濃いから、航空機だってロクに飛べないんだ。北のほうじゃ薄いって聞いたけど」
「人が宇宙に飛び立つのを阻む、大気低層の金属微粒子層、か」エル・ロイは窓ガラスに細い指を沿わせた。「この街の星がいま一つ美しくないのは、そのせいかな? いや、美しくないのは、この世界自体、か」
そう言って口唇を綻ばせるエル・ロイに、「どういうことだよ」と新人は問う。彼は指を離さず――まるでそこに失った光を求めるかのように――星しか見えない夜空を見上げたまま「言葉通りさ」と応じる。
「この世界は美しくないよ。まるで……」
その時、エル・ロイの言葉を丁度遮るかのように、新人の背後から誰かの声が発した。「お戯れが過ぎます、旦那様」と言ったその声の主を、新人は振り返り見る。
「君か、ゼリア」とエル・ロイが応じたその男の年齢は、三〇の半ばくらいだろうか。だが、短く揃えられた頭髪には白いものも目立ち、四〇台に見えないこともない。彼は新人とエル・ロイの間を隔てるように立ち、一〇か二〇センチメートルほどの高みから、新人を見下ろした。わけもなく苛立ち、新人は彼の灰色の瞳を睨み返す。
いや、苛立っているのではない。怖いのだ、この男が。睨まなければ取り喰われそうな、冷たい瞳。スーツの裾に力を感じる。アシュリーが、背中に回って引っ張っていた。ほんの数分前までは、怖いものなど何もなさそうだった碧眼が、不安の色に染まっている。
「旦那様はやめろ。僕はまだ一五だよ」ゼリア、と呼んだ男の肩を軽く拳で叩いてエル・ロイは言う。
「では、坊ちゃま」
「坊ちゃまも勘弁してもらいたいな。僕はもう一五だ」
ゼリア――どこかで聞いた名前だ、と新人は思う。だが、思い出せない。濁った泥水の中に落とした硬貨を探しているかのように、記憶の中に沈んだまま見つからない。
「保護者……か、何か?」新人は訊いた。
「まさか。君じゃあるまいし。従者だよ、従者」
「偉いんだね、君は」
「ああ。大人を顎で使うというのは、これで気持ちがいいものだよ……っと、もう一人が来た」
エル・ロイが示した方を、新人も見やる。続いて現れたのは、腰に届かんと伸びた金髪を後ろに束ねた青年だった。金髪を見ると瞳の色を確かめるのが癖になっている新人は、彼の眼を恐る恐る覗き込む。ニスを塗った家具のような、明るいブラウンだ。青ではない。「格好いい人だね」と、新人の背中に隠れたまま、アシュリーが耳打ちする。
「……現金だね、女の子って」小声で言う新人に、「何が?」と返して彼女は首を傾げた。分からないならいい、と新人は応じる。
確かに、見知った顔のアーカイブを探しても、これ以上はいないと思えるほどの美男子だった。切れ長の瞳は冷たそうな印象を与えるが、長い髪と、その氷のような眼差しが、貴公子然とした雰囲気を作り出している。だが、エル・ロイに比べると、その美しさも霞む。新人は、小さく息を吐く銀髪の少年へ目を戻した。
「さて、後の予定もあるし、うるさいのに見つかってしまったし……」スーツ姿の二人の男に挟まれ、エル・ロイは肩を竦めて言った。「僕は行くとするよ。また会えるときを楽しみにしているよ、シント、アシュリー」
踵を返した彼の背中に、何者なんだろう、という疑問が再び湧き上がる。偽名を使い、身分を隠し、大人を従える一五歳の少年。誰もが魅入る容姿に目を引く銀髪。旅人と自らを称したからには、帰る場所があるのだろう。それは、どこに? 少なくとも、共和国ではない。海の向こうか、大地の果てか、はたまた空の彼方か。
彼が歩みを止め、こちらを振り返った。そして、大仰な動作で二人を――いや、新人を指差す。
「これだけは言っておく。この世界は鳥篭で、僕らはその中に囚われた小鳥だ。空の青さえ知らぬ、ね。命短し、足掻けよ少年。黒き瞳の……」赤き唇へ微笑を添えて、彼は言った。「光、失せぬ間に」