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機械仕掛けで廻る世界

作者: だいふく

 その白い部屋は、それなりに広かった。

 おおよそ十五メートル四方のそこは、何か映画のような空間であった。

 床から天井まで伸びる直径一メートルを超えるガラス管が二、三メートル間隔で並んでいる。三十本はあろう。それはある種、異様な光景であった。

 ガラス管の中に入っているのは何れも少年少女。せいぜい十六、十七といったところだろう。若干緑がかった透明な液体に満たされた管の中で、彼等は一糸纏わぬ、生まれたままの姿で浮かんでいた。目を開けているものはおらず、意識はないようである。口と鼻には天井のほうから細いチューブが伸びている。どうやら酸素や水、栄養を補給する為のものらしい。

 ガラス管の間の通路を、白い除菌服のようなものを着た者が数人歩いている。それぞれのガラス管の前に設置されたモニターを確認しては、手に持った端末にデータを入力していく。彼等はこの施設の職員たちであった。

 そのうちの、背の高い男が、近くにいたもう一人の男に話しかけた。

「そっちはどうだった?」

「異常なし。特に変な症状も見られなかったし、あと二日くらいしたらここも総入れ替えだな」

 背の高い男は頷いた。

「そうだな。しかし、給料がいいとはいえやっぱりこの光景には慣れない。いつ見ても気味が悪いもんだ」

 背の低いほうの男が笑った。

「そりゃあお前だけだよ。生きてるとはいえこいつらは人形だ。言うなれば俺たちは人形師なわけだぜ? 人形を作るのに気味悪いも糞もあるかよ」

 ぽんぽん、と手に持ったタブレット型の端末で拍子をとる。長身の男は苦笑した。

「それもそうだな」

 そのあと二人は幾らかくだらない会話を交わし、自分の業務に戻った。



     ***


暗闇の中を少女は走った。

工場からの逃走を夜にしたのは、人目が少ないのもあるが、一番の理由は、こうして闇に紛れるためだった。

追っ手は少ない。いずれもただの工場員やHiSと呼ばれるアンドロイドばかり。そのアンドロイドも、生物を追いかけることを意図しては作られていないため、少女の足で十分に逃げ切れるものだった。ひとつ問題があるとすれば、こちらには体力の限界があり、あちらにはないということだ。

綺麗な表通り――少女は知識でしか知らないが――とはまるで正反対の、社会の闇を寄せ集めたような入り組んだ路地を、極力人に見つからないよう走った。道に横たわって、死んだように寝ている浮浪者が何人かいたが、彼らに見つかっても大した問題ではない。それよりも、より遠くへ逃げることのほうが、少女にとって遥かに重要であった。

 まともな運動をしたことのない少女の身体が悲鳴を上げている。もう三十分は走りっぱなしだった。外の空気に触れて間もない少女には相当な負荷だ。しかし、少女は足を休めるわけにはいかなかった。ここで止まってしまっては、追いつかれるかもしれない。

 またしばらく走った。

 もういくら進んできたかわからない。

 足を一度止めて背後を見る。

 あるのは薄汚れた空気と、地面に転がったゴミだけ。追っ手を振り払えたのか、距離が離れただけなのはわからないが、今は追われている気配はなかった。

 安心した少女はそのまま建物の壁に肩を預けた。全身から力が抜けてゆき、立っていることすら辛い。ずるずると壁に寄りかかるようにして座り込んだ。息は荒く、身体は熱い。筋肉が、脳が、酸素を欲している。

 ここがどこなのか、少女に知る術はなく、これ以上行動を起こす体力もなかった。

 ただ、このままここにいては身に危険がある。この場所は煌びやかな表舞台とは違い、犯罪も厭わない人間が歩き回る。

 動かねば、と思ったところで、しかし少女の脚はもう限界だった。

 疲れきった身体を休ませるためか。次第に意識は霞み、視界も段々と暗くなっていった。

 少女は最後に、自分の前に黒い影が現れるのを目にした。


     ***


 少女が目を覚ましたのは、薄暗い部屋の中だった。硬いベッドの上に横たわった状態で、擦り切れそうな毛布を掛けられている。それをめくって身体を起こす。少し肌寒く感じた。

 辺りを見回しても、少女には心当たりのない場所だった。少女は昨日、裏路地の壁に寄りかかって、ほぼ気絶するような形で眠ったのだ。それは間違いない。歩くことすら困難であったから、どうして自分がこんなところにいるのか、到底見当もつかない。

 五メートル四方もないその小さな部屋には、どうやら電気は通っているらしかった。電気機器の類はほとんどなく、あるのはせいぜい天井に設置されている蛍光灯のみ。しかしそれも何十年前のものかわからない。あれならまだHiSのほうがまともな光を出せるだろう。天井も低く、少女が立って手を伸ばせば簡単に届きそうであった。天井の隅に通気孔があるだけで、少女が部屋のどこを見渡しても窓すらない。まるで刑務所にいるかのような息苦しさであった。

 突然、部屋の片隅から音がした。何かと思って少女がそちらを見ると、小さな鉄のドアからがっしりとした体格の男が入ってくるところだった。男は手に黒い袋を提げていた。

「ん、ああ、起きていたのか」

 野太い、やや掠れた声。

何者かわからないまま、少女は頷いた。

「昨日は驚いた。どうしてあんなところで気絶していたんだ?」

 その言葉から、少女は事情が大体察せた。どうやらこの男は、自分を助けてここまで連れてきてくれたらしい。とはいえ、少女はあまり自分の事情は話したくはなかった。

「……話さないと、駄目でしょうか?」

 聞くと、男は首を横に振った。

「いいや、別に構いやしないさ。ただ、あんたみたいな女の子があんな危なっかしいところにいたのが気になってな。まあ、それを含めて事情があるんだろう」

 物分りのいい人で助かった、と少女は思った。

「昨日は助けていただきありがとうございました」

 最低限の礼を言い、少女はベッドから降りようとした。しかしまだ脚は思うように動かない。少し動かすだけで鋭い痛みが走る。多分、未調整だったのに無茶をしたのが原因だ。困った身体だ、と少女は思った。

「無理するな。怪我しているんだろう。しばらくここにいればいい」

「しかし、これ以上迷惑は」

「気にしなくていい。ほら、これ」

 少女の言葉を遮って、男は手に提げていた黒い袋を少女に投げつけた。少女はそれを両手で受け止める。柔らかかった。中身を見てみると、女物の服と、女性用の下着も入っていた。少女は、自分が薄緑色の被験服のままだったことに気付いた。はっと男の顔を見る。

「知り合いから貰ってきた。その格好のままだとまずいだろう」

「…………」

 少女は戸惑った。自分が、このように扱われるのは初めてだ。自分は気遣われるようなことのない存在だと自覚していたから、余計に戸惑った。

その様子を見て、男は何も言わずに小さなドアから出て行った。

 少女は手に持った袋を見つめた。どうやら男は、自分が着替えるから出て行ったらしい。

(そんなこと、私は気にしないというのに)

 そんなことを思いながら、少女は袋の中に入っていた水色のワンピースを取り出した。

 座ったまま着替えるのは少し苦労した。


「ほう、よく似合ってるじゃないか」

 戻ってきた男が真っ先に発した言葉はそれだった。少女は不思議な気分に陥った。

「そうでしょうか?」

 男は首を縦に振った。

「似合っているさ。鏡がないのが残念だ」

 陽気に笑う男。その男に、少女は被験服を入れた袋を投げ返した。それを受け取り、男は中身を見た。

「あれ、なんでブラが入ったままなんだ?」

「サイズが合いませんでした」

 背の低い少女にはワンピースはちょうど良かったが下着のほうはそういうわけにもいかなかった。少女の胸のサイズよりブラのほうが大きかったのである。少女はもともと、そういうことを目的とした肉体ではないからだ。男は少女の胸元に視線を向け、すぐに逸らした。

「あー、あいつ娼婦してたからなぁ。そりゃそうか」

 頭を掻きながらそんなことを言う。性欲処理で人間を使う必要のないこの時代にも、娼婦という職業が成立しているという事実に少女は驚いた。そんな知識は自分の中にはない。

「まあ、なくてもなんとかなるだろう」

 頷く。少女もあまり気にしてはいなかった。もともと工場では下着など着けていなかったからだ。

 男は少女から視線を外し、机の下に潜り込んで何かを取り出した。男が右手に持っていたのは二つの袋だった。どちらも安い補給食のパッケージで、男はそれを少女に手渡した。

「腹、減ってるだろう。これくらいしかないが、遠慮なく食え」

 少女が何か言う間もなく、男は自分のぶんの袋を開け、中身のゼリーを飲み始めた。少女は渡された袋を眺めた。工場で食べたうち、唯一まともだったものだ。少女は、男と同じように袋を開き口に咥える。少女にとっては工場で何度か口にしたものだった。そのときは不味くて我慢して食べたのだが、今はそれがとても美味に感じられた。

 食べ終えたあとのゴミは男に渡した。


「なあ、あんた、名前なんていうんだ?」

 壁にもたれて座っている男が尋ねる。少女は返答に困った。

「……私には、名前がありません」

 仕方なくこう答えた。本当はある。しかしそれは正確に言えば『製品番号』だ。事情を知られたくない少女にとって、それを言うよりは「名前がない」と言ったほうが、リスクが低かった。

「そうか。まあ、二人だけなら名前なんてなくても困らんだろ」

 ふああ、と大きな欠伸をする男。もしかしたら、気付かれてしまったかもしれない。しかし男は、何をする様子もなかった。

「あなたは……」

「ん?」

 少女は言いかけた言葉を続けた。

「あなたの名前はなんというのですか?」

 男は少し驚いた顔をしている。少女にそこまでの積極性があると思っていなかったのだ。

 男は頭を掻いた。

「俺か。そうだな、皆からはタチバナって呼ばれてる」

 タチバナはそう答えた。まるで、自分にも本当は名前なんてないような口振りだった。しかし少女はそれを追及しないことにした。自分が名前を明かしていないのに、そんなこと聞けるはずもない。

「タチバナさま」

 少女は、今知ったばかりのそれを口に出してみる。生まれて初めて、他人の名前を言った。それがなんとなく嬉しい気がした。

タチバナは少女の言葉を聞いて照れくさそうにしている。

「さま、は余計だ。性に合わん。せめて、さん付けにしてくれ」

「では、タチバナさん」

「おう」

 相変わらず照れくさそうなタチバナ。大きな身体が微かに揺れている。

「ありがとうございます」

 自然とそんな言葉が少女の口から出ていた。少女自身も自分の言葉を聞いて驚いていた。今は、感謝の気持ちより申し訳なさのほうが大きかったからだ。

「……出て行くのはいつでもいいからな」

 タチバナはそう言って、壁にもたれかかったまま目を瞑った。すぐに寝息が聞こえ始める。

それを聞いていると、少女の瞼も重くなってきて、それに逆らえずにベッドに横になった。

「おやすみなさい」

 そう言って、少女は眠りについた。


     ***


 次の日、少女が目を覚ますと、部屋にはもうタチバナはいなかった。

 上体を起こして辺りを見回すと、枕元に昨日食べた補給食とメモが置いてあった。きっとタチバナが部屋を出て行く前に置いていったものだろう。

メモには『朝飯』とだけ書かれていた。どうやらこれを食べろということらしい。時間がわからないので朝食かどうかは不明だが。

なんとなく、タチバナらしいな、と少女は思った。

袋を開けて口に咥える。口の中に広がるゼリーは、昨日より味が落ちている気がした。


 食べ終えて、少女は再びベッドに寝転がった。そして、少しだけ後悔した。

(タチバナさんにベッドで寝てもらうべきだった)

 しかし少女はその考えをすぐに振り払った。人のいいタチバナのことだ、きっと嫌と言っても無理矢理にベッドで寝かせたに違いない。だが、疲れていたとはいえ、許可を得ずにベッドで寝たのはどうにも申し訳なかった。

「……今晩は断ってみよう」

 そう呟いて、少女は再び目を閉じた。

 脳裏に浮かぶのは、タチバナのはにかんだ顔だった。


 少女が次に目を覚ましたときには、タチバナは既に帰ってきていた。切れかけの蛍光灯が照らす薄暗い部屋の隅に座り込んで、下を向いている。少女からは、ちょうど対角の位置にいる彼の表情は伺えなかった。

「おかえりなさい」

 身体を起こして少女が言う。しかしタチバナはぴくりとも動かなかった。耳を澄ましてみると寝息が聞こえる。どうやら彼は眠っているらしかった。よほど疲れていたのだろう。

 ベッドで眠ってもらうつもりだったのだが、無理に起こすのも迷惑になる。

 仕方がないので、少女は二枚重ねにされた毛布のうちの一枚を手に取り、立ち上がった。昨日は立ち上がることも難しかったが、二日間休んだお陰で、今はそこまで辛くない。なんとか壁伝いに歩ける程度には回復していた。

 ベッドから腰を上げ、右手に毛布を握って、左手で壁を伝っていく。

 少女は、タチバナの傍にしゃがみ込み、そっと毛布をかけた。ベッドで寝てもらえないのだから、最低限、このくらいしなくてはならない。時期でいえば、そこまで寒くはないのだが、床で寝るのはやはりしんどいものがある。

 用の終わった少女は壁にすがってなんとか立ち上がり、ベッドに戻ろうとする。

「ありがとな」

 後ろから眠そうな声が聞こえた。振り返ると、タチバナが眠そうな顔をしていた。

「すみません、起こしてしまいました」

 素直に謝ると、タチバナは首を横に振った。

「いや、謝らなくていいさ。親切をしたのに謝る必要なんかない」

「そういうものなのですか」

「そういうものだ」

 タチバナはひとつ大きなあくびをして、毛布を自分の身体に巻きつけた。それからすぐに目を閉じた。

「タチバナさん」

 少女が声を掛けると、今にも眠りそうだったタチバナが再び目を開けた。

「どうしたんだ?」

 改めて言おうと思うと難しいものである。しかし自分は立場上居候のようなものである。唯一のベッドを勝手に使っていい道理はない。

「ベッドで寝てもらえませんか?」

「なんでだ」

 訝しげに尋ねるタチバナ。

「私はここに居させていただいている身です。ここはタチバナさんの部屋なのですから、ベッドで寝るのはタチバナさんでなくてはいけません」

 言うが、タチバナは、なんだ、と呟いただけだった。

「あんたは怪我しているんだ。どこも怪我していない俺が怪我人を差し置いてベッドで寝るなんてこと、できるわけがないだろう」

 そうだ、彼はこういう人なのだ。自分よりも他人を優先する、心優しい人。

 しかし少女としても、ここで食い下がるわけにもいかない。

「私は大丈夫です。タチバナさんこそ、疲れているのですから、ベッドで寝るべきです」

 どうしてここまで食い下がるのか少女にもわからない。本来なら自分は逆らうことのできない存在であるというのに、どうしてだろう。

「……譲歩できないな」

「でしたら、半分だけでも」

「は?」

 少女の台詞で、タチバナの時間が止まった。

 まず、その内容を理解する時間。そして、その意図を理解する時間。その他諸々考える時間を含め、タチバナはおよそ十秒間、硬直していた。

「それはつまり、一緒に寝ろっていうことか?」

「そういうことになります」

「どういう意味かわかっているのか……?」

「……?」

 タチバナは頭を抱える。


 少女にはそういった常識が掛けている。異性に対する恥じらいというものも、そもそも存在しない。だからこその提案であった。

 対してタチバナは常識がある。それに、異性に対する恥じらいも存在する。だから必然的にこういう反応になるのである。

 はぁ、と大きなため息。タチバナのものである。

 どうせ断ってもこの少女は譲らないだろう。ならば一旦は承諾して、彼女が眠った隙を見計らって逃げ出せばよい。

「……わかった」

「では、ベッドで寝てくださるのですか?」

 少女の問いに、タチバナは頷く。

仕方のないことなんだ、と心の中で繰り返しながら、タチバナは少女の手首を掴んだ。突然のことに、少女はきょとんとする。

「あの」

「まだうまく歩けないだろう」

 少女は頷く。

 タチバナは少女の腕を引く。強く引っ張るのではなく、優しく支えるように。少女はそれに逆らわずに身を任せる。さすがにそれだけではうまく歩けなかったので、自由な右手を壁に添える。お陰か、行きの半分程度の時間で、ベッドに戻ることができた。


「あんたが壁際で寝るんだぞ」

 少女は頷く。そこまでこちらから指定はできない。大人しくベッドに横になり、壁際ぎりぎりまで詰めた。そうしないと、シングルベッドに二人は寝られない。

 少女の背後にずしりと重量のあるタチバナの身体が横たわった。

背中から人の温かみが伝わってくるのは、変な感じであった。


     ***


「もう脚も治った頃だろう。今日は外に行かないか?」

 タチバナと出会ってもう十日は経つだろうか、急に彼がそんなことを言った。

 確かに少女の脚はすっかりとまではいかなくとも運動には差し支えのない程度には回復している。断る理由もなかった。

「わかりました。ですが、一体どこに?」

 ベッドに腰掛けた少女は、ドアの傍にもたれ掛かって座っているタチバナに尋ねる。

「ああ、ちょっと会わせたい――会いたいって言っている奴がいてな」

 その言葉に、少女は身構えた。しかしすぐに思い直す。タチバナがそんなことをする訳がない。ここ数日で、少女の彼に対する信頼は確固たる物になっていた。それだけ、タチバナは少女を気遣ってくれたのだ。

「そうですか。では、いつ頃から」

「今すぐ行くか?」

「大丈夫です」

 タチバナが立ち上がり、ドアを開ける。それに合わせて、少女もベッドから腰を上げて、タチバナの方へ向かった。

 数日間まともに歩いていないため、足元は覚束ない。しかしそれも、タチバナが腕を持ってくれるお陰でなんとかなっている。

「ありがとうございます」

「いいさ、俺から誘ったからな」

 二人で同時に足を踏み出した。


 ドアの外は地下のようで、部屋の中と明るさは殆ど変わらなかった。監獄のように何もない通路のところどころにドアが作られている。そこにも、タチバナと同じように誰かが住んでいるのだろう。

「こっちだ」

 そう言って、タチバナは少女の腕を引く。

 何もない通路を進むうち、だんだんと通路が広がってきた。ときどき人ともすれ違う。明るくはあるが、空気は部屋にいたときよりも悪い。それこそ、あの暗闇の街に近いものであった。あのときは不安だったが、今はタチバナが手を引いてくれている。その温もりで、少女は安心できた。

「着いたぞ」

 タチバナが止まったのは、一枚のドアの前。タチバナの住む部屋とは違い、木製で、しかも一回りか二回り大きかった。きっと、この中も多少なり広々としているのだろう。

 タチバナが、ノックをしてドアを開ける。

「入るぞー」

 はーい、と、奥から艶かしい女性の声が聞こえた。この部屋の主だろうか。

「ほら、着いて来い」

 タチバナがドア枠をまたぐ。まず廊下がある時点で、タチバナの住む、居住空間直通の部屋とは全く違った。ここには、最低限生活に必要な設備は揃っているようである。

「タチバナ、どうしたの?」

 廊下の一番奥の部屋。小綺麗なダイニングテーブルと二つの椅子が並べられている。いずれも明るい色をした木材を使ったものだ。

 そのうちの片方に、彼女は腰掛けていた。

 彼女は、少女であった。十八、九ほどだろうか、髪をやや茶色く染めている。この時代には珍しい。黒いタイトなスカートと薄桃のブラウスが、その体つきを引き立てている。

 目の前の女が少女のほうを興味深そうに見る。そしてすぐにタチバナのほうへ視線を戻す。

「もしかして、その子が、タチバナの言ってた子?」

「ああ、そうだ」

 少女は不安になってタチバナの方を見る。タチバナは大丈夫だ、というふうに首を横に振った。そして椅子に腰掛けたままの彼女に顔を向ける。

「自己紹介」

「なにそれ、ぶっきらぼうだなぁ」

 悪態をつきつつも、女は口を開いた。

「私はユリ。あなたのことはタチバナから聞いてるわ、よろしくね」

 ユリは、少女に不安感を与えないようにか、微笑んだ。少女はそれでなんとなく悟る。この人はいい人だ。

「よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げて挨拶。タチバナ以外の人と話すだけで、不思議と少女の身体は硬くなって、動きがぎこちなくなる。

「そんなに緊張しなくていいさ。俺はちょっと出なきゃいかんから、しばらくここにいてくれ」

 タチバナは少女の頭に手を置いて言う。少女は頭を上げて頷く。しかしユリは心配そうな顔をした。

「私はいいけど……タチバナ、またいつものとこ行くの?」

「ああ、そうだが。なんだ、ユリ、心配してくれてるのか?」

「そんなんじゃないけど……」

 けらけらと明るく笑うタチバナだが、ユリの様子はそれとは正反対である。

「……無事に帰ってきてよ」

 懇願するユリ。その瞳は若干ではあるが潤んでいる。

「ああ、もちろん」

 タチバナはそう言って、部屋から出て行った。



「ねえ、こっちにおいでよ」

 入り口のところに棒立ちした少女に、ユリが声を掛ける。さっきまでの泣きそうな表情は既に引っ込んでいた。

「はい」

 少女はユリの向かいの椅子に座る。

 少しの沈黙のあと、ユリが口を開いた。

「あなた、名前なんていうの?」

 初めてタチバナと会ったときにも同じことを聞かれた。答えられないのは、今も同じであった。

「私には、名前がありません」

「そう、不便ね」

 タチバナとは逆のことを言う。ユリはふう、と息を吐く。

「……私も、そうだったのよ」

 そうだった、とはどういう意味なのか。少女は少し考える。その答えが出る前に、ユリが言葉を続けた。

「今の名前はタチバナがくれたの。私はそれまで、名前らしい名前なんてなかった」

「とは?」

 ユリは微かに笑う。対して少女は無表情のまま。

「昔はね、娼婦……というか、売春をしてた」

 ああ、と少女は思い当たった。自分の着ているこの服は、ユリのものだったのだ。タチバナはわざわざ、事情もわからぬ自分のためにこの服を彼女から譲ってもらったのだ。

「服、ありがとうございます」

「ああ、いいのよ全然。当時の服なんてどうせもう着られないし」

 ユリは少しだけ悲しそうな顔を覗かせた。

「続きを、聞かせてください」

 ユリは頷く。

「五年くらい前まではそうやって生きてきたの」

 ユリは十九歳である。どうやって生きてきたか、普通の感性の持ち主なら考えるだけで吐き気すら抱く。壮絶といえば壮絶な人生だったと、ユリは語った。


 名前すら与えてくれなかった両親には小さいころに捨てられ、生きるためには手段は選べなかった。小さい子供には、この時代に盗みで生きていくのは困難だった。だから身体を売ってきた。

 それを数年間続けてきた。もう狂う寸前だったのか、もしかしたら狂っていたのかもしれない。

 タチバナに出会ったのはそんなときであった。


 一通り話し終えると、ユリはため息をついた。

「タチバナは私のお父さん。彼のお陰で、私は救われたのよ」

「そう……ですか」

 少女の気持ちは複雑だった。目の前の彼女は、もしかしたら自分よりも酷い人生を送ってきているのかもしれない。そんな彼女を助けたのもまたタチバナだ。

彼は一体何者なのだろう。

 いままで考えなかった疑問が脳裏に浮かぶ。それをそこに留めることは難しい。どうしてだろう、どうしてこんなにも彼のことを知りたく思うのだろう。どうしてこんなにも興味を引かれるのだろう。

「タチバナさんは……」

 気がつけば、口から出ていた。一度表に出してしまったそれを呑み込むことはできなかった。

「タチバナさんはどういう人なんですか?」

 それを聞いて、ユリはくすっと笑った。心底嬉しそうな笑みだった。

「彼のこと、知りたいの?」

「はい」

「わかった、教えてあげる」

 向き合わせのまま、ユリは少女の目を見た。

 静かに、彼女の唇が動く。少女は思わず息を呑んだ。


 ユリの口から出たのは、信じられない言葉だった。

「タチバナは、半分、人ではないのよ」


     ***


 二人は部屋にいた。

 タチバナはいつもの壁際に座り込んでいる。少女はベッドに腰掛けていた。

 二人の間に会話はない。昨日までもそうではあったが、それはタチバナが疲れて眠っていたからだ。だが今日は違う。タチバナは目を開けており、少女もそれを知っている。なのに、タチバナが帰ってきてから交わされた会話は三度ほどである。いずれも他愛のないことばかり。

 あんなことを聞いたあとで、どう声を掛ければいいのかわからないのだ。

 きっとタチバナは、少女がユリから何かを聞いたことには気付いているだろう。彼女と会う前とあとでは、明らかに少女の様子が違っている。

 会話が続かないのは、お互いがお互いを意識するせいだ。沈黙らしからぬ沈黙が二人の間に澱んでいる。


「あの」

「なんだ?」

 先に口を開いたのは少女だった。どうしても、事の真偽を確認したかった。

「タチバナさんのこと、ユリさんから聞きました」

 その台詞を聞いても、タチバナはそうかと言っただけだった。きっとタチバナは、自分からは話すことはないだろう。

 だから、少女は自分のことを話すことにした。

「私は……いえ。私も、半分、人間ではありません」

 タチバナが驚いて顔をあげる。信じられないものを見るような目で少女を見た。その驚きは、少女が自分のことを知っていることに対してではない。少女が自分と同じ存在であるということに対してのものである。

「どういうことだ?」

「製品番号E872――それが私の名前です」

 恐らく、タチバナはそのワードだけで全てを理解したに違いない。

「あんたは……」

「ええ、BiSです」

 アンドロイドであるHiSに対して、BiSはバイオロイドだ。遺伝子操作により目的に最適化された生体型人造人間。人間でありながら人間でない存在がこの少女、E872なのだ。

 タチバナは微かに笑う。

「……まさかBiSだとは思わなかったな。あいつらは、自我を持たない」

 名前を名乗らなかったこと、被検服を着ていたこと、それらから、少女が何かしら特異な存在であるということに、タチバナは気付いていたのだ。

 彼の言うように、BiSは人間ではあるが自我を持たない。自分が自分であるという意識は、命令を遂行するのが主な役割である機械には必要のないものなのだ。もしあれば、それは反乱の火種になりかねない。

「しかし、あんたには明らかに自我がある。それはどうしてだ?」

 当然の質問だ。

「……恐らく、私は失敗作です」

 自我を持ったBiSは処分対象。不良品であり、人権を持たぬ機械である以上、待っているのは死だった。

脳内に刷り込まれた情報から流れ出てくるのは死への恐怖。それに耐え切れずに、少女は工場から逃げ出したのだ。

 少女の矮躯が揺れる。細い腕が小刻みに震える。俯いた顔から、何故だろう、涙が流れる。

 少女の肩に大きな手が乗った。タチバナだ。包まれているような気がして、あたたかい。少女は顔を上げた。

「大丈夫だ」

 タチバナはただそれだけを言った。

「……私は、処分されるべきだったんでしょうか?」

 死ぬのが怖くて逃げ出した。ユリとは違い、自分ひとりで生き抜く力がなくて、タチバナに迷惑を掛けた。だから。

 しかし、タチバナは首を横に振った。

「あんたは、モノじゃない。生きている。殺されていい理由なんかない」

 ああ、タチバナはこういう人なのだ。彼と過ごしたこの数日間で何度も感じたことではないか。手を差し伸べてくれるのが、彼なのだ。

「ありがとう……ございます」

「ああ」

 どかっと少女の隣に腰を下ろす。ベッドは硬くて、二人が上に座っても沈み込むことはない。

「ユリから俺のことを聞いたって言ったな」

 タチバナの方から切り出してくるとは思ってもいなかったので、少女は少し遅れて頷く。

「ユリに全部話したわけでもないし……まあ、俺からも話そう」

 そう言って、タチバナは着ていた作業着を脱ぎ始めた。上半身を露わにする。話は聞いていたが、やはり実際に見るのとでは違う。少女は息をのんだ。

 タチバナの腹部は、鈍い輝きを放っている。

まさに金属の、機械のそれだった。見ているだけで、静かに、しかし正確に動作していることがわかる。

「見ての通り、俺は機械に生かされている」

 ユリの話でタチバナがどういう状態かだけは聞いていたが、少女は驚かざるを得なかった。今の時代、確かに義手や義足、義眼すらも本来のもの以上の性能を発揮することはできる。しかし、ここまで機械に人体の機能を代替して、まともに活動できるものなのか。少女の内にある知識の中で判断すれば、まずそんなことは不可能である。

「どうして、そんなことが」

 タチバナは笑いを溢した。自嘲じみた笑いだった。

「実験だよ」

 そう言って、タチバナは自分の腹を撫でた。――それはもちろん機械の表面でしかないのだが。

 タチバナは続ける。

「臓器を機械で代替する。人間という存在を永遠の、絶対のものに昇華するための実験だ」

 どれだけ延命処置を施しても、いずれ肉体は滅びてしまう。しかし、人間ついての意識さえ残っていれば肉体はどうなってしまっても構わない。そういう思想が、タチバナの肉体に及んだのだ。

「六年前だったか、俺の身体は不治の病に侵されていてな。死ぬのを待つだけだった」

 タチバナの言葉を、少女は黙って聞く。ここから先は、ユリからもきかなかった話だ。

「俺は使えなくなった臓器を全てこいつらに替えた。いや、強制的に変えられたと言ったほうが自然だな」

 タチバナは笑う。しかし少女は笑えるはずもなかった。

「俺は施設から逃げ出した。実験はうまくいっていたらしい。変に身体が軽くなっていて、簡単に抜け出せた」

「でも、それではタチバナさんの身体は」

「ああ、そうだ」

 少女が言い切る前に、タチバナは理解したようだった。言葉を遮る。

「俺の身体はもうボロボロだ。いつこの機械が壊れてもおかしくない」

 機械である以上、本来なら定期的なメンテナンスが必要である。いくら長期的な使用を目指して作られたものであっても、限界はくる。それがタチバナの場合、五年間だったというだけである。

「……死ぬ、ということですか?」

 聞いてはいけない、ダメだと思っても、口は止まることはない。

「まあ、そういうことだ」

 タチバナの返事は、案外あっさりとしたものだった。

「怖くないのですか?」

 少女は怖い。だからこそ、タチバナの考え方がわからない。できることなら、そこで否定してほしかった。

 しかしタチバナは首を縦に振った。

「どうせ今頃は死んでいた身だ」

 ただそれだけを言った。

 タチバナは何もない部屋のドアをじっと見つめている。

「俺は、今の社会がおかしいと思ってる。この世界は生命倫理が崩壊してしまっているのかもしれんな」

 ドアの外には長い廊下が広がっていて、さらにその先には街がある。その世界では人間の下で、人間が働いている。人権を持たない、量産された傀儡が酷使されているのだ。

「せっかく延びた人生だ。俺はそれをこの社会をぶち壊すために使ってる」

 ユリの涙は、きっとそういうことなのだ。そんなことをしていては、いつか殺されるに決まっている。しかし、彼は死に恐怖を感じていない。だからこそ、なのだろう。

「私たち、BiSを救うために……ですか」

 タチバナは頷く。

「あんたが生きているように、あいつらも生きている。俺は、この機械に変わった身体で、少しでも助けたかったのかもしれんな。だが、現実は変わっていない。結局、世界を変えることは一人の力ではできなかった」

 また、自嘲。乾いた笑いだ。

「だけど、あなたはユリさんを救った。私を救ってくれた。あなたは私に、生きていると言ってくれたではありませんか」

 だから、と、視線で訴える。少女にはただそれしかできない。しかし、それならできる。死ぬのが怖くても、非力であっても、一人の男が成し遂げたことを証明はできる。

 タチバナの細い目が、少女の目と合う。タチバナの無精髭が生えた顔が瞳に映った。

 タチバナはまた笑う。

「そう言ってくれるとありがたい」

 先刻の乾いた笑みではない、まるで神に救われた民衆のような、そんな笑み。

「どういたしまして」

 頭で考えるまでもなく自然に言葉が漏れていた。少女はそれがおかしくて、口に手をあてた。

「……やっぱりあんたは生きてるよ」

 タチバナはそう言ってベッドから立ち上がる。

「さあ、そろそろ寝よう」

「ええ」

 照明が消えて、部屋の中は真っ暗になった。

 辺りは見えないが、どうやらタチバナはまだ動いているらしかった。しかしその気配もすぐに少女の近くに寄ってきた。大きな身体は、ごく自然に少女の横に座った。

「名前がないのは面倒だろう」

 見えているのかはわからないが、少女は頷く。そうか。とタチバナは言った。

「なら、あんたはサクラだ。いまからあんたはサクラ」

 いつかに言っていたこととは違うではないか。少女は笑って頷いた。

「ええ、私はサクラです。はじめまして、タチバナさん」

「ああ、よろしく、サクラ」

 そうして二人の会話は終わった。


 次の朝、タチバナは部屋からいなくなっていた。


     ***


 子供が泣いていた。男の子だった。理由はわからないが、別にそんなものわからなくてもよかった。

 私は彼に近づいて、頭を撫でてやった。すると子供は涙を流したまま、私の顔を不思議そうに見つめた。

 仕方がないので、指で涙を拭ってやる。

「大丈夫だよ」

 その言葉に、子供は、どうして? とでも言いたげだ。いつの間にか涙は止まっている。

 理由なんて、簡単だ。

「だってあなたは、生きているでしょう?」

 何か悲しいことがあっても、死にたくなるようなことがあっても、生きているのだ。生きているのだから大丈夫。それは、どこかの誰かさんが教えてくれた。

 子供が頷く。きっと、意味はよくわからないままなのだろう。別にそれで構わなかった。

 子供の手を引いて歩く。目指すのはあの部屋だ。

「お姉さん、誰?」

 子供が尋ねてきた。当然の質問だった。

 いまは、それに答えることができる。ちゃんと名前をもらった。名前がなくては不便だから。

 私はその名前が好きだ。だから、臆することなく言える。


「そうね――――サクラと呼んで」


 マジでタイトルのセンスが無い。

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