第31話 対面
ついに一緒に働ける時が来たのだ。マサトもエリコもお互い朝から落着かない。
マサトは結局、昨日の晩から一睡もしていない。そんな状態で朝食の席に着いた。
エリコに会った時に、なんて声を掛けようか。仕事なんだから「お疲れ様です」と軽く声を掛ければよいのかもしれないが、それで仲良くなる事はできるのか? かといって仕事の話ばかりをしていても、エリコに『仕事人間』と思われてしまい、印象を悪くしてしまうのではないのか? でも、これといって話題はないし、話題を膨らませる話術もない。いったい何を話せばいいんだ?
マサトは昨日の夜中から、布団の中で色々とシュミレーションを重ねていた。シュミレーションにも関わらず、頭の中のマサトはエリコを前にするとしどろもどろになり、結局エリコを呆れさせる。そんなマイナスイメージしか頭に浮かばなかった。マサトは深いため息を吐きながら朝食を口へと運んだ。
嬉しいはずなのに、楽しみなはずなのに、ご飯が喉を通らない。ご飯に味噌汁をかけ、無理やり口へと掻き込み、朝食を終えた。マサトは自分の部屋の畳の上に寝転がり、天井を見上げながら、これからどうするかを考えていた。
エリコは旦那を送り出し、綾香に朝食を食べさせていた。綾香の好きなダシ巻き玉子を作ろうとしたのだが、考え事をしながら作ったため、出来上がってみるとダシの味の利いたオムレツが出来上がっていた。それでも綾香は「おいしいよ」といってそれを食べていた。
「ねえ、ママどうしたの? 何だか元気がないみたい」綾香がスプーンでオムレツをすくいながらエリコに尋ねた。
「ううん……なんでもないの。ただちょっと今日はお仕事が大変だから、今から緊張しているだけよ」
「ふーん。そうなの。こんな時マサトお兄ちゃんがそばにいたら、ママも元気になるのにね」綾香が満面の笑みを浮かべながらそう言った。
マサトがそばにいたら……娘のその言葉を心の中で反芻する。マサトがそばにいたら自分の生活はどうなるのだろう。そんな事、今まで考えてもみなかった。
最初はマサトにもう一度会って、話がしてみたいなと思っていた程度だった。しかし今は、マサトの事を考えると胸がドキドキする。マサトに彼女がいるのではないかと思うと胸が締め付けられる。ただ話をしてみたいと思っていた青年が、自分の心の中でとても大きな存在になっている事は、エリコ自身も気がついている。今日マサトと一緒に仕事をすることで、何かが変わるのだろうか? いや、変わって欲しいという願望が、エリコの心にはあった。もっとマサトの事を知りたい、もっとマサトに近づきたい。そんな気持ちがあるからこそ、こんなに胸がドキドキするのだと、エリコは自分で分かっていた。人を好きになるという純粋な気持ちに、今は正直になろう。エリコはそう決心し、朝の準備を進めていた。昼からの仕事の事を考え、落着かないまま午前中は過ぎていった。
13:30分
マサトは大きく深呼吸をした後、玄関の扉を開けた。ガレージの隅に置いてある自転車にまたがった。今日は自転車で行く事にした。身体を動かしている方が、気分が落着くからである。両手で自分の頬を張ったあと、気合を入れて自転車のペダルを漕ぎ始めようとしたが、勢い余って足が外れ、股間を強打した。
13:40分
いつもより五分早く、エリコは家を出た。家でじっと待っているよりは、早く店に着いてしまいたい。じっと待っている間のこの緊張感は言葉で言い表す事が難しいほど、嫌な時間帯である。エリコは「なる様になる」と自分に言い聞かせ、自転車を漕ぎ始めた。
13:45分
マサトは店と家との中間辺りで、一旦自転車を止めた。何かを飲んで、気分を落着かせようとしたのだ。小銭をポケットから取り出し、挿入口へと入れた。赤いランプが点灯する。マサトはコーラのボタンを押した。ガラガラと音を立てながらコーラが取り出し口へと落ちた。それを手に取る瞬間手がすべり、地面へと落ちた。慌ててそれを拾い栓を開けると、コーラが溢れ出し、今日のためにおろした新品のスニーカーの上にこぼれた。
13:50分
店近くにある喫茶店の前でエリコは自転車を止めた。この店のウィンドウは中が見えないように銀色のフィルムが貼られており、(この喫茶店のマスターが人間観察が趣味で、立ち止まって自分の姿を確認する人を見て楽しんでいるのだ)エリコは窓に映る自分の姿を見ながら髪型が崩れていないか、服装が変ではないかをチェックしていた。
13:54分
マサトは店の裏手にある、スタッフ用の自転車置き場に自転車を止めた。自転車を下り、天を仰ぎ見ながら、一つ大きな深呼吸をし、店内へと入った。
「あ、マサト君。悪いね今日は無理言ってしまって」店長がマサトに気づき声を掛けた。
「あ、いえいえ。大丈夫ですよ。今着替えてきますね」マサトはそう言うと、スタッフルームへと消えていった。
13:56分
エリコは店の裏手にある、スタッフ用の自転車置き場に自転車を止めた。自転車を下り、
俯き加減で、一つ大きな深呼吸をし、店内へと入った。
「あ、藤本さん、おはようございます。今日はすいません、色々とご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」店長がエリコに気づき声を掛けた。
「あ、いーえ、大丈夫ですよ。今着替えてきますので」エリコはそう言うと、スタッフルームの扉を開けようとした。
その時……
「きゃあ!」
エリコがドアノブに手を掛けようとした瞬間に扉が開き、中から出てきたマサトとぶつかり、思わず声を上げてしまった。
「あっ、ごめんなさい! 人がいるとは気がつきませんでした!!」マサトが俯きながら言った。
「あ、いえいえ、私こそごめんなさい」エリコも俯きながらそう答えた。
エリコとマサトがほぼ同時に顔を上げた。そしてお互いの目が合った。
「あっ!」「あっ!!」
二人はお互い同じ言葉を同時に呟いた。二人は口を開けたままで見つめ合っていた。お互い次の言葉が出なかった。そんな二人に助け舟を出してくれたのは店長だった。
「あ、藤本さん。彼が今日、藤本さんと一緒に働いてくれる松川マサト君です」
店長はマサトの方へ手を向け、エリコにマサトを紹介した。
「あ、マサト君、こちら、いつもマサト君の前のシフトに入っている藤本さん。今日は色々と助けてあげてね」店長はエリコの方へと手を向けながら、マサトにエリコを紹介した。
「あ、松川です、よろしくお願いします」
「ふ、藤本です……今日はよろしくお願いします」
お互い顔を赤らめながら、言葉を交わした。
「二人は初めてではないんだよね? この間スタッフノートを見ていたら、なんだかそんな事が書かれていたから、正直驚いているんだ」店長が二人を交互に見ながら言った。
「あ、はい……実は以前お会いした事がありまして……」マサトがはにかみながら言った。
「そうなんです……娘を助けて頂いた事があって」エリコがにこやかに笑いながら言った。
「そうなんですか? じゃあ、初対面ではないから大丈夫ですね。今日は二人とも、協力して頑張ってください。私はもうすぐ出掛けますので」
店長はそう言うと、返却する商品を持って店の奥へと向かった。
「あ、あの……今日はよろしくお願いします。マサトさん……」エリコがニコッと笑いながら言った。
「い、いえ、こちらこそ、よろしくお願いします」エリコが下の名前で呼んだ事にドキッとしたマサトは、言葉を詰まらせながらそう答えた。
「じゃあ、私、準備してきますので」
「あ、はい。お願いします」
そう言うとエリコはスタッフルームへと消えた。とうとう二人で仕事が出来るのだ。マサトはカウンターの陰で小さくガッツポーズをした。 |