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#3 困惑をもたらすもの・6
 当てなかったのではない。当てることができなかった。
 未だ掌に残る震えを抑えながら、エドゥワーズ=ヴィン・ライガスは額の汗を拭った。
 確かに、彼の主君に命じられていたからこそ、初弾は敢えて命中しないように、敵が動き出した直後を狙って足元へ撃ち込んだ。だが、二発目以降は違う。かつて見たことの無い、畏怖さえ覚えるほどの高速機動。コンマ一秒先の位置すらも予測できない、完全な乱数化。あんな動きの出来る人間は、一体どういう訓練を――いや、精神の構造をしているのだ、と彼は訝しむ。
 訓練云々で発現する程度の問題ではない。B2システムを搭載した兵器であるMAIや、共和国で言うところのHALでの戦いには、多分に人間の内面が影響する。時に性能差よりも技量差が重視されるのと同じく、人型の兵器に特有の現象なのだが――。
「余りにも、異質だ!」
 動きが余りにも完全で、一部の隙も無い。まるでロボットではなく、疾走する生身の人間を相手にしているかのようにも思えた。それも、常人より遥かに運動能力も持久力も高い。ロボット兵器――〈ベルキャット〉でも〈ストライクリザード〉でも構わないが――で宙返りなどという常識外れな機動をやってみせた人間が、かつて存在していただろうか? 答えは否だ。それほどまでの機体との一体感や、そんな機動を行おうという意志は、一体どこから生まれるのか。明らかに異常で、意志に反する恐怖が芽生える。
 だがどうして、自分は恐怖しているのだ、とエドゥワーズは問う。その動きの凄まじさ故なのか。或いはそれとも、一発たりとも命中させることのできなかった事実を正当化し、狙撃手としてのプライドを守るためか。
「両方だな……」
 スコープ越しに見ているだけで肌が独りでに粟立つほどの、鬼神の如き機動、そして、完全な敗北を認めることができずにこうして唇を噛んでいる自分自身。恐怖し、恐怖する自分を疑い、そしてさらに自分を疑わせる存在を恐怖する。無限に続く螺旋の中に閉じ込められたかのような感覚に、さらにもう一重の恐怖が覆い被さる。
 そして狙撃手と標的の戦いのみならず、彼は狙撃手としても敗北した。
 〈ベルキャット〉の掌中には、正面から銃身を撃ち抜かれたレールガン・ライフルがある。索敵範囲を絞っていたとは言え、こちらが完全に認識していない位置――優に二〇〇〇メートル以上の距離で命中させられたことになる。HALやMAIが、必ずしも操縦者の身体と同じように動くわけではないことを考慮すれば、奇跡と言っても良い。
 面白いじゃないか、と彼は呟く。帝国内で並び立つ者がいない程の狙撃手である自分の弾丸を躱す敵、そしてその自分を、ともすれば上回る技量を持っているやも知れぬ敵。恐怖を押し込め、代わりに沸き上がってきた闘志を、彼は深呼吸して抑える。
 今、撤退行動に入った彼らの背中を突くこともできる。ライフルは破壊されても、機体自体に大した損傷は無い。邪魔を入れられたくなかったので最初の二機へ差し向けた手勢も、まだ十二分に戦える状態だ。
 だがエドゥワーズは、通信機をオンにして言った。
「全機……追撃は一切行ってはならない。速やかに後退、然る後に撤収する。レールガン・ライフルの実用性は、十分に証明できた」
 すぐに、方々から抗議の声が上がる。主に、実際に交戦した数機だ。まだ戦えるというのに、みすみす敵を、しかもこちらの試作兵器をピンポイントで破壊した相手を逃がすことには納得できない――。
 だがエドゥワーズは、そんな彼らを愚か者、と一喝する。家の名、騎士の階級は、時に役立つこともある、と自虐しながら、彼は高らかに宣言した。
「敬意を払え。特にかの傷跡の七番と、番号知らずのスナイパーに。ヴィンの名にかけて認めよう。彼らは、我らが皇子と来るべき『天馬』に、相応しき敵だ」

 自分に何ができるのかを、真剣に考えたことなんて今まで無かった。きっとそれは目の前にできないことが多すぎるのと、何もできない、という答えを突きつけられることが怖かったのだ、と新人は思い返す。無根拠にやれると叫ぶか、駄目だ駄目だと俯いて、扉の中に閉じこもるか。
 だが、本当に何もできない、無価値な人間なんてこの世に存在しない。誰も、自分を知らないだけに過ぎない。ジェズイットはそれを評し、若さと言った。
 結局、新人の機体には傷一つ付いていなかった。飛び散った岩盤の破片を浴びた、ごく小さな傷ならあるものの、統計上では一割に満たないという無傷での帰還を成し遂げたことになる。よくよく考えれば凄いことをやったのではないか、とぼんやりと思うことはあれど、自分に何かができた、と考えることは、それこそ煙草の煙を掴もうとするようなもので、捉えきれぬ思考は風に吹かれて消えていく。
 だが目の前でハンガーに固定されている自分の〈ストライクリザード〉に、定期点検以上の修復は一切不要だった、というのは確かな事実なのだ。整備用に関節を真っ直ぐ伸ばした姿勢なので、一回り大きく見える愛機を見上げ、新人は腕を組んだ。
 戦えば、毎度毎度傷だらけになって帰ってきた。今戦う自分をなし崩しに肯定することで心に刻まれる傷、それとも、力を持たないものが、それでも何かを変えようと、どうにもならない大きな力に挑もうとして作った傷か。良く戦場から逃げ出す気にならなかったな、と新人は苦笑いを浮かべる。
 傷つき擦り切れ、それが癒える過程にこそ、成長というものがある。あの日――初めて〈ストライクリザード〉に乗って戦ったとき、ジェズイットはそう言っていた。確かに、技量はそれなりに上がったかも知れない。傷を負わずに帰ってこれたことが証してくれる。だが――。
(技量じゃない、僕の心は、成長しているのか?)
 自分は、昨日と違う誰かになれているのだろうか。立ち尽くす新人を見つけ、「仕事減らしてくれてありがとうよ」と声を掛けてきた整備兵に生返事を返す。
 外面なんかではない。精神が変わらなければならない。あの、扉の中に閉じこもっていた子供のままでは、いられないのだから。徴兵があろうと無かろうと関係ない。
 社会の流れに適応する方法は二つある。一つは社会と同じ速さで自分自身も動き、成長し、変化すること。もう一つは流れの底に沈み、流されることを拒絶する代わりに一切の変化も拒絶すること。新人は、後者だった。
 だが、小鳥が目にも止まらぬ速さで飛び回る虫を捕らえることができるのは、彼らもまた同じ速さで飛び続けているからだ。動かなくとも生きていけるのは、蜘蛛のような狡猾な存在のみ。愚かで、かつ変わらない存在は、淘汰され生きていくことさえ許されないのが、社会の摂理というものなのかも知れない。
(なら、僕の翼はどこから来た?)
 やって、やれたということは分かった。ならば、何故できたのか。次々と降り注ぐ弾丸の雨を全て回避すること、確立上は僅か一割に過ぎない、無傷での帰還を三回目の戦闘でやってしまったこと。
 うぬぼれるつもりは無い。だが、少し異常なのではないか、と新人は思う。何の訓練も受けていないのに戦ったことからして、そうだ。なぜできるのか。なぜやれるのか。自分の力は、どこから来たのか――。
「なーに難しい顔してんのよ、新人」
 肩を叩かれ振り向くと、美琴の姿があった。
「僕だって色々考えることがあるんだよ。無い頭使ってどうするって、君は言うだろうけどさ」
「おお、分かってんじゃん。少しはこのあたしの複雑で機微に満ちた心を理解できたのかしら?」
「いや、君、どっちかというと単純で分かりやすいタイプだと思うんだけ……」
 言い終わる前に、彼女の拳が新人の頭を小突いた。またあの、引き攣った満面の笑みだ。
「折角お父さんとお母さんに貰った命、もう少し大事にしたらどうなのかな?」
「うーん、あんまし良い親じゃなかったし」
「だからあんたは無茶なことばっかするの?」
 彼女の語調が、一瞬で一八〇度転回した。つまりここから先が彼女の言いたいことであり、切り出すタイミングを虎視眈々と窺っていたことになる――。そんなことを分析しなければ人と話すことすらできないのか、と新人は自分の性に幾度目かの吐き気を催す。
 確かに――いや、確認するまでも無く、これまでの戦闘で無茶なことをやらなかったことは無い。最初の戦闘も、ジョニー・メイフェンに挑みかかったときも、そして今度の、あの凄まじい威力の砲と対峙せざるを得なくなったときも。
 だがその理由は、と問われると、新人は答える言葉を持たなかった。理由が無いわけではない。確かに、戦いへ向け走っていった時には確かな理由を持っていた。だが今になって理由を言葉にしてみようとすると、色々なものが絡まりあって上手く纏めることができない。
「あんたまさか、またあたしがピンチだからって、無駄に気合入れたんじゃないでしょうね」
「うーん、どうなんだろう。良く分かんない。そういうの、僕の柄じゃないし、たぶん違うと思う」
 と、新人は思わず嘘を吐いた。絡まりあった中に、彼女を放ってはおけないという心があったことは事実なのに。『彼女を見捨てるわけにはいかないんです』と、確かにサラ・ウェインへは言ったのに。どうして、目の前の美琴には伝えることができないんだろう――。
「まあどっちだっていいんだけど。あたしの目の前で死ぬのだけは止めてよね。後味悪いから」
「保証はできないよ」
「じゃあ約束はできる?」
 何気ないその一言に、新人は思わず息を呑んだ。約束――生まれてこの方、約束なんて、したことがあっただろうか。勿論、無い。親とそんな会話を交わしたことも無ければ、何かを約束できる友達もいなかった。だから新人にとって、約束という言葉は、とても遠くて手の届かない、夢の中で見る物のように思えた。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。約束の間に要るものは信頼。ならば自分と彼女の間には、それがあるということ――少なくと美琴はそう思っているということ。
 頷いて良いのだろうか。自分は彼女の信頼に応えられるのだろうか。下らない嘘ばかりで、彼女の真っ直ぐな眼差しを受け止めることすらできない自分に。
(それだけじゃない。待て。落ち着いて考えろ。死ぬのは止めて、約束して。これじゃあ、まるで……)
「死地に赴く恋人を見送る故郷の女、といったところじゃねえか」
 背後から現れたマイスト・リーズが、新人の思考を代弁した。やはりこの人には敵わない、と新人は息を吐く。
「いよう、少年少女。ちゃんと青少年してるかい?」
「どこから見てたんですか、マイストさん」額に手を当て、新人は言う。約束できるのかできないのか、選択を先送りできたことに安堵しながら。
「お前が腕組みして難しい顔し始めたところから」
「つまり最初からじゃないですか!」
「言い換えれば、そうなるな」
「何しに来たんですか、マイストさん」再び一瞬で口調を転回させ、美琴が言う。
「サラが呼んでる。記念写真を撮ろうってさ」
 親指で格納庫の扉を指し、マイストは笑った。

 いつの間にか――と、いう表現が本当にぴったりだと思う。
 七機の〈ストライクリザード〉は今、全機がメンテナンスを完了し待機状態を継続している。剣撃戦仕様のジェズイット機、マイストの狙撃仕様、情報収集能力に長けるヒールレイス機、それを真似た仕様の美琴と、仕様の方向性を決めかねている新人の機体。そして、異彩を放つ二機がある。
「光触媒染料を用いなかった時点で貴様の負けだ。観念するんだな、シュミット」
「ペラペラ装甲に水色? そんなの格好悪いですよ、松下さん」
 またあいつらか、と新人の隣でマイストが溜め息を吐いた。四番、松下の機体は高速格闘戦仕様、そしてシュミットは重砲撃戦仕様。新人は一度、彼らに命を救われている。だから忘れるはずは無い。無いのだが――目の前に並んだ二機の〈ストライクリザード〉は、何度目を瞬かせても『見覚えの無い』物へと変貌を遂げていた。
「いつの間に……」
 確かに先日までは基本色のままだったのに、松下の機体は青に、シュミットの機体は砲基部までもが緑色に染まっていた。本来の〈ストライクリザード〉の基本色は暗赤だったはず、と他の機体へ目を遣り、自分の記憶が確かなことに、新人は安堵さえ覚えた。
「水色ではない、浅黄だ」
「対して変わんないじゃないですかー」
「ふん、森林地帯でもないのに趣味の悪い緑よりは余程良い」
「モスグリーン、って言って下さいよね。砲撃戦っぽいでしょう?」
「無駄に目立って狙い撃たれるが良い、愚か者が」
「敵の射程内に入る前に全部潰すから問題ないですよーだ。〈シュミット・スペシャル〉の火力を……」
 既にサラ・ウェインはカメラを三脚に設置し、角度を調整しているところだ。一六特機隊の面々は、新人を含め殆どが既に集まっている。だが、シュミットと松下の不毛な言い争いは終わる気配を見せない。尤も、彼らの改造合戦は今に始まったことではない――と、まだ一六特機隊に配属されて日の浅い新人でさえも理解していた。つまりこれもまた、ここの日常の一部なのだ。
 ヒールレイスと美琴が、何か小声で話し合っている。それに興味を掻き立てられながらも目線を外した新人は、悠然とした足取りで人の群れに加わった最後の一人――カーバネル・A・ジェズイットを発見した。
 途端に、中央にスペースができる。隊長の姿を認めた人々が、一斉に場所を譲ったのだ。余り権威的ではないが、尊敬されている――羨望と、少しの反発が新人の心に入り混じる。
「俺の権限でカラーリングは許可するから、二人ともそう騒ぐな」敢えて中央へは入らず、一番後ろから身を乗り出しながら彼は言う。「遅くなってすまない。それと……」
 傷跡の付いた左腕で、ジェズイットはそのスペースを指差した。
「そこの特等席はウチのルーキーに譲るとしよう」
 ルーキーと言えば即ち、新人だ。幾つもの腕に押し出され、抵抗虚しく新人はカメラの真正面へと押し出される。〈ストライクリザード〉なら幾らでも回避できても、人の腕――心を躱すことはできない。いや、受け止めなければならないのだ。皆が何を思い、何故ここにいるのかを。
 一人ずつ、少しづつでも良い。今までの人生でできなかったことを、取り戻せばいい。人のことを知ろうとする意志を持つこと。自分を止めずに、変わり続けること。そうすればいつか、周りにいる大人たちのようになれるのだろうか?
 押し出されたスペースは、一人分にはやや広かった。もう一人くらいは横に並べそうだ。だから新人は手を伸ばし、彼女を呼んだ。
「こっち来なよ、美琴」
「やだ。写真嫌い」
「そう言うと思ったけどさ。正直確信してたけどさ」
 即答した、相変わらずの美琴に溜め息を吐きながら、新人は彼女の腕を引いた。
「いや、写真ってのは人間なんて下らない物撮ったって仕方ないってあたしは思うのよ。ほら、風景とか情景とか。もっと綺麗なものを保存するために……」
「いいからいいから」
「やだ。絶対やだ」
「ならば、そこの特等席を……」腕組みにニヤリと笑い、ジェズイットが言った。「ウチの『ルーキー達』に譲るとしよう」
「うげっ」
「仮にも上官に向かって、うげとはなんだ」
 大声を上げて笑うジェズイットとはにかむヒールレイスに背中を押され、彼女は肩を窄ませながら新人の隣に収まる。
「撮るならもっと早く言ってくれればいいのに」
「え?」
「うっさい、バカ」
 ぶつくさ言いながら、彼女は前髪を整え始める。
「で、できるの? できないの?」
「え? 何が?」
「さっきの話よ。曹長の妄言は忘れて」
 再び腕を組み、新人は考える。いつ死ぬかも分からないのが戦場だ。だから、死なないだなんて約束はできない。生きたいと願ったところで、弾丸はそれを聞き入れない。いつか、もしかしたら、彼女の目の前で自分が死ぬことだってあるかも知れない。
「あたしの前から誰かがいなくなるのは、もう嫌なんだ。だから……」
 だが、死なないかもしれないじゃないか、と新人は思う。自分を人間の屑と責め続ける隊長でも、大人であれない、戦場が似合わない副長でも、彼らと一緒なら、何だってできる気がした。どんな負の可能性だって吹き飛ばせると思った。
 だから新人は、頷いた。
「できるよ。約束する。僕は、死なない」
「はーい皆さん、撮りますよーっ!」
 サラの大声に、新人はカメラの方へと目線を向ける。
 信じ、信じられる相手がいる。もう孤独な、閉じ篭っていた子供じゃない。あの頃へはもう戻らないと、新人は強く誓う。
「ご唱和下さい……。二乗すると四になる数はーっ!?」
 自分の力がどこから来たのか――。懸念はあるけれど、一人で考える必要はない。幾ら乗じても変わらぬ一ではない。少なくとも隣には、彼女がいる。
「あ」
 できたじゃないか、戦う理由。
 パズルのピースがぴったり填ったような、不可思議な感触。そして新人は――自らが、心に堅く降ろしたシャッターが、ゆっくりと開く音を聞いた。
 二、と叫ぶ人々の中で呆然と口を半開きにした新人と、『プラスマイナス2』と答えようとしたマイストの顔だけが珍妙に写った写真が送信されてきたのは、ものの数分後のことである。

 昔から、眼を見ればその相手が何を考えているのか、手に取るように分かった。自分に取り入りたいのか、自分に何かを期待しているのか、自分に何かをさせたいのか、自分を何かに利用するつもりなのか。だから、彼らが望む物を与えてやるのは、本当に簡単なことだった。
 人の心とはこうも単純なものなのか、と幼い頃から彼は疑問に思っていた。底の見え透いた心は文字通りの浅薄で、そんな些細で軽くて瑣末なことに懸命になる大人たち――ほんの子供に過ぎない自分に阿り諂う姿を見ては、彼は彼らを見下し、軽蔑し続けた。
 そして大人はそれを見て、生まれながらの帝王であるとか、血に現れた王者の風格であると評し、ますます崇める。
「お前は孤独なのよ」傍らの女が言った。「完全な孤独。誰もお前を理解しない。お前が理解したいと思える相手もいない。天に召されて久しい母、病床に臥せった父。所詮下らぬ事物に支配された心しか持たぬ下らない人間達。
 壊したいと思う壁すら存在しない。越えたいと思う人間なんていない。それはお前が優れているから? 何て自惚れでしょう。ならば周囲が余りにも愚かだから? まさか。愚かなのはお前? それとも周り?」
「僕だ」
「ならばどうして周囲は何も変わらない? お前が愚かでもどうにかなってしまう世界は、愚かではないと言うのかしら? 人の集合体はカオス。その渦中に身を没し、変わらぬことで崩れかけの自分を保ち孤独に耐えているお前に尚、餌に群がる魚のように集る奴らは愚かではないとでも?」
「そうだ。僕はあらゆる感覚を殺した。そして周りに自己を溶け込ませて、相手の中へと入り込んだ。そうして心の中を覗く。相手の望むものを知り、与え、服従させる。例えば自らの心の裏切りに脅える男の拠り所となり、心だけじゃない、全てを捨てさせた。血筋と自らの願望、望まない今を肯定するしかなかった若者に生きる道を与えた。破壊の快楽に取り憑かれた男には再び戦う術を与え、彼の神になった。
 何て醜い。何て汚い。時々、僕には人の心があるのだろうかと疑ってしまう。誰もが僕を、人智を超えたとか天上の存在とか、超越者のように扱う。だけどね、彼らにそう思われる僕こそが、何より最も忌むべき存在なんだ。
 まるで牢獄だ。僕の心が枷となって僕自身を縛り付ける。行いが檻となって僕を閉じ込める。閉ざされた世界の中で、誰よりも深い孤独と、誰よりも傲慢な心を持って生き続けているのが、僕だ」
「だけど私はお前を認める。天上の存在を地上の女が認めたら、何になるのかしら?」
 女の身体が、少年に覆いかぶさった。視界が横転し、ベッドの天蓋が正面に見える。掌に触れる、サテン地の滑らかなシーツ。総絹の、薄紅に染められた豪奢なそれは、滑らかでかつどこか暖かい、だが刺々しさはまるで無い、いつまでも包まれていたいと思う温もりがある。真に高貴な物は何でも、卑しさを寄せ付けない。
 なら目の前の女は何なのか――彼が目を逸らし、広々とした室内に向けたとき、彼女が耳元で、生暖かい吐息とともに囁いた。
「どう思う……リィドウェルクタ=ロイ・エスカータ?」
「僕は……」
 部屋はこのベッドが五台収まってもまだ余裕が残りそうなほど広い。窓にはレースの、一目で模様を把握しきれぬほど凝ったカーテンが引かれており、その隙間から陽光が染み入って、部屋の中に影絵のような複雑な紋を作っている。僅かに開いた窓から風が吹き込み、模様が揺らぐ。
「僕は、あなたを認めない。認めるわけにはいかないんだ」
「あら、だったらどうして……」女の掌が、帝国第三皇子の頬を撫でた。「お前はこの場所から逃げ出そうとしない?」
「戯れが過ぎますよ……姉上」
 彼は女――自身の姉の、ロンググローブに包まれた手を払い除けた。
「戯れれば良い。所詮生きることなんて、戯れに過ぎないのだから。生を愉しめない人間は、死んでいるも同じ」
「じゃあ今の僕は、死んでいるのかな」
「ならば私がお前に命を与えよう。この私、アリアネルア=ロア・エスカータが」
 真紅のドレスに飾られた身体が揺れる。それがまるで、地獄へ繋がる永久の眠りへ誘う振り子のように見えて、彼は唇を噛んだ。痛みよ、起これ。酔うな、眠るな、目を醒ませ。
 命を与えるとは何か。その行為の甘美な誘惑を、リィド=ロイは否定する。
「要らない……。僕の命は僕の物だ。僕の生き方は、僕が決める」
「そんな子供のような幻に、何時まで縋っているつもり?」
「幻だなんて、誰が決めた?」
「お前はもう、大人になっていいの。同じになればいい……流れの中に、一つになればいい」
「それはあなたの主観だ、姉上。僕はそれを認めな……」
 リィド=ロイの口を、アリアネルアの唇が塞いだ。
 嫌な匂いがした。上から侵食してくる、女という存在。唇を離すことも顔を背けることもできず、彼の中を、アリアネルアの舌が這い回る。頬を撫で、歯茎に触れ、唇を愛おしむように舐める。舌同士が絡まり合い、唾液の弾ける音が部屋中に響く。
 彼女が吐息を漏らす。柔らかな刺激――その奥底に蠢く、この世の物とは思えぬほど醜い何かに、彼は耐え切れず身震いした。そして、両腕で姉の身体を押し返した。
「あなたは……何を考えている?」袖で唇を拭いながら、半身を起こして彼は言う。
 昔から、この女の考えだけは読めなかった。自分と同じ色の瞳を正視することすらできなかった。何をしていても、彼女にだけは敵わない。だから、彼女にどう接すれば良いのか、生まれてからずっと、すぐ側にい続けている存在だというのに、分からなかった。
 だから、逃げることも拒絶することもできない。流されることしかできない。この歪んだ愛の形は、間違っているのだと、強く念じていようとも。
「お前は私の奴隷なのよ。心の底から、身体の芯から。お前に剣を教えたのは誰だ? 機動装甲歩兵を与えたのは誰だ? お前の……」
「黙れっ!」リィド=ロイは叫んだ。激流に揉まれ、流されまいとする者のように。「あなただ……。そう、全てあなただ。僕に剣を教えたのも、初めて剣を交えたのも……僕がモビリティ・アーマード・インファントリで前線に立つことを許したのも、全てあなただ。僕の全てはあなたでできている。そうさ、僕はあなたが怖い。怖くて堪らない。僕を僕で無くするあなたが」
「だからお前は、私を拒絶できない。私を拒絶するとは即ち、お前自身を拒絶するも同じ。こうあるためにお前は生まれ、育てられた……いや、私が育てた。血と運命と、私という女の奴隷であるべくしてね。
 お前は女を恐れているだろう? その証拠に、従者も男しかいない。私がお前の側に女を送ろうとしたら、裏切り者や狂人を取り立ててまで自分の身を守った。全部、私がお前の中にいるからだ。お前の精神は、完全に私が支配している。私によって、お前は全ての女を恐怖する。ほら、リィド……私を見てごらん」
 言われるがままに、彼は逸らしていた視線をアリアネルアへ向ける。風が二人の間を抜け、影模様が揺れる。そして差し込んだ光が、女の瞳を、髪の色と同じ銀色に輝かせた。
「お前の瞳は私の証。お前の中には私がいる。幾ら忘れようともがいたって……」女の両腕が、彼の華奢な身体を抱いた。「お前の身体は、私を忘れることができない」
 アリアネルアの――女の身体が、リィド=ロイの全身を擽った。肌蹴た胸元に肩が埋もれ、柔らかな感触に身体中が痺れる。腰を、頬を撫でる掌、絡み合う両足、髪を掻き分け耳に触れ、そして咥える赤い唇。スリットの深いのドレスの下に、彼女は何も身に着けていなかった。
 離れたい。なのに離れられない。肉体が、自分の意志の届かぬ遠くへ離れていくかのような錯覚に囚われ、彼は奥歯を噛み締める。
 心が広がっていく。自分を埋没させ、今をただやり過ごすために。こうしてまた、意志が消えるのだ。抵抗する意志も、考える意志も。
「姉上……」
 そう呟いた瞬間、全てが見えた。次にアリアネルアが何を言うか、彼女の手は、どこに触れるか。呼吸のリズムも、風が揺らす、蜘蛛の巣のようなレースの影も、何もかもが自分と一つに繋がった気がした。
 二人の身体が折り重なってベッドに倒れ、女の左手が、リィド=ロイの襟元に伸びる。そして、彼の胸元を彩る紅色のタイを解いて、彼女は言った。
「そんな呼び方は駄目。昔のように、私を呼びなさい。私を愛しなさい」
「アリア、姉様」
「そう……良くできました、私のリィド」
 リィド=ロイの身体が、一段とベッドに深く沈み込んだ。
(これが僕の檻。これが僕の枷。僕は……彼女から逃れられない)
 受容したくない感覚を与えられる肉体を見下ろし、彼は思考する。籠の中の鳥、蜘蛛の巣に絡まった蝶、足枷を嵌められた囚人。ありとあらゆるモチーフが、一瞬の内に脳裏を過ぎる。ここから逃れたい。自由が欲しい。彼女からも、ロイの名からも、全ての柵から解放されたい。
 そして少年は、ここから連れ出してくれる誰かを求め――天翔る翼を願った。

That`s the end of #3,"Women,the Bringer of Puzzlement".
次回更新は未定のようです


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