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櫻の宴 作者:桐生 慎
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第四章 黄昏の狭間

「はいからさん」の本名を聞いた鈴香は、脱兎の如くグループから離れ、単独行動に移る。
 取り残された僕らは鈴香のメモ書き通りに嵯峨野探索を続行するが、そこは僕らが知る嵯峨野では無くなっていた。レトロで黄昏色の嵯峨野探索は途中から、鈴香の霊猫の誘いによるものに変貌する。
 現実の世界とは乖離した嵯峨野探訪に心細さを覚える僕らだったが、好対照に「はいからさん」はそれが本来の嵯峨野であるかの様に生き生きと振る舞い始めるのだった。
(一)
 結局の所、僕ははいからさんと二人にされて置き去りにされた。
 鈴ちゃんは走り去ってしまった。いや、着物だから裾を乱して本当に走ったわけではない。なで肩でいながら、身体の芯に真っ直ぐな棒を通している様な凛とした姿勢は崩さず、優雅な足裁きの摺り足で立ち去ったのだが―――その移動速度はやはり走り去ったとしか形容出来ない。ちょっとしたホラー映画を見るかの様だった。和服での優雅な摺り足のお手本の様な歩みなのに、まるで摩擦係数が存在しないかの様に、そう。フィギャースケートで氷のリンクを滑る様に、瞬く間にその姿を僕の視界から消して行った。
「……なんだよ? いったい?」
 そうぼやきながら僕は未だしゃがみ込み咳き込んで苦しむ『はいからさん』の背を摩っていた。はいからさんの目尻からは涙が零れている。余程、苦しかったのだろう。喉が笛の様な音をたてている。後数刻締め上げていたなら、間違い無くはいからさんは鈴ちゃんに絞め殺されていたに違いない。自分より背丈の高い相手を締め上げる鈴ちゃんの臂力には恐怖を覚えざる得ない。あの細腕のどこからこんな怪力が生まれるのだろう?
 般若の形相ではいからさんを締め上げていた鈴ちゃんだが、はいからさんの名を聞いたとたん、怒りを忘れて脱力し、蒼然となった。心配した僕が肩に手を置くと、ビクンと身体を震わせた。
 驚いた。
 振り向いたその顔に表情があった。
『絶対零度の魔女』
 学校中からそう評される程に感情を表に出さない鈴ちゃんの顔は激しい焦燥感に泣き出さんかの様だった。
 何か伝えようとしたのだろうか? 鈴ちゃんの口が酸欠の金魚の様にパクパクと開き閉じる。だが、言葉は出ない。そんな自分に業を煮やしたかの様に鈴ちゃんは激しく頭を振った。鈴ちゃんは慌ただしく懐から小さく畳んだ紙を取り出し僕に押しつけた。それが何かを訊く暇も与えずに、鈴ちゃんは早口でまくし立てた。
「先に行ってて! 彼女をお願い。すぐ追いかけるから! 間に合わなかったら化野念仏寺で待ってて! 陽が落ちる前には必ず行くからね!」
 そして脱兎の様に姿を消した。
 小さく畳まれた紙は嵯峨野の地図だった。ルートが書き込まれ、尋ねる場所で何を見るかも綿密に書き込まれている。伊達の立てたプランから嵯峨野を選んだのは鈴ちゃんだが、神経症かと思う程に綿密に書き込まれた地図を見る限り、この旅行には相当な思い入れがあった様だ。
 はいからさんの介抱をしながら、慌てて姿を消した僕の彼女を思い浮かべる。メロスの様だと思った。『走れメロス』のメロス。自分の代わりに囚われの身となった友人の命を守る為、ひた走りに走ったメロスの姿が鈴ちゃんと重なる。恋人の僕だから分かる。鈴ちゃんはメロスの様に大切な誰かの為に、今、全力疾走しているのだ。
 僕は去り際の鈴ちゃんの言葉を思い返す。
「貴方には言うまでも無いけれど―――いい? 何があっても驚いてはダメよ。明美にそう伝えて。あの娘は心得ているから。伊達君をいなしてくれるわ」
 夏休みの異常な体験を思い返した。
 あんな異常な事がそうそう起きるとは思えない。けれど、鈴ちゃんが言う以上、常識の埒外の事が起きるのは覚悟した方が良いだろう。僕ははいからさんを凝視する。こうして苦しんでいる以上、彼女は真っ当な人間だとは思う。けれど、彼女の登場は常軌の埒外ではなかったか? 彼女の言動はどこか常識から逸脱していなかったか?
 僕は頭を振って彼女を化生とする自分の考えを打ち消した。鈴ちゃんは言った「彼女をお願い」と。鈴ちゃんは、はいからさんに、はぐれた恋人と会わせてあげると約束していた。僕には鈴ちゃんの様な能力はないけれど、追われていると言う彼女を守り通す位はしないといけない。鈴ちゃんが「頼む」と言ったのだ。事情はまるで把握出来ないけれど、僕は一命を賭してでも彼女を守る義務がある。それが僕と鈴ちゃんの関係なのだから。
 僕ははいからさんに声をかける。
「大丈夫ですか?」
 自分でも驚く程に朗らかな声が出た。はいからさんは驚きの色を浮かべた。だが、答えようとして、また、激しく咳き込む。僕は優しく背を摩ったが、はいからさんの背を丸めてしゃがみ込んだ姿勢では埒が明かないと判断した。剣道で防具の無い脇の下に激しい打突を受けた時と同じだ。あれは肺を激しく打突された様なもので、片肺の空気が追い出され呼吸困難に陥る。まぁ、一人前の剣士になるには、そう言う打突への耐性を身に付けないといけないが、簡単に鍛えられる部所じゃ無い。新入生がそう言う打突でしゃがみ込み呼吸困難に陥った時は無理矢理気道を上に開けて活を入れ、失った空気を補充させる。
 僕は摩るのを止めて、はいからさんの胸と腹の間、横隔膜の辺りに右手を差し込む。はいからさんの予想外に豊かな乳房が右腕に押しつけられる。その柔らかな感触はブラジャーを付けていないもので、狼狽を覚えたが、かまわず横隔膜の中央に掌をあてがい、下から強く押し上げて気道を真っ直ぐに確保する。ややのけぞったはいからさんの背中、貝殻骨が作る背骨中央の凹みのやや下に、もう片方の掌を勢い良く押し当てる。
「―――カハッ」
 はいからさんは白いのど笛を天に晒す様にして、肺の空気を全てはき出す。次の瞬間、体が自然に深呼吸で肺を健全な空気の満ちた状態にする。後は暫くその姿勢を維持させて呼吸が落ち着くのを待つ。はいからさんの身体に力が戻ったので、僕は横からはいからさんを抱きかかえていた姿勢を解いて、はいからさんからやや距離を置いて離れる。
「失礼な真似を許して下さい。でも、もう、普通に息が出来るでしょう?」
 はいからさんは抱きかかえられる様な仕草に羞恥を覚えたのか、顔を朱に染めて立ち上がり、俯いたまま
「ありがとうございます。楽になりました。お恥ずかしく思います」
 と言った。
「いえ、役得ですよ。貴女の柔らかい身体を抱く果報を得たのですから」
 はいからさんはきっと顔を上げ、唇を尖らし、僕を睨んだ。僕はそれが可愛くて思わず柔らかい微笑で答えた。それではいからさんは首まで朱に染め俯いた。
「―――神崎様は悪い男の子ですわね。そんな笑顔は鈴香様以外には向けてはなりませんよ」
 そう言ってはいからさんは初めて鈴ちゃんが消えているのに気づいた。
「鈴香様はどちらに? わたし、お詫びをしないといけません」
「貴女のお名前を聞いて火急の用が出来た様です。後から追い付くと言い残してどこかに行ってしまいました」
 はいからさんは顎に指を当てて少し難しい顔で宙を仰いだ。
「もしかして―――わたしの為なのかしら?」
「多分。あれはそう言う女です。あのように激すると鬼女の様ですが、滅多にあることではありません。御理解の上、お許し頂けると有り難く思います」
 はいからさんは暫し思案して無言になる。そして小さく呟いた。
「―――あれは女性なら悋気を起こしてしかるべきでしょう。わたしが迂闊に過ぎました。神崎様にも心からお詫び申し上げます。美しい睦言を土足で穢したのですから、お詫びの言葉もございません」
 泣き入りそうな声だった。僕は気分を害してはいなかったので、朗らかに尋ねた。
「貴女はああ言うことを受け容れられる女性なのですね? 巫女でもなさっていたのですか?」
「わたしの家系は女系相続を貫くものです。ですから世の不可思議はあるがまま受け容れる下地があるのでございますよ。わたしの家系では婚姻には七生を本気で誓います。ですから、あのような前世からの契りが深く結び直される様には乙女心が突き動かされます」
「貴女の思い人も七生を誓った方なのですか?」
「―――はい」
 はいからさんの言葉は力強いものだった。
「では、鈴香は貴方方の契りの為に紛走しているのです。あれは約束は魂を賭けて果たすものとしていますから。僕は鈴香に貴女を任された。僕には鈴香の様な特別な力はありませんが、貴女が思い人と出会えるまで命を賭してお守りいたします。大丈夫。鈴香が紛走する以上、貴女の願いは叶います」
 そう言いながら、僕ははいからさんの手を引き立ち上がらせる。はいからさんは目を丸くしていて為されるがままだった。立ち上がったはいからさんは、目を丸くしたまま、ずいっと僕へ近づいた。顔が近い。顔が近い。よく見ると顔の造りが鈴ちゃんと似通っている。姉妹でも通用するだろう。でも、同じ顔の造りでも印象はまるで違う。僕が言うのはなんだけど、鈴ちゃんには抜き身の日本刀のような凄みがある。対して、はいからさんは日向でまどろむ子猫を連想させる。
 そのはいからさんが目を驚きに丸くして詰め寄って来る。鈴ちゃんに詰め寄られている気がして、僕は後ずさった。思い詰めた様にはいからさんは言った。
「なぜです?」
「―――はい?」
「なぜ、そんなに良くして下さるのです? あなたたちは御仏の使いなのですか?」
 真顔で言った。
 僕は(このお姉さん、変な宗教にかぶれてるんじゃ無いか?)と思った。
「身も知らぬ言わば怪しい女ではありませんか? 貴方方にとってわたしは……。それを旧知の友人の様に受け容れて下さるばかりか、そこまで親身に力になって下さる。なぜです? わたしには貴方方が御仏の使いとしか思えません」
 ああ。そう言うことかと思った。まぁ、確かに人が良すぎる。鈴ちゃんがああ言う風に請け負わなければ、幼なじみである姉御や伊達と僕の三人は彼女に不気味を覚え、お茶を濁して分かれただろう。なにしろせっかくの卒業旅行なのだから。
 鈴ちゃん―――彩宮鈴香と言う少女は、口数は少ないが、一度こうと決めたことには相手が大人であろうと従わざる得ないオーラがある。名家だから帝王学でも学んでいたのかもしれない。
 僕らがはいからさんを受け容れたのも、鈴ちゃんがそう決めたからだ。伊達なんかは相当文句がありそうだったが、遂に口にはしなかった。僕たち四人の行動は大抵遊び慣れた伊達が提案するが、その半数は学生の身では受け容れがたいものがあり、姉御の鉄槌で強制的に却下される。希に鈴ちゃんが提案するときは、誰も逆らえない。
 そう言う事情がある。
 故に御仏の使い等と言う言葉は面映ゆいばかりだが、説明も面倒だ。どうしたものかと僕は頭を掻く。
「……まぁ、あれです。『情けは人の為ならず』ですよ。僕たちは幼い頃、地震の酷い災害の中、生き残った身でしてね。助け合いの大事さを身に浸みて知っている。それだけですよ。僕なんか父を失っている。助けて貰わなかったら飢え死にしていたかもしれない……」
 言わずもがなのことを言ってしまった。真摯に僕を見つめていたはいからさんの大きな瞳が潤む。
「……辛いこと思い出させてすいません。わたし他人様の好意を素直に受け容れられない嫌な人間になっていました。なにかお礼をしなくては―――」
「それこそ無意味でしょ? 貴女は何時か助けられる人を助ければ良いのだと思いますよ」
 はいからさんは電撃に打たれた様な表情になる。項垂れて呟く。
「そうですよね。そうでないといけないのに……」
 何故か落ち込んだ様子で、また、座り込み固まってしまう。どうしたものかと悩んでいると救いの声がした。
「神崎ぃー。なにかあったの? なんか、鈴が凄い血相でどっか行っちゃったんだけど?」
「鈴ちゃんって人間かぁ? 摺り足なのに幽霊が飛ぶみたいに凄いスピードだったぜ」
 場を弁えぬ大声は姉御の後の伊達のものだ。
「あら!?」
 姉御は意外に可愛い驚きの声を上げると、渡り廊下を滑る様に近づいて来る。
「どうしたの? はいからさん? 気分悪いの?」
 それこそ『あっ』と言う間に、はいからさんの横に座り込み背を摩る。そして息を飲み厳しい顔つきになる。
「どうしたのよ。この首の痣」
 その言葉で僕は漸くはいからさんの白い首に掌の形の旋条痕がくっきりと浮かんでいるのに気づいた。
(鈴ちゃん。どんな握力してるんだよ?)
 僕は天を仰いだ。姉御が早とちりする前にここは説明すべきだろうと僕が口を開こうとしたのを、姉御が掌を僕に向けて伸ばして制止する。姉御は厳しい顔で痣を調べていたが、わざとらしい明るい声で言った。
「この手の小ささは鈴香ね。はーん。分かったわ。神崎、あんた、はいからさんに何かエロイことしようとしたのでしょう? それとも、はいからさん。貴女が神崎に言い寄ったのかしら? まぁ、どちらのケースでも鈴香ははいからさんを責めたでしょうね。あの娘は本性は餓狼並に凶暴なのよ。滅多なことでその本性を現さないのだけどね……。貴方たちがエロイことをしていたとしか思えないわねぇ~」
 口調も顔も笑っているが、目が笑っていない。怖いことこの上ない。
「違います! 違います!」
 はいからさんが姉御に抱えられた姿勢で足をばたばたさせる。呆然と立ち尽くしていただけの伊達が、顔を傾げて裾の乱れに熱視線を向ける。本能と脊椎反射だけで生きているんじゃないか? この男。
「わたしがお二方の密会を邪魔してしまったのです。それで鈴香様のお怒りを買ってしまったのです」
「あ―――」
 姉御が呆れ顔になる。
「生きてて良かったわね。鈴香は瞬時に人を殺す技を持っているからね。で、鈴香は恥じらいに走り去ったの? 乙女か? あいつは? 神崎ぃ~ どんな過激な営みをしていたの?」
「営みとか言うなし! 鈴ちゃんは急用が出来てどこかへ行ってしまっただけだよ。大体、そんな可愛げあるかよ?」
「―――ないわね。皆目皆無。で、急用ってなに?」
 はいからさんを立たせながら姉御が問う。
「いや、皆目検討がつかん。ただ、姉御に伝言があるぞ」
『なに?』と目で問う姉御に耳打ちで伝言を伝える。
 姉御は瞬時に凍り付いた。

(二)
 姉御は全てを諦めた表情で深いため息をついた。ちらりとはいからさんに視線を送ると、
「じゃあ、そう言うことなのね……」
「勘違いするなよ。彼女は人間だ。それに夏休みの様に禍々しいことにはならないと思うよ」
「そうね―――こういうのは鈴で無いと分からないし、鈴はその為に動いているのでしょ? ならわたし達は鈴が合流するまで、何食わぬ顔で観光しないとね」
「そうだな。楽しもう」
 鈴ちゃんが合流するまで、彼女のメモ通り観光を楽しもうと皆に言い、取りあえず、天竜寺の庭を楽しむことにした。鈴ちゃんのメモには無数の書き込みがあり、彼女がどれ程、この旅行に身を入れていたかが伺われた。あの冷たい仮面の下にこんな情熱を隠しているなど、目の潤む話だ。心の中で密かに感涙していたら、伊達が身をすくめて言った。
「鈴ちゃん待ちか。それにしても冷えて来たな。上着を持って来たら良かった」
 確かに体感で三度程気温が下がって感じる。それに空気の色も変わった様に思えた。妙にセピア色っぽい。明美も腑に落ちない顔つきだったが、明るく皆に声をかける。
「取りあえず、鈴のメモの通りに観光を楽しみましょう。立ち止まっても何だしね。取りあえず、ここの庭園、皆で回ろうよ」
 当然、異論があろう筈も無く、僕たちは庭園を回る渡り廊下を歩き始める。ただ、恋人である僕だけの心情かもしれないが、鈴ちゃんが欠けただけで、グループから精彩が欠けた様に感じられた。皆、口数も少ない。
 と、回廊の向こうから人影が見えた。
 もんぺ姿の腰の曲がった老婆と着古した紺色の着物を着た同年代の少女だった。その二人は僕たちの姿を見ると驚いた様に目を見開いた。僕たちを通す為に隅に寄り立ち止まる。それだけでは無い。深々とお辞儀をされた。流石に面食らったが、すれ違いざまに、こちらも頭を下げる。すると―――
「良いお参りになります様に」
 と少女が声をかけた。はいからさんは当然のことの様に
「ありがとうございます」
 と応じる。心なしか生気が増している様に感じた。
「おそれいります」
 と僕が答えると再び驚いた顔をした。二人は見えなくなるまで深々と僕たちにお辞儀をしたままだった。
 はいからさんはクスクスと笑う。
「驚かれてしまいましたね……」
「何故でしょう?」
「多分、異人さんと思われたんですよ。男の方は」
 はいからさんは含み笑いを止めない。明美が僕の手を掴み耳寄せしてきた。
「神崎。おかしいよ」
「なにが?」
「あの女の子の格好だよ。多分、お参りに来たんだろうけど、今時の娘があんな着古した着物で外へ出るわけない。そもそも、ああ言う普段着の着物なんか売ってないよ。なんか本当に寒気がしてきたよ」
「だとしても―――」
 僕は鉄面皮のまま小声で答えた。
「それが当たり前の顔で通すんだ。狼狽えちゃいけない。鈴ちゃんのメモはそう言う意味なんだと思う。兎に角、伊達を頼むぜ。あいつが騒ぎ出す前に明美がたしなめてくれ」
「―――了解したわ」
 姉御は低い声で答えたが、その顔色は青ざめていた。

 回廊を一周して方丈に戻る頃には、何故はいからさんが僕たちを異人と称したのか理解していた。回廊では何組かの人たちとすれ違ったが、皆、深々と頭を下げる。そして洋装の人は殆ど居なかった。唯一出会った洋装の男性は、小柄な中年男で燕尾服に口髭を蓄えステッキを持っていた。連れの女性は鹿鳴館のダンスパーティーから抜け出たような、古風でかしこまった洋装だった。このカップルも道を譲ってくれたが、男の方が英語で『日本建築は如何ですか?』と尋ねて来たので、日本語で「素晴らしいものですね」と答えてやると、驚きに息を飲んでいた。方丈にも洋装の者は何人かいたが、僕らの様にラフな姿の者はいない。それに男性全般が小柄だった。平均身長は160センチと言ったところだろうか? 僕や伊達は剣道で鍛えているので、逞しい大男に見えてしまう。ましてや伊達の様に原色の派手な色使いの布地はどこを捜しても無い。なるほど異人扱いされる訳だと納得した。その伊達は顔色を無くしてなにやらごねていたが、明美に一喝されてからは暗い顔で口を真一文字に結んで堪えていた。静かなのは結構だが、一言も喋らぬ伊達は不気味だった。
 その伊達も天竜寺の敷地を出て通りを前にすると遂に石像の様に固まってしまった。
 無理も無い。はいからさんを除く全員が固まってしまっている。
 まず、芋の子を洗う様だった人混みが消えている。眼前にあるのは賑やかな街道だ。
 道路の舗装は消えていて、土が剥き出しだ。九割の人が和装で人力車がやたらと目立った。異人とは良く言った。僕たちは正に異界へ紛れ込んでいた。明美やはいからさんは景色に溶け込むが、僕と伊達は悪目立ちしていた。視線が集まって痛い。特に伊達は衆目を集めていた。視線を集めているせいか。伊達は硬直し、瞳孔が開いていた。今、まさに叫びだそうとした伊達の腕に明美がしがみついた。
「落ち着いて。怯えちゃ駄目よ」
 優しく囁く。
 僕は背後から伊達の両肩をがっしりと掴んだ。そして耳元で囁く。
「振り返るな。前を見ろ。もう負けたくないんだろう? なら、平常心で受け止めろ」
 伊達は暫く固まっていたが、やがて体を小刻みに震わせて「がぁーーー!」と叫んだ。
僕らを振り払い、怒鳴る。
「あーー! 二人して耳元で囁くな! 気色良いのか悪いのか分からん!」
 伊達はそれから気まずげに顔を背け、拗ねる様に呟いた。
「分かったよ―――ありがとな」
 僕と明美は伊達の首に腕を回して笑った。
 はいからさんはそんな僕らを呆気に取られて見つめていた。

「で、次はどこに行くんだ?」
「ちょっと待って―――もう! 鈴の奴、肝心なときにばっくれて何だって言うのよ? 早く合流しろぉー」
「明美。落ち着け。ああ。次は常寂光寺とあるな」
「あの―――常寂光寺へ行くのなら、野宮神社に寄って行きません?」
 会話に割って入ったはいからさんが、珍しく自己主張したので、僕たちは顔を見合わせた。
「ルートずれて大丈夫なの?」
「ずれると言う程じゃない。途中じゃないか。はいからさんは何故、野宮神社へ行きたいの? やっぱり、恋愛成就?」
「恋愛成就?」
 はいからさんははてなと言う表情で首を傾げた。
「違いますよ。天照大神をお祀りする場所ですし、歴代斎宮様がお籠もりになった場所ですからお参りしないと筋違いかなと思ったんです」
 そんな大層な神社だったかと疑問に思っていると、伊達が言った。
「でも、このパンフレットには『恋愛成就のパワースポット』ってあるぞ。凄ぇぇー。女子の山だ」
 はいからさんは、そのパンフレットを覗き込み、不審げな顔をしていた。
 世界が一変しているのだから、そのパフレットは通用しまいと思った。はいからさんの知識の方が、この世界の標準かもしれない。確かめる価値はあると思った。
「いいよ。行ってみよう。はいからさん、道はこのパンフレットで合ってる?」
「あ、はい。合ってると思います。イメージが随分違いますけど……」
「大丈夫ですよ。そのパンフは虚構ですよ」
 僕は自嘲気味にそう答えた。
 竹林を分け入って小道に入る。竹の若葉が春の陽に照り返り、小道の中は新緑に染まった水底の様だった。観光客の姿もまばらだった。風がそよぐ度に照り返しがきらきらと輝くのが美しかった。
 やがて、道路沿いの奥まった敷地の入り口に『野宮神社』と書かれた提灯がぶら下がっているのが見えた。敷地の奥は深く広い。その入り口には木皮ごと乾燥させて黒く塗った天然木で組んだ鳥居がある。珍しい造りの鳥居と言える。境内に入ると鮮やかな朱色が目を射る。社の囲い戸板が鮮やかな朱色に塗られている。本殿両脇の社も鮮やかな朱色だ。
 境内には和装の年配の参拝客が多い。若い女性もいるが皆、袴姿か振り袖だ。境内の空気は落ち着いており、『恋愛成就のパワースポット』と言う様な浮ついた空気は無い。
 僕たちは井戸の水を利用した手水で、手と口を清めて参拝した。伊達達が何を祈願したかは知らないが、僕は道中安全を祈願した。この事態である。他に祈願することは無かった。祭神は本殿が野宮大神(天照皇大神)、境内社が愛宕大神(本殿右)、白峰弁財天(本殿左)、白福稲荷大明神(本殿より右側の摂社)、大山弁財天(本殿より右側の摂社)、野宮大黒天(ののみやだいこくてん:本殿左)となっていた。弁財天が二つもあるのは奇妙に思えた。また、天照大神と大黒天の組み合わせも奇妙に感じた。僕とはいからさんが本殿から境内社を一つずつ丁寧に回っている間、伊達は本殿を拝んだだけで、社務所の巫女さんに「恋愛成就の社やお守りは無いのか」と尋ねていた。開き直ると肝の太い野郎だ。普通、恥ずかしくて聞けない。余程、こだわりがあったのだろう。巫女さんは伊達の奇抜な格好に引いている様子だったが、お守りを示した後、社務所を出て、伊達と明美を大黒天の前にある亀石に案内した。伊達はしきりに礼を言い、その岩を明美と一緒に嬉しそうに撫で回してから、お守りを買い求めていた。僕は横目でそれを見ながら、
(こっちの世界の貨幣が通用するのか?)
 と危惧したが、無事に買い求めていたので、問題は無かったらしい。お参りを終えた僕とはいからさんの下に伊達は駆け寄ると、
「やっぱり、恋愛成就の効能はあったぜ」と嬉しげに言う。曰く、大黒天の前の亀石を撫でて願掛けするらしい。
「お守りも無茶安かったぜ!」
 そう言って白とピンクの勾玉のストラップのセットを見せる。
「いくらだったんだ?」
 と尋ねると、
「セットで10円」
 と喜色満面に答えた。物価水準が違うらしい。
「そりゃ、心配になるようなデフレだな。で、二人仲良く一本ずつ持つのか? 明美。お前、恥ずかしくないのか?」
 伊達の後に隠れている明美をそう揶揄すると、
「うるさい!」と真っ赤になって叫んだ。可愛い反応だ。良いことだと思う。伊達も明美も物価の異常さには気づいている。敢えて無視して楽しむ事を優先しているのだ。それに異界にいると言う意識が二人をより強く結びつけている。そこだけはこの状況における利点だ。鈴ちゃんのいない僕は違和感を感じる度に背筋がぞくぞくする。はいからさんもこんな感覚を味わっていたのかもしれない。例えば周囲を見回すと、携帯やデジカメを皆普通に持っているのだ。パシャパシャと写真を撮っている。僕にしてみれば、大正時代に逆行した様な世界で、携帯で写真を撮る姿はホラーだ。最初は時代逆行したのかと思ったが、どうやらそんな単純な現象ではないらしい。
 袴姿の女学生の一団に「あの~。一緒に写ってもらえませんか?」と声を掛けられた時には顔が引きつったが、断るのも怖いので、笑顔を作って写真に写った。
 女学生の一団が去ると、はいからさんが近づいて来た。
「もてますね」
 揶揄するはいからさんに、
「勘弁して下さい」と力なく答える。
「ああ、縁結びのお守りあったそうですよ」
「―――え? 本当に? ここは旅路の安全を願うので有名なのに……」
「この野宮神社は貴女が知る野宮神社なんですよね? 伊達のパンフレットと違って」
「ええ。そうです。あのパンフレットはどこが作ったのでしょう? 現実離れしています」
「お守りが10円と言うのは高いですか?」
「相場だと思います」
「―――なるほどね。貴女の世界に今度は僕らが迷い込んだ様だ」
「―――どう言う意味でしょう?」
「気にしないで下さい。けれど嵯峨野ってこんなに観光客が少ないものですかね?」
「慰霊や恋の悩みで訪れる場所ですから、そう賑わう場所では無いでしょう」
「ああ、なるほど……」
 僕は投げやりに答えた。元の世界へ戻るには鈴ちゃんの力に頼るしかないらしい。僕は鈴ちゃんの合流を切にねがった。
『何があっても驚くな』と鈴ちゃんは言い残したが、やせ我慢の限界は案外早くにやって来そうだった。その一方で静寂に覆われた嵯峨野に馴染む自分もいた。これが本来の嵯峨野の姿の様に思えた。僕たちの知る観光化されて、人に溢れた嵯峨野こそ異界の様な気もしていた。ならば、情緒を味わっておくのが得策だと、僕は焦燥感を胸の片隅に無理矢理追いやり、そう思うことにした。

(三)
 花冷えと言って良いくらい冷えていた気温も陽が昇るにつけ、肌に心地よいそよ風に変わっていた。嵯峨野はその殆どが竹林で覆われた路地と言って良い。そよ風に吹かれて竹林の新緑がさやさやと囁く。その声色は心の奥底を潤してくれる。時に櫻が淡いピンクの靄となり、青緑の竹林を、艶めいたものに変えている。竹林の路地を進むにつれ、僕たちは寡黙になる。あの伊達ですら無駄口を叩かない。皆、自然に竹林の囁きに心を奪われていた。常寂光寺への道すがらは、静かでそれでいて心豊かなものだった。なにしろ、伊達でさえ神妙な顔で物思いに耽っている。ただ、伊達と姉御の表情には緊張の色が徐々に強まっている。対照的にはいからさんから怯えが消えて血色が良くなっている。
 ここに来て、僕ははいからさんと僕らの立場が逆転したことを認めた。
 はいからさんは異邦人として唐突に現れたが、今は僕らが異邦人だ。いつ立場が逆転したのか分からない。鈴ちゃんの言葉を思い返すに、彩宮の結界を破って、はいからさんが姿を見せた辺りかもしれない。いずれにせよ、天竜寺の庭園から鈴ちゃんがいなくなったときには始まっていたのだろう。
 そう。問題は鈴ちゃんだ。この事態を把握していて、物事を正しくあるべき様にする術を知るのは彼女だけだろう。だが、もう、昼時だと言うのに、合流する気配はまるで無い。そう考えて、はたと気づいた。鈴ちゃんが合流しようとしている世界は、この異界か!?
 もし現実世界で僕らを捜していたなら、見つかるはずもない。
 うっすらと寒気を覚えた。
 僕らは僕らで真剣に現実世界へ戻る方法を模索せねばならないようだ。
 ―――――――――。
 考えた。答えは直ぐ出た。
『はいからさんを思い人に引き合わせる』
 何を馬鹿なと呆れられただろうか?
 僕はそれほど筋を外しているとは思わない。初志貫徹は曲げてはならない筋の一つだ。そして、異変ははいからさんから始まっている。僕らが筋を通せば、他の筋も通るかもしれない。だが、問題はどこに居るか分からない、はいからさんの思い人をどうやって見付けるかだ。
 風が吹いた、青竹の葉が陽光に煌めき、乱反射する中、桜色の花びらが金色に輝き、一瞬、視界を覆う。目を開けた時、三十メートル程前に、鈴ちゃんの式・猫の淡雪の白く輝く姿が見えた。
 一瞬、目を疑った。だが間違い無い。ああも高貴な雰囲気の猫がそうそう居る筈も無い。
 淡雪は道の隅に行儀良く座り、顎をくいと上げた。
『ついて来い』と言うことらしい。
 僕は姉御の肩を指で突き、「明美。淡雪がいる……」と小声で告げたが、姉御は僕の指さす方向を凝視するが、「え? どこよ?」と訝しげな声を上げる、どうやら僕にだけ見える様だ。こう言う事はままある。「見えなきゃ良いんだ。気にしないでくれ」といなす。
 実際、淡雪は古いブラウン管テレビの画像の様に、ときおりノイズにかき消されそうになる、淡雪は立ち上がると優雅な歩みで歩を進める。僕はその後に従う事にした。僕が先頭に立って歩むと、皆、無言で付いて来る。暫し歩むと伊達が言った。
「おい。常寂光寺はそっちじゃないぜ」
「分かってる。ちょっと黙ってついて来てくれないか」
 僕の言葉に伊達は二言を挟まなかった。
 竹林の若葉の照り返しが、水底に居る様な錯覚を覚える遊歩道を小一時間歩くと、淡雪は山手へ通じる細い路地へと左に曲がった。竹林がアーチとなった路地は竹の香りが鼻をつくほどに緑が濃い。緩やかな斜面となった路地を登ると、唐突に視界が開けた。思わず息を飲んだ。
 緑。緑。緑。緑。
 そこは緑の世界だった。濃淡の異なる緑が上も下も覆っている。空気も違う。清涼な水気を含んだ空気はひんやりとしていて、一息つけた。
 まず目を引くのは一面を覆う苔の緑だ。入念に手入れされているのだろう。痛んだ箇所は見あたらない。上空は竹と楓が覆っていて、陽光は真っ直ぐ入って来ない。燃え立つ緑の若葉の照り返しとなり、柔らかなたゆたう水のような光に変わり、周囲を満たしている。
陽光はストレートには入って来ないものの、陰気な印象は無く、明るい水底に居る様だ。
 正面に小さな門がある。
 淡雪は躊躇無く門を潜る。淡雪の歩んだ軌跡が白い線になって残る様に思えた。
 門を潜ると本堂と呼ぶには余りに小さく貧相な、苔むした庵が現れる。これが祇王寺かと心を打たれた。隠遁生活をするための佇まいが清々しい。淡雪は迷い無く庵の中へ入って行く。ここが目的地らしい。淡雪の案内なら、ここに鈴ちゃんがいる可能性は高い。
 しかし―――。
 と僕は思う。なぜ、よりによって祇王寺なのだと、はいからさんを気遣う。
 躊躇していると、伊達が「どうした? 入らないのか?」と声を掛けてきた。豪放なこの男には祇王寺の由来を気にすることもない。
「いや。参拝するよ」
 僕は無表情でそう応えた。
 拝観料は三十円だった。レートの違いも気になるが、僕らの持つ平成の硬貨、紙幣がそのまま使えるのが不気味だ。受付の女性は僕たちの財布に万札があることに目を剥いていた。
 祇王寺は隠遁生活の為のものなので、狭い。祇王寺の中には二十名近い人がいたが、それでキャパシティぎりぎりだった。皆、着物姿で女性が八割を占める。僕たちが入ると、一様に奇異の目が僕と伊達に注がれた。気勢を削がれたが、僕は鈴ちゃんの姿を捜す。広くない祇王寺の中に鈴ちゃんの姿は無かった。淡雪は床の間で丸まっている、僕は膝から力が抜ける様に落胆した。異界に紛れ込んだことは想像以上の緊張を僕に与えていたようだ。何より、鈴ちゃんと遭いたかった。あの、時として辛辣な冷たく整った顔が恋しくて堪らなかった。
 僕は腰が砕けるままに、広間に胡座をかいた。無論、内心の落胆を仲間に悟らせる様なことはしなかった。僕の右横に姉御、伊達の順で正座する。伊達が正座したことに僕は少なからず驚く。祇王寺の悲しい由来を肌で感じているのかもしれない。はいからさんも僕の左に正座する。呼吸が聞こえる程、近かったので、多少、慌てる。
 僕は視線を祇王寺の特徴である丸窓へ移した。丸窓に障子が閉められている。障子の紙に工夫があるのだろうか? 日差しを取り込む丸窓から漏れる光は虹色に屈折している。外の木漏れ日の揺らぎが、その虹色の光を柔らかくたゆらめかせて、なんとも幻想的な面持ちを作っている。吉野窓と言われる日本建築の妙である。
 僕が喋らないので、三人は無言でパンフレットを見つめている。祇王寺の幻想的空間はあの伊達をして無駄口を叩かせない。
 僕はパンフレットを見なかったが、書かれていることは分かって居る。
 祇王寺が祇王寺と呼ばれる様になった由縁だ。その昔、平清盛の寵愛を受けた白拍子三人が、歳と共に美しさに陰りが差すと、たちまち、その寵愛は失われた。それを嘆いた白拍子は仏法に救いを求め、この祇王寺に隠遁して生涯を終えたのである。この祇王寺には今も白拍子達が諦観を以て仏法にかしずく空気が色濃く残っている。時が止まっているのだ。
 はいからさんがため息と共にうそぶいた。
「殿方の愛はかくも冷めやすいものなのでしょうか?」
 ほら。だから、はいからさんを祇王寺に入れるのを躊躇ったんだ。僕は。
「愛の形は様々だと思います。それに清盛の情愛は情欲そのもので、愛ではないでしょう。少なくとも、全てを捨てて貴方と二人きりで暮らそうとする方とは覚悟が違うと思います。
まぁ、僕も愛を語れるほど人生経験があるわけではありませんけれど……」
 はいからさんは僕の言葉に静かに目を伏せた。
 明美は品定めするような目を伊達に向け、伊達は亀のように首を縮めた。
 僕は床の間の淡雪に目を向ける。丸まって寝息を立てている。どう言うつもりで案内したのだと思ったが、猫相手に本気になっても仕方無い。僕たちは祇王寺の苔むした庭を散策し雰囲気を味わった。本堂に戻ると淡雪の姿は床の間には無く、玄関でちんまりと座っている。どうやら僕らに嵯峨野案内でもするつもりらしい。「牛に引かれて善光寺参り」は聞いたことがあるが、「猫に引かれて嵯峨野参り」はどうにも閉まらない。とは言え、鈴ちゃんの前世から式を務める霊猫である。無視は出来ない。僕は明美にだけ事情を話し、淡雪に誘われることに腹を決めた。明美もそれに真顔で賛同してくれた。
 そんな僕らの覚悟に後ろ足で泥をかけてくるのが伊達である。
「お~い! 腹減ったぞ~! どっかで弁当喰おうぜ。いい加減荷物も重いぞ」
 この状況下で空腹を覚えるとは大した大物だ。
 僕と明美は顔を見合わせ苦笑した。

『精神的理由で食欲が無いときは、三食規則正しく、無理にでも喰え。それが心身を健康に保つコツだ』
 剣の恩師・鳴神先生(女性)の言葉だ。乱暴な言葉だが一理ある。僕らは弁当を広げられる場所を捜し、竹林の若葉が天蓋の様に上を覆う窪地を見付けた。腰を下ろすのに適した大きさの岩も点在しているのだが、着物の女性陣を鑑み、緋毛氈を広げた。緋毛氈は半分に折った広さで広げるのがやっとで、僕たちは膝を突き合わして食事を摂ることになった。重箱を広げながら、明美が言う。
「鈴、間に合わなかったね……」
「うん……」
「仕方無いやろ? 合流出来たら食事の出来る喫茶店にでも入ろうぜ。弁当も四人前しかないんだろ?」
 伊達は明美の肩を叩いて気楽に言う。
「まぁ、そうなんだけどね。このお弁当、殆ど鈴香が作ったんだよ。神崎が食べるところ見たかっただろうなぁ~って思って……」
 その言葉に消え入りそうな声で、はいからさんが「……すいません」と呟く。
「貴女の所為じゃないわ。それに気易く謝らないで」
 やや強い口調で明美が言う。はいからさんは怯えて狼狽え、「ごめんなさい」と又、謝った。明美が睨むとはいからさんは俯いてしまった。明美は何事も無かった様に顔を上げ、明るい笑顔で全員に声をかける。
「じゃぁ、頂きましょう。みんな、鈴に感謝して食べなよ。残したら許さないぞ」
 お重は五段。上四つがそれぞれのお弁当で、五段目は皆でつまむおかずが詰められている。
 お弁当はタケノコご飯と、八分づきの玄米に梅肉と鰹節を絡めたものを、丁寧に俵握りにしている。どれも判で押した様な握り具合で、大きさに差比はない。几帳面な鈴ちゃんの性格が表れている。やや小ぶりのおむすびに、僕は鈴ちゃんの掌の小ささを思い返し、ほくそ笑む。さわらの味噌焼きが二匹づつ入っている。保存食の味噌漬けでは無く、新鮮なさわらを料亭・彩宮秘伝の味噌に浅漬けしたもので、痛むのを避けたのだろう。う巻きの横に黄金色の栗に似た一品がある。
「これはなんだい?」
 明美に訊くと、「卵黄の味噌漬け。産みたて卵の卵黄を丁寧に取って、秘伝の味噌のベースにガーゼを敷いて、その上に丁寧に乗せて、冷蔵庫で一週間熟成させるの。珍味よ」
 と答えが返って来た。箸でつまむと蒸した栗の様で卵黄とは信じられない。一口ほおばると、しっかり固まった卵黄が口の中で溶け、味噌の香ばしい香りが口中を満たす。
 旨い!
 味噌は卵黄に十分に染みており、上品な一品となっている。大抵の料理は食したつもりだが、それは僕の知らない珍味だった。鈴ちゃんは、一体何日前から弁当の用意をしていたのだろう?
 他に山菜の付け合わせ、タケノコと木の芽の和え物がある。いずれも材料から吟味された手作りで、隙の無いもてなしに舌を巻く。
 はいからさんは、目を丸くしている。彼女にはこの弁当の凄さが分かるのだろう。伊達は「旨い! 旨い!」と言いながらがっついている。出来るなら、もう少し下味を噛み締めて食べて欲しい。
「明美が三日前から鈴ちゃんの所に泊まり込んだのはこの為だったんだ。大変だったらろう?」
 明美が首を横にぶんぶんと振る。
「私は盛りつけとか手伝っただけだよ。下味の昆布だしすら、私はよう取れなかったもん。本当に鈴が一人で仕上げたんだよ」
「こりゃ、ありがたく頂かないといけないな」
「明美ぃ~。なんか肉っ気はないのか? 上品過ぎて物足りん」
 明美は嘆息をついて、五段目のお重を中央へ押しやる。
「鈴はそう言うだろうと予想してたよ。ありがたく頂きな。わたしが作ったローストビーフだ!」
「ひょぉーい!」
 と伊達が喜びに奇声を上げる。僕は女性陣の情の深さにたじろぐものを感じながら、明美に再度、問う。
「ローストビーフ。一からお前が作ったの?」
「まぁ、そうよ」
「大変だったろうに……」
「鈴に比べればたかが知れているわ。あの子、ろくに寝てないわよ」
「本当にすまんな」
 僕は深々と頭を垂れた。
「―――彩宮様は板前も出来るのですか?」
 驚きに箸が進んでいないはいからさんが呆然と尋ねる。
「あの子の家は料亭も営んでいるからね。門前の小僧なのかしら?」
「そんな? きちんと修行しないとこの味は出ませんわ」
 はいからさん自体、味を見分けることの出来る上流階級の人と分かる発言だった。
 先程から、喰うことに没入して僕らの会話など耳にも入らない伊達とは育ちが違う。まぁ、伊達はあれで人物ではあると思うが……
 弁当を口に運びながら、僕は言う。
「鈴香は凄いんです。なんでも一流にこなす。およそ動じると言う事が無い。その鈴が貴女の名を聞くと同時に、慌てふためいて駆けて行ってしまった。こんなに楽しみにしていたお弁当も失念して」
「はいからさん。僕たちは貴女と思い人を会わせて上げたいと思って行動している。いい加減、貴女とその思い人の名を聞かせてくれても良いのじゃないですか?」
 明美が弁当を食す手を止めぬまま、鋭利な視線を僕たちに送る。
 はいからさんは電流に打たれた様に動きを止めた。弁当を横に置き、居住まいを糾す。
「誤魔化していたのではありません。お会いした時は自分が何者かも分からなかったのです。今は全てを思い出しました。
 わたしは梅埜沢家の一人娘・真魚(まお)にございます」
 そこではいからさんは言葉を句切った。僕らに反応が無いのを見て、大きく吐息をついて言った。
「やはり皆様は違う世界の方々ですのね」
「―――この世界の住人なら知っていないとおかしいと?」
「五大財閥の一つにございます」
 口調からして、こちらの世界では財閥解体はなされていないのだと思った。
「わたしは七生を誓った殿御がおりました。わたしが幼少の頃から、兄の様に面倒をみてくれた書生の羽生三悟様です」
「書生と申しましても身分の卑しい方ではございません。播磨国の名家・羽生家のご長男です。父も大事にしており、ゆくゆくは財閥を任せる腹でした。わたしが十五の歳にわたしと三悟様は晴れて婚約を交わしました。全ては夢のような日々でした」
「ところが昨年の園遊会で、わたしは宮家のお方に見初められました。わたしが婚約していることを知ると破棄を迫り、宮家の圧力で父の商売の邪魔も始めました。宮家を敵に回しては、いかな財閥とは言えまともな商いは出来ません」
「父はわたしと三悟様に婚約の破棄を伝え、わたしを宮家に嫁がせると言い出しました。わたしは三悟様に心中を持ちかけました。三悟様は笑って「それならば、道行きをいたしましょう」と申されました。「宮家と梅埜沢財閥を敵に回せばまともな暮らしは出来ませんが、それでも守ってみせます。如何ですか?」
 わたしがどんなに嬉しかったか分かりますか?」
「わたしは父の言葉に従順に従う振りをし、三悟様は逐電されました。でも文のやり取りでお互いの状況は十二分に把握しておりました。三悟様はわたしの親友の名を借りて文を下さいました。無論、親友のみはわたし達の計画を知っておりました」
「三悟様は嵯峨野で出家し、わたしを迎える準備を整えて下さいました。そして、みちゆきの決行はわたしの短大の卒業式となりました。唯一、警護の者の手が手薄になる日でございました。卒業式の当日、お祝いをしようという友人達と共に東京駅近くまで来たわたしは、そっと離れて京都行きの特急に着の身着のまま飛び乗ったのです」
「最終電車で嵯峨野に着きました。ところが、父の配下の者に追われ、わたしは我を忘れて逃げたのです。今正に捕まらんとした時、わたしは守り本尊として信仰していた虚空蔵菩薩に真摯に祈りました。白い霧に包まれ足下がほつれて、転倒しそうになった時、世界は一変し、わたしは貴方たちと出会ったのです」
 僕と明美は、途中から弁当をついばみながら話を聞いていたのだが、はいからさんの独白が終わると同時に二人とも箸を置き、ぽかんと口を開けて見つめ合う。はいからさんは嗚咽を殺して泣いている。零れる涙を拭きもしない。伊達は嬉しそうにローストビーフを頬張っている。話が聞こえなかった訳でも無いだろう。自称フェミニストが女の涙に気づかぬ筈もないだろう。だが、泰然と我関せずを貫いている。人物だ。自分には理解の及ばぬことだから、口を挟まない。潔すぎるスタイルだ。
 では、僕と明美に理解出来たかと言うと、理解出来る訳が無い。
 むしろ謎は深まった気がする。鈴ちゃんが、彼女の名を聞き、慌てふためいた理由など、この真魚と名乗る少女に尋ねても分かるまい。ましてや、鈴ちゃんが姿を消した理由など分かる訳もない。―――待てよ。鈴ちゃんは「何があっても驚くな」と言った。僕たちが異界へ迷い込むことも想定していたのじゃないか?
 こうなると不条理への対応に慣れた鈴ちゃんの不在は痛い。仕方が無い。僕は『後のお姉さん』に縋ることにした。ところが、念話で呼び掛けても、お姉さんは応えない。お姉さんは気配ごと消えていた。
 僕は茫然自失に陥った。なんだかんだ言っても『後のお姉さん』の助けは大きい。それが得られないとなると僕は只の普通の人間だ。
 僕と明美が呆けて固まったままでいるので、渋々と言った様子で伊達が口を開いた。
「問題は、俺達がどうすれば元の世界へ戻れるかじゃないのか?」
 至言だった。僕は勢い込んで伊達に尋ねた。
「何か案があるのか?」
 明美も期待に満ちた視線を伊達に送る。伊達は大袈裟に苦笑した。
「よせよ。俺は一般人だぜ。なにも分かるもんか。こう言うのは鈴ちゃんや神崎の領分だろう? 鈴ちゃんはいねぇ。神崎にもお手上げと言うなら意見はあるぜ」
「―――聞こう」
「はいからさんとはここでお別れすべきだ。俺達ははいからさんに引っ張られていると思う」
 はいからさん、真魚さんは目を伏せて微動だにしない。明美は、暫し息を飲んだ後、小声で反論した。
「だけど、鈴にはいからさんを頼むと言われているし……」
「言葉にして言われたか? 彼女は俺達とは別の世界の住人だ。一緒に行動するのが得策とは思えねぇな」
 伊達の言うことは正論だ。だが、正論が正しい道とは限らない。違和感を覚えた僕は反論した。
「そいつは下策じゃないかな?」
 伊達は眉を怒らせた。
「なんだよ? 妙案でも閃いたのか?」
「妙案って訳じゃないんだけど……鈴ちゃんだよ。鈴ちゃんは真魚さんに約束したぜ。思い人に会わせてあげるって。鈴ちゃんは出来ないことは約束しない。こうなることも予測していたと思うんだ。鈴ちゃんと合流するには僕たちも彼女の思い人捜しをするべきだと思うんだ。それに正直、鈴ちゃんが側にいないと生きていけそうにない」
 僕は目線を下げて俯きながら言った。明美が苦笑する。
「はい。はい。ごちそうさま。でも、筋は通ってるわね」
「そうかぁ? 楽観主義の最たる例だと思うが……」
 はいからさんは終始俯いたまま無言である。
「それじゃあ、僕の案で良いかな?」
「是非も無し」「善哉。善哉」なぜか漢文調で答える二人。はいからさんは小さく「すいません」と呟いた。
 僕はそれには取り合わず、はいからさんに尋ねた。
「そう言う訳です。今、この世界はあなたが元居た世界で間違いないですか?」
 はいからさんは顔を上げた。
「多分、間違い無いと思います」
「それなら、あなたの思い人を捜すのも楽になる。写真なんかお持ちじゃないですか? 待ち合わせの場所は思い出しましたか?」
「写真なら―――」
 はいからさんは、そう言って、首からロケット型の銀のネックレスを外した。ロケットの中には書生姿の青年の写真があった。精悍な顔立ちで、きりりと結んだ唇が禁欲的な性格を現している様に思えた。
「この方が羽生さんですか?」
「ええ」と頷くはいからさん。どれどれと明美と伊達も肩越しに覗いて来る。
「神崎に雰囲気が似てるね」
 明美が呟く。
「―――よせよ」
 生理的嫌悪を覚えて、僕は否定する。そして、はいからさんに尋ねる。
「待ち合わせの場所。思いだしたんですよね? どこです?」
「直指庵です。住職の方に言えば取りなしてくれるようお願いしてあるとのことでした。―――ああ。わたしは何故こんな大事なことを忘れていたのでしょう?」
 記憶が蘇った喜びからか、はいからさんは顔を両手で覆って泣き崩れた。明美が背を摩って慰める。
「目処が立ったな」
 伊達が僕の顔を見て言った。
「鈴ちゃんのプランにも直指庵が入ってる。期待して良いんじゃないか?」
 破顔する伊達に僕は「ああ……」と素っ気なく答えた。それほど楽観的にはなれなかったのだ。はいからさんは卒業式の日に嵯峨野へ向かったと言った。今の嵯峨野は桜の季節だ。一ヶ月ほどのタイムラグがある。追っ手までかけられ、正にその手に落ちようとしていたはいからさんが、今こうしてのんきでいられることに違和感を覚えずにはいられない。
 考えすぎかなと思っていると、明美がみんなに声を掛けた。
「目的地も分かったし、昼飯をかたしましょうよ。それこそ鈴ちゃんに申し訳ないでしょう?」
 道理である。僕たちは昼飯を再開し、ことさら明るい話題で盛り上がった。これから直指庵へ行く事への期待と不安が誰の胸にもあった。と、足下で「にゃあ」と猫の声がした。まだ若い猫の甘えた肉声である。「え? どこから?」と捜す間もなく、白い塊がはいからさんの膝に乗った。ちりりんと鈴の音がした。純白の猫は赤い首輪をしており、動く度に首輪の鈴が鳴る。猫はごろごろと喉を鳴らしてはいからさんに甘える。さわらの味噌漬けをねだっているようだ。鈴ちゃんの式・淡雪を知る僕たち三人は固まってしまった。淡雪は霊体で触れないし、首輪もつけていない。だが、眼前の猫は淡雪そのものに見えた。
「あら! あら! 淡雪! お前どうしたの? どこから来たの?」
 固まる僕たちを尻目にはいからさんが嬌声を上げる。さわらの味噌漬けを分け与え、一心不乱に食する猫を撫で回している。うっすらと涙を浮かべていた。
「あの……。その猫、なんすか?」
 伊達が恐る恐る尋ねる。はいからさんは嬉しげに答えた。
「わたしの愛猫の淡雪です。羽生様と一緒に逐電したのです。三悟様はわたしと思って可愛がるとおっしゃっていました。三悟様、お近くにおいでなのかしら?」
 はいからさんは喜々として浮き足立っている。
「さんごさまー!」と三回、周囲に呼び掛けたりもしたが、返事は無い。明美が僕に耳打ちする。
「ねぇ。ねぇ。これって偶然の一致なの?」
「馬鹿な!」
 僕は言下に斬り捨てた。
「こんな偶然の一致があってたまるか」
 はいからさんと鈴ちゃんの縁は想像以上に深いのだろう。
 昼飯が終わると淡雪はぽんと道へと進み、そこでちんまり座って僕らを待った。
「どうやら道案内をしてくれるらしい……」
 呆然と呟く僕の言葉に、はいからさんは
「三悟様の所に連れて行ってくれるんですね!」
 と少女の様にはしゃいだ。
 僕は答えられなかった。
(どこに連れて行かれるのやら……)
 そう不安に感じたのは僕だけではなかった筈だ。
 嵯峨野の現地取材を踏まえた旅行記の側面を持たせて書きました。出て来る寺社仏閣の描写は現実の取材を踏まえて描いています。
 観光小説としても楽しんで頂ければ幸いです。
 感想。ご批評お待ちしています。
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