第5話「隣人の母」
「恭、先に帰っていていいから。」
時刻は放課後へとなっていた。大抵は一緒に登下校を共にしているそんな悠璃からの一言は珍しかった。
「どうかしたのか?」
「評議委員会があるの。だから遅くなるから先に帰っていていいわ。」
そういえば悠璃はこのクラスの学級委員長だった気がする。そして、その評議委員会は長丁場になることで有名だった。
「別に待っててもいいぞ。」
俺は特に帰っても用事がないので、のんびり図書室ででも待っていようかと思いそう言った。
「え、いいの?それじゃ待って…。」
悠璃がちょっと嬉しそうな顔で何かを言おうとしていた。がその時悠璃の携帯電話が振るえた。
「もしもし、え…うん…でも…あう…わ、わかった言っておく。それじゃあね。」
通話が終了して携帯電話を制服のポケットにしまって小さく溜め息をついた。
「電話誰から?」
「…お母さん。」
「悠さんがなんでまた?」
東條悠さん。悠璃のお母さんである。悠さんにはいつもお世話になっている。毎日晩ごはんをご馳走になっているし、俺の保護者にもなってくれている。
「恭に買い物付き合ってほしいって。荷物持ちが必要だけど私帰り遅いから恭に手伝ってもらいたいみたいよ。だからお母さんに付き合ってあげて。」
「そういうことか。わかったそうするよ。んじゃ先帰るな。」
「むう。私も終わったら直ぐ帰るから。」
何故か少しむっとした悠璃を後にし帰路へと着いた。
「こんちは。」
悠璃の家のインターホンを鳴らした。
「はぁい。あ、恭ちゃんね。」
俺の声を確認するとエプロンを着けた悠さんが出迎えてくれた。色素の薄い目は悠璃とそっくりで全体も似ている。綺麗な女性だ。
「あ、あの…。」
「どうかしたの?」
「放して下さい。」
悠さんに会うに当たっていつも少し困ることがある。それはいつも抱きつかれることだ。嫌ではない。嫌ではないけれど世間体的に痛い。女性特有の柔らかさは心地が良くてついそのままでいたくなる。しかしそこは分別をつけなくてはならないので我慢しなくてはいけないのだ。
「別にいいじゃない。今日は悠璃がいないんだから。」
「そ、そういう問題じゃありません。」
「むう…ヤだ。」
どっちが子供だか分からなくなる。
「あ、そうだ。悠さん早く買い物に行きましょう。」
半ば強引に悠さんを離して買い物へと促した。渋々悠さんは了解し、家の中に戻って支度をして出てきた。
「恭ちゃんと買い物なんて久しぶりね。だから私今日はおめかしするのがんばったのよ。」
「いや、がんばらないで下さい。デートじゃないんですから。」
「似たようなものじゃないの。」
悠さんはそういうと俺の腕をとって腕を組んだ。明るくて笑顔の素敵な悠さんを見ていると、俺の心は洗われる。例え一昨日気に食わないことがあろうと、例え昨日誰かと喧嘩しても、例え今日嫌な夢を見たとしたって、悠さんと話せば俺は軽くなる。もし俺がこの世でもう一人だけ母親と呼べるなら、俺はこの人を母さんと呼びたい。
「これで全部揃ったわ。恭ちゃんが手伝ってくれたおかげで助かっちゃった。」
「これぐらいお安い御用です。こういう時こそ俺みたいな男手を借りて下さいね。」
両手に買い物袋をぶら下げているが然程重くはない。けれど、女の人にとっては意外と堪えるものだろう。いつもは悠璃と半分ずつ持っているのかもしれない。こんな華奢な腕をしているのにいつも力強く感じるのは内面的なものなのだろう。
「恭ちゃん…。」
ふと悠さんを見てみると目を潤ませて何故か上気だっている。妖艶だ。
「ど、どうしたんですか?」
「いつの間に女を口説けるようになったの?あぁ恭ちゃんが私をそんなにも想っていてくれたなんて嬉しいわ。」
「く、口説く!?ええ!?」
俺はただただ困惑した。俺は生まれてこの方女を口説くことはもちろん告白だってしたことがない。まして悠璃の母親を口説くなんてもっての他である。
「私はまだオンナよ。恭ちゃんさえよければ…。」
「よくありません。」
「意地悪。」
「意地悪で結構です。」
「そういうこと言うと今日のおかずのハンバーグあげないんだから。」
その一言で俺の中の何かが崩れ落ちた。
「………ぐすんっ…うぅ…。」
目からは熱いものが零れ出た。すると俺の頭の上に柔かくて温かいものが置かれた。それは悠さんの手のひらだった。
「よしよし、いい子は泣かないの。ママもちょっと意地悪だったね。ちゃあんとママの特製ハンバーグをあげるからね、よしよし。」
「…ひっぐ…ホント?」
「…ひとつだけお願い聞いてくれたいいわよ。」
「お願いって何?」
悠さんの手が俺の頭をふわりと撫でる。
「それはね………『ママ、大好き』って言ってほしいの。できる?」
「うん、できる。」
ハンバーグ。
「ママ、大す…。」
「何を言わされてんだあ!!!」
「へぐっ!?」
亜音速に達した何かが俺を直撃した。一瞬意識が飛んでしまった。
「ゆ、悠璃。…ハッ!?俺は一体何をしようとしてたんだ。」
ぶっ飛んで来たのは悠璃のカバンだった。眉を吊り上げ仁王立ちしてこっちを睨んでいる。恐い。
「何うちのお母さんの口車に乗せられてんのよ。見覚えのある後ろ姿だと思ったら案の定恭とお母さんじゃない。だいたいお母さんも何してんのよ!」
実の母親に向かってその睨みは中々できない。一朝一夕の技ではない。
「恭ちゃん恐いよぉ。」
俺の後ろに隠れる悠さんだったが、口でああ言っている割には恐そうに見えなかった。このままでは埒が明かないので帰ることにする。
「と、とりあえず帰りませんか?」
「ふん、そうね。」
「うん、恭ちゃんの大好きなハンバーグ作らないとね。」
俺達は横一線に並んで西日で真っ赤になった道を足並み揃えて帰って行く。
背中に背負った影は細く長くまるで、今まで歩んで来た道をなぞるように、そして追い掛けているように俺には見えた。
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