キスとはこんなにドキドキと胸の高鳴るものだっただろうか。
今、目前に、何度も夢に見たこの男の薄い唇を映したまま、真顔でそんなことを考えていた。
私の後ろではやりかけの仕事と、つい一時間前に目の前で気持ち良さそうに寝ているこの男が買ってきてくれた菓子パンが、食べかけのまま置かれている。全てが中途半端なまま、私の身体だけが完全に彼を求めて動いている。
うっすらとデスクを照らす蛍光灯の明かりが背徳感から来る高揚を煽っていた。
目の端に映りこむ男の携帯はどんよりと暗い闇を発しながら、無機質に周りと同化したままだ。
少し捩れたスーツの皺や、無造作に緩められたセンスの悪いピンク色のネクタイが苛立ちと共に欲情の波を連れてくる。
恐ろしいほどにコントロールの効かない自分の身体を、私はギリギリまで弄んでいた。
だが、時折思い出したように動く喉仏の膨らみが監視センサーのように思えて、咄嗟に身体を強張らせる。
しかしそれでも、その後から滑るようにやって来る苦悶が再び私を震わせて、それは簡単に私を色情漂う穴に堕とした。
時計がもうすぐ午前二時を指す。急がなければ警備員が見回りにやってくるだろう。
私は今にも皮膚を突き破って出て行きそうな心臓を、行き場のない両手で重ねるようにして押さえ、グロスを拭き取ったばかりの唇を男のそれに重ねた。しっとりとした弾力が乾いた私の唇に馴染むまで少し時間が掛かった。
だが、今後誰にも知られることのないキスの味はファーストキスの時感じたそれよりも格段に、甘い。
乾いた唇の表面が規則的な男の呼吸を阻み、まるでその一瞬で男の何もかもを奪ったような気に陥る。
階下を歩き回る振動が研ぎ澄まされた感覚に届いた。
私は今まで感じたこともない濃いこの一瞬を惜しむ余裕もなく、全身の筋肉を呼び覚まして身体を起こした。
爪先立ちのような格好で、動きも呼吸も止める。
再び耳に時計の音と男の呼吸が重なって戻ってくると、私もようやく深く、だが慎重に息を吐いた。
空気の層を壊さないようにゆっくりと、先ほどまで重なっていた唇を舌でなぞるように舐める。
あの子が舐めたり、吸ったりしているこの男の唇を奪った私の唇には、男の吐息が張り付いていた。
こうする前に恐れていたほど、あの子に対して悔恨の念にかられることはなかった。
むしろこれからあの子とこの男が、この事実を知らずに生きていくのかと思うと愉快で堪らない。
どす黒く、重たいものが腹の底に沈んでいく感覚が私を支配し始めた。
「まだ残っていたんですか? ご苦労様です」
突然閉まっていた扉が開かれて、一瞬懐中電灯の眩しい光が目の前を横切った。
警備員は寝惚けて浮腫んだ顔を晒しながら、何事かブツブツと言い、去っていった。
その音に反応して男がぐずりながら目を覚ました。
いつもならスッキリと切れ長で一重の瞼が少し腫れていて、ひどく無防備だ。
「何かあったの?」
彼は数秒目を擦ったり、伸びをしたりしていたが立ち尽くしたままの私を見てとうとうそんなことを言った。
ドロドロしたものに沈んでいた身体がピクリと反応したのを、ずっと奥の方で微かに感じた。
瞳はいつしか、もうずっと男の薄い唇しか捉えていない。
意識が勝手に、まだ感触を失わずに疼いている自分の唇に集中する。
この警戒心の全くない男を追い詰めてやろうか。
口の端から中心に向かってだんだん熱くなってくる。
自分の中が沸騰するような熱が、わなわなと私を震わせて、感じる心だけが酷く冷たい。
男は馬鹿みたいな顔をして私を下から見つめている。
何もないよ。
だが、そう言葉が口を突いて出そうになった時、男が螺子の緩んだ椅子から立ち上がった。
「唇、荒れてるね」
金属音の端っこで微かにそう言ったのが聞き取れた。
私を優に追い越すその身長が、途端に私を萎縮させ、つい俯いてしまう。
すると突然思いもよらない力に支配されて、私の顎は上に持ち上げられた。
鼻腔を擽るストロベリーの香り。
私の唇の上に何かが一枚のせられていく。この男は寝惚けているのだろうか?
答えのない問いも虚しく、そのうち私の唇は恐ろしく目の前にある彼の唇から発される呼吸も、何も弾かなくなった。
「珍しいもの、持ってるね」
全く頓珍漢な言葉が出たものだ。
茫然自失のまま、今まさに私の唇に塗りたくられているリップクリームを指差し、彼の私の唇に注がれた視線から逃げながら返答を待った。彼は少し迷ってから、はにかみながら言った。
「俺の唇が荒れてることに気付いて、あいつがくれたんだ」
そうして彼は私の唇からリップクリームを離し、もう片方の手で自分自身の唇を軽くなぞった。
秘密が、こそげられたような気がした。
私が奪ったこの男の唇はあの子が作った唇だったのか。
苺の甘い匂いで押さえつけられた唇は、その一枚下で驚くほど熱い熱を発していた。
私の中でだんだんと死んでいくあのキスは確かにあの時、この男の全てを奪っていたはずなのに。
彼は何事もなかったように残っていた仕事を再開させ始めた。
もしかしたら何か仕事を再開させるようなことを言ったのかも知れないが、私の耳には届いていなかった。
今、入り込んでくる音はこ気味よく奏でられるタイピングが周りに反響している音だけだ。
私は何も言葉を持たずに中途半端だった世界に、静かに舞い戻った。
だが、どんな文書に目を通しても、それが意味を伴うことはない。
ただ私の唇だけが、それだけ別の生き物のように小刻みに震えていた。
残った、この燻る熱と共に、この内緒のキスは私を焼き尽くしていつか消えてくれるだろうか。
子供の頃にした責任のない約束のように、簡単に、私だけの秘密のまま無くなってくれるだろうか。
私は大きく息を吸い、再び文書に目を通しながら、途切れることなく鳴り響くタイピングの音に埋もれて、もう一度クリームに濡れた唇を舌で舐めた。
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