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届かぬ想い
作:真田遼



第5話 風船


 マサトは壁に掛けられた白いダウンジャケットを見ながらニヤニヤと笑みをこぼしていた。
初詣の時、若い女性と密着した。しかも不意に出した自分の手が、彼女の胸を触るような形になったのだ。この事はマサトにとって『今まで生きてきた中で最高の出来事』と位置づけられ、そんな最高の形でスタートした新しい年に、明るい希望を抱かずにはいられなかった。

し、か、も、である。しかもマサトの着ていた白のダウンジャケットに、彼女の口紅の跡がしっかりとつけられていたのだ。人ごみで揉みくちゃにされ、思わぬ形で密着した際に着いたと思われる彼女の唇の痕跡を、マサトはにやけながら眺めていた。
 マサトは自分の部屋のドアをそっと開け、廊下を見渡した。そして近くに誰の気配もないことを確認すると、ドアを静かに閉め、施錠した。
 ダウンジャケットの前で大きく深呼吸し、精神を落着かせた。
 高鳴る胸の鼓動を必死に押さえようとしたが、思えば思うほど、そのドキドキは収まらなかった。マサトは震える唇をダウンジャケットへと近づけ、そして、彼女の唇の痕跡へと軽く唇を重ねた。
 彼女との『間接キス』を終えたマサトは、どこか自分が少し成長したような、そんな気分になっていた。傍から見れば、馬鹿なことのように思うかもしれないが、マサトにとってはそんな些細な事でも『今年の10大ニュース』の候補に入れる程の大きな出来事だったのだ。
 マサトは、今年こそは『自分自身を変えよう』という目標の第一歩を踏み出せたような気がしていた。この良い波にのり、どんどん自分を変えていけるのではないかという、淡い期待を胸にしていた。
 
『思い切って少しはお洒落をしてみよう』

 普段、お洒落に関しては全く興味のないマサトがここまで思う程、彼女との出会いは衝撃的だったのだ。彼女と再び出会うことはないと、マサトは理解していたが、こんな気持ちにさせてくれた彼女との出会いに心から感謝していた。
 もちろん、彼女から告白された訳でも、彼女と友達になったわけではないのだが、そんなことは今のマサトには関係のないことだった。女性と言葉を交わせたという事が、マサトにとっては大きかったのだ。

 意気揚々と家を出て二駅先にあるショッピングモールへと向かった。電車の中でも、マサトはガラス越しに映る自分の姿を見ながら、髪形を気にしていた。気がつくと、自分が降りる駅に間もなく到着するところだった。嬉しい事があると、時間も何故か短く感じてしまうものだなと、マサトは思った。
 駅を出てショッピングモールまでの道を歩いていると、大きな袋を持った人達が多い事に気がつく。新年恒例の福袋のようだ。マサトは『今年はなんだかツイてるから自分も買おう』と心に決め、目の前に近づいてきたショッピングモールを眺めながら歩いていた。

 ショッピングモールの入り口付近にある、公園のような場所で、一人の女の子が泣いているのに気付いた。幼稚園の年長くらいの女の子の横には、老夫婦が困った表情を浮かべながらたたずんでいた。どうやら女の子が風船を飛ばしてしまい、それが木に引っ掛かって取れないようだ。
 マサトは老夫婦に近づき声を掛けた。
「どうしたんですか?」
「あ、いえ、何でもないんですよ。ただ、この子が離してしまった風船が木に引っ掛かってしまって。私達ではどうすることも出来なくてね。新しい風船をもらったらいいと、説得しているのですが、どうにも、あの風船でないとダメなようで……」
 老人男性の言葉を受け、マサトは木を見上げた。マサトの身長の二倍ほどの高さに、キティちゃんの絵が描かれた銀色の風船が引っ掛かっていた。
 いつものマサトなら、「無理かもしれませんね」と言っていたところだが、今日なら何でも出来るような気がしてならなかった。そして老人に一言呟いた。
「僕が取りますよ。そんなに難しい事じゃないと思うので」
 そう言うと、マサトは着ていたジャンバーを脱ぎ(白のダウンジャケットは丁重に部屋に保管されている)、それを老人に渡した。
「じゃあ、ちょっと取ってきます」そう言うと、一番近い枝に手を掛け、ゆっくりと木を登り始めた。
 マサトは小さい頃から結構木登りが得意で、近所の神社の御神木に登り、神主さんに怒られた事も多々あった。なので、まったく不得意な分野ではないので、十五年以上のブランクがあるとはいえ、風船の引っ掛かっている枝まで辿り着くまでに、それ程時間を要しなかった。
 枝に引っ掛かった風船の糸を丁寧に解き、枝から風船を取り外すと、木の下でマサトの動向を真剣な目で窺っていた女の子に手を振り、「取れたよ」と木の上から叫んだ。
 マサトは風船の紐を手に巻きつけ、木をゆっくりと下りる。適当な枝に捕まり、スルスルと木を降りていた。

『バキっ』

 鈍い音が響いた。
 あと一メートルほどで地面に到着するという時に、掴んでいた枝が突然折れたのだ。

「うわっ!!」
 
 マサトがそう叫んだ時には、すでに地面に落下した後であり、地面にお尻を強く打ち付けた。それでもマサトは、風船を放さなかった。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 女の子が心配そうな表情を浮かべながら駆けつけた。マサトは「大丈夫、大丈夫」と言ってはいたが、その表情は苦痛に歪んでいた。

「大丈夫ですか?」女の子の付き添いのおじいさんが言った。
「ええ、大した事ないです」
「ほら、綾香、お兄さんにお礼を言いなさい」おばあさんが、女の子にそう言った。
「お兄ちゃん、どうもありがとう。お兄ちゃんの名前何ていうの?」
「名前? お兄ちゃんの名前は『マサト』って言うんだよ」
「そっかあ。マサトお兄ちゃんどうもありがとう」女の子はそう言うと、ニコッと笑った。
 それからマサトに深々と頭を下げた老夫婦は、女の子を連れて、その場を後にした。
 そしてマサトは、尻餅をついた場所をさすりながら、ショッピングモールへと入っていった。







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