第35話 交換ノート
「あっ……お疲れ様です……初めてですね……この時間帯に、こうやってお会いするのは……」マサトがはにかみながらそう言った。
「そうですね……今日はちょっと忙しくてこんな時間になってしまいました。今まで会えなかったのに、最近はよく会いますね」エリコは優しい笑みをこぼしながら言った。マサトは顔を赤くしながら右手で頭の後ろを掻いていた。
「あ、そうそう。マサトさんからの手紙、しっかり受け取りました。すっごく嬉しかったです」エリコが言うと、マサトの顔は先程にも増してさらに赤くなり、その紅潮は耳まで達していた。
「あの……ご迷惑ではなかったですか? 正直、メモを入れるのを躊躇っていたんです。だって、藤本さんはご結婚されているわけだし、僕なんかが手紙を渡すなんて事、許される事じゃないし……」
「いいえ。とても嬉しかったですよ。それに、ここで仕事をしている時は、一人の女性として働いている気持ちでいるんです。家の事や子供の事を忘れて、自分の為に働こうって、ここの仕事を始めるときにそう決めたんです。だから、ここでマサトさんと一緒にお話できる事、一人の女性として嬉しく思っています」
「そ、そうですか……ご迷惑でなければ、それでいいんです。もしも僕がこんな事をして、藤本さんの家庭が、その……壊れてしまうような事があったら、申し訳ないなと思って……」マサトはそう言ったあと、俯き、閉口した。そんな真剣に悩むマサトを見て、エリコは思わず「ぷっ」と小さく吹き出してしまった。それに気づいたマサトが顔を上げる。
「ふふふっ。ごめんなさい。笑ったりして。マサトさんがあまりにも真剣な顔をしているので、ちょっとおかしくなって。ごめんなさいね、失礼ですよね。でも、同じ職場のスタッフとお話したぐらいで家庭が壊れるなんて事無いですよ。安心してください。マサトさん、考えすぎです。ホントに真面目なんですね」エリコは優しい笑みをこぼしながら言った。
「マサトさんとお話していると、何だか気持ちが温かくなりますね」
「あ、いや……とんでもない……僕なんか、女の人とろくにお話をした事もないので、ホント、何か失礼な事を言ったりしないか、いつもドキドキしてるんです」
マサトの『女の人とろくにお話をした事がない』という言葉に、エリコはドキッとした。そして、今まで一番聞いてみたかった事をマサトに聞いてみる事にした。
「マサトさんって……お付き合いしている人とかいないんですか?」
マサトはその問いかけに一瞬戸惑ったが、ニコリと笑顔を浮かべ答えを言おうとした。その時だった。
「あれ? 藤本さん、急がなくていいんですか? ぁ、それからマサト君、早く手伝ってくれたら助かるんだけど」
店長が店内へと通じる扉からひょこっと顔を出しながら言った。
「ぁ、すいません、今行きます。藤本さん、お疲れ様でした。すいません、急いでいるのに引き止めてしまって」
「あ、いえいえ、私こそ何だかすみません。忙しいのに話しこんでしまって……あの、お疲れ様でした」
エリコはそう言うと、二人に挨拶を済ませたあと、店をあとにした。
その日から、エリコにとって嬉しい日々が続いた。家で嫌な事があっても、パート先でマサトの書いたノートを見ると、それだけで幸せな気分になれた。ノートを受け取ると、それを家に持ち帰り、じっくりと返事を書く。そして次の日にまた秘密の場所へとノートを隠し、それをマサトが持ち帰る。そんな幸せな時間が、二人の間に流れていた。
『藤本さんへ
この間の質問の答えですが、僕はお付き合いしている人とかいませんよ。僕は女性とお話しするのが苦手なので、面と向かって女性とお話しするなど、とんでもないです。なので、彼女はおろか、女の子の友達もいないんですよ』
『マサトさんへ
マサトさんにお付き合いしている女性がいないと聞いて、正直ビックリです! マサトさん、すごく優しくて思いやりがある方なのに……。世の女性はいったい何を見てるんでしょうね。私がマサトさんと同じぐらいの年齢だったなら、絶対マサトさんとお付き合いしていたのに。マサトさんの年代に生まれなかったのが悔しいくらいですよ♪』
『藤本さんへ
すごく嬉しいお言葉ありがとうございます。藤本さんにそう言って頂けると、なんだか少し勇気が湧いてきます。僕も藤本さんと同じ年代に生まれていたのなら、藤本さんのような方とお付き合いしてみたいなと思いました』
『マサトさんへ
あら、私ではなくて、私みたいな人とお付き合いしてみたかったんですか? ちょっとショック!! 私じゃないんですね……』
『藤本さんへ
ごめんなさい。あれは言葉のあやです。ホントは藤本さんのような方ではなくて、藤本さんとお付き合いしてみたいと言いたかったのですが、僕なんかがそんな事を言うのもおこがましいと思ってしまって……ごめんなさい。気を悪くされたのなら謝ります』
『マサトさんへ
嘘です^^ ちょっとマサトさんに意地悪してみました♪ マサトさんのような素敵な方が、本当に私の彼氏だったら嬉しいのに。なんてねっ♪』
『藤本さんへ
僕が藤本さんの彼氏だなんて、とんでもないです。僕みたいな男と付き合ったら一生後悔しますよ。僕はとにかくダメダメな男なので、僕の事を知ったら、ホントに呆れられてしまうのがオチです』
『マサトさんへ
そんなに自分の事をダメな人間だ何て思わないで下さい。マサトさんはマサトさんの良いところがいっぱいあるんだから。そんなに自分の事を悪く言うマサトさんだと、ちょっと嫌いになっちゃうかもしれませんよ』
『藤本さんへ
ごめんなさい。あまり自分を悪く思うのはやめるように心掛けます。なので、嫌いにならないで下さい』
『マサトさんへ
分かりました。今回だけは許してあげます。その代わり、私の事は『藤本さん』ではなく、『エリコさん』と呼んでください。私だけ名字で呼ばれると、なんだかよそよそしくてイヤです。それに、最近『藤本』という名字が少しイヤになってきているんです……あ、こんな事、マサトさんにいう事ではなかったですね。ごめんなさい』
『エリコさんへ
何だか名前で呼ぶのは恥ずかしい気がします。名字がイヤだと言っていましたが、家の方で何かあったんですか? 僕が相談に乗っても何の解決にもならないかもしれませんが、嫌な事があったならいつでも言ってくださいね』
『マサトさんへ
ありがとうございます。マサトさんに余計な心配をさせてしまいましたね。ごめんなさい。家で主人とあまりうまくいっていないんです。こんなことをマサトさんに話すのは間違っているのかもしれませんが……マサトさんになら、何でも話せるような気がして。ごめんなさい。家庭の話を持ち込んでしまって。忘れてください』
『エリコさんへ
いえ。大丈夫です。話をすることでエリコさんの気持ちが晴れるなら、何でも言ってくださいね。僕はいつだってエリコさんの味方ですから。辛い時は何でも言ってください。大した事は出来ませんが、精一杯エリコさんの事、励ましますから』
エリコはマサトからの返事を、リビングで涙を流しながら何度も何度も読み返していた。旦那とは今、あまりうまくいっていない。普段の会話はあまりないのだが、相変わらず強姦のようなセックスだけは止む事がなかった。最近は外で性欲を満たすだけでは留まらず、以前のようにエリコを求める事が多くなった。夫の異常な性欲に、エリコは心も身体も疲れ果てていた。そんな中でのマサトの思いやりのある温かい言葉は、エリコにとって何よりの励みだった。エリコが返事を書こうとすると、二階から旦那が降りてくる足音が聞こえた。エリコはノートを雑誌の下に隠した。
「なんだ、まだ起きてたのか? 綾香が泣いてて、うるさくて眠れないんだ。何とかしてくれよ」
キッチンで牛乳をコップに入れ、それを飲み干した旦那が、不機嫌な声で言った。
「分かりました。ごめんなさい。気がつかないで……」
エリコはそう言うと、二階の綾香の部屋へと向かった。
それから数日、いつもと変わらない日々が続いた。マサトとの交換ノートでいつも心が温かくなった。エリコにとって、この交換ノートが今一番の心の支えなのだ。
エリコはその日も秘密の場所からノートを取り出し、そして仕事が終わる頃、それを楽しみに開いた。
『エリコさんへ
申し訳ありませんが、もうこの交換ノートは終わりにしましょう……。すいません。勝手を言って申し訳ありません』
思ってもいなかった突然のマサトの申し出に、エリコはその場に膝から崩れ落ちたのだった。 |