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届かぬ想い
作:真田遼



第30話 知らせ


 仕事の帰りに娘の綾香を迎えに行く途中も、エリコは自然と笑みがこぼれていた。もう二度と会えないと思っていたマサトと、まだ細いながらも一本の糸で確実に繋がったのだ。もちろん旦那には何も知られることなく。旦那はマサトの事は何一つ知らず、エリコがマサトに惹かれているという事にも全く気がついていない。エリコの中ではその事が、旦那に対して唯一できるささやかな抵抗だった。
 エリコは自分の気持ちに気がついていた。自分はマサトに惹かれているという事、そして、旦那の事をもう愛してはいないという事を。気持ちではそうではなと思い込ませようとはしているが、身体が旦那を拒絶する。
 息苦しい、胸がムカムカする。一緒にいる時間が苦痛に感じる。身体は自然とそんな反応を示すのだ。
 それに対してマサトの事を考えると、胸がドキドキする。心臓を締め付けれれるような思いをするが、嫌な感覚では全く無い。むしろ、学生時代に好きな先輩と目が合ったときのような、そんな淡い恋心にも似た気持ちなのだ。
 この感情は既婚者である自分が持ってはいけないと、今まで自分に言い聞かせてきたが、マサトが近くにいると知った今、抑え付けていた感情を自分の胸の中へしまっておくことは、もはや出来なくなった。
 エリコはマサトとの繋がりを感じた事により「好き」という感情を自ら認めたのだ。
 と同時に、その想いを認めた途端、エリコは急に不安に襲われたのも事実である。
 この想いは、自分が勝手にそう思っているだけである。自分の片思いである。
 
 マサトにはちゃんとした彼女がいるのではないか?
 あんなに優しくて、素敵な笑顔の青年であるマサトに彼女がいない筈はない。
 いくら自分がマサトに恋心を抱いていても、所詮届かぬ想いなのではないか。
 自分の中で勝手に盛り上がっているだけではないのか?
 旦那の事が嫌になり、その寂しい気持ちをマサトで埋めようとしているのではないか?

 徐々に考え方がマイナスになってゆき、最後には自分の気持ちにさえ、疑問を持ち始めていた。
 ここは冷静になってよく考えよう。私は仮にも人の妻である。人妻が未来ある青年に恋心を抱くことはいけないことだ。よく考えよう、と、エリコは自分に言い聞かせるように心の中でそう呟いた。幼稚園へ着くころには、店を出たときの笑顔とは裏腹に、暗い表情を浮かべるエリコだった。

「ママ、どうしたの? お仕事で怒られちゃったの?」

 エリコの暗い顔を見た綾香が心配そうにエリコの顔を覗きこむように見上げた。
「ううん。大丈夫よ。ただちょっと疲れちゃっただけ……」
「ふーん……パパのせい?」
 綾香の思いがけない一言に、エリコはドキッとした。綾香の口からそんな言葉が出てくるとは夢にも思っていなかったからだ。

「どうしてそう思うの?」
「だって、パパとママ、なんだがあまり仲良しじゃないような気がするの……パパと一緒にいるママを見てると、なんだか苦しそう」
 娘にはどうやら自分の気持ちを見透かされているようだ。素直な子供の心の目で見ると、大人の嘘偽りや隠し事、その他諸々の大人の事情はお見通しなのだろう。エリコは綾香のそんな思いに、正直に答えた。
「パパとママ、そんなに仲が悪そうに見える?」
「……うん。なんだか、ママが苦しそうに見えるの。でもこの間はちょっと違ってた」
「この間って?」
「お買い物に行ったときに、マサトお兄ちゃんと会った時。あの時のまま、すごくニコニコしてたよ。綾香、ママのあの笑った顔大好き!」
 子供というものは、本当に人の心が読めるのではないかと思うほど、ドキッとするような言葉をたまに口にする。綾香の言葉は、エリコの心に深く突き刺さり、改めて、自分と旦那との関係が冷め切ってしまっているのだなという事を、綾香の言葉で思い知らせれた気がした。
 家に帰り夕飯の支度をしていると、エリコの携帯宛にメールが届いた。

『今日は会議で遅くなるから夕飯はいらない』

 その言葉に、エリコの心は軽くなった。旦那が帰ってくる前に、全ての用事を済ませ、綾香を寝かせる事を口実にして、綾香の隣で朝まで寝てしまおう。エリコはそんな事を思いながら、急いで家事を済ませた。
 目的があれば、こんなにも早く動けるものなのかと、自分自身に感心しながら、綾香の横で添い寝する。頭を優しく撫でてやると、綾香はすぐに眠りに着いた。
 綾香のベッドから少し離れた場所にあるランプの光を少し緩めた。あまり暗くしてしまうと、綾香が夜中に目が覚めたときに、怖がって泣いてしまうのだ。エリコはオレンジ色の優しい光を見ながら、マサトの事を考えた。
 マサトの顔を思い浮かべると胸が熱くなり、マサトの声を思い出すと鼓動が早くなった。
 マサトの事を思えば思うほど、胸が苦しくなる。
 
 好きな人はいるのだろうか?
 もし彼女がいたら、マサトへの気持ちを諦めることができるのだろうか?

 その事が頭の中を駆け巡り、考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
 しばらくそんな事を考えていると、玄関の鍵が開く音がした。時計を見ると、すでに0時を過ぎていた。エリコは無理やり目を閉じ、綾香が寝ている布団の中へと潜り込んだ。どうか旦那に声を掛けられませんように。そんな言葉をずっと繰り返しているうちに、エリコはいつの間にか眠りに就いていた。

 翌日、エリコは寝過ごしてしまった。目覚まし時計をセットする前に、眠りに就いてしまったのだ。急いで布団から出て一階へ駆け下りると、旦那はすでに仕事に出かけたあとだった。テーブルの上には、朝食を食べた形跡が残されていた。エリコは「しまった」と思いながらも、半分はホッとした気持ちになっていた。旦那と言葉を交わす事無く、一日のスタートが切れるのだから。エリコは何だか今日は良い事が起こりそうな、そんな気がしていた。
 昼からのパートも順調に進み、あと少しで終わりという時に、エリコは店長に呼ばれた。

「藤本さん、ちょっとお話がありまして」
「なんでしょうか?」
「実はですね、今度の水曜日、大山さんが仕事に出れなくなったんです。それだけなら問題ないのですが、私も用事で少しの間、店を離れなければならなくなってしまって……」
「えっ、じゃあ、私一人って事ですか?」
「いえいえ、まだ新人の藤本さんを一人残してはいけないので、藤本さんのあとのシフトに入っている松川君に入ってもらう事になりました。松川君は気の良い子なので、きっと助けてくれると思いますよ。あの、藤本さん……聞いてますか?」

 思いがけずマサトと同じ時間帯に仕事をする事を知らされたエリコの耳には、その後の店長の話など、届いてはいなかった。







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