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三十三式三屯牽引車[ミケ]

作者:オシドリ
山口多門先生の「架空戦記創作大会2015秋」参加作品です。
楽しんでいただけたら幸いです。
 日露戦争。
 1904年2月から1905年9月までの18ヶ月間、主に日本周辺から満州地方・ロシア極東部で行われた戦争である。
 この戦争では世界中の予想を裏切り、日本の連戦連勝で終わることとなった。
 海では「日本海海戦」という、日本側のほぼ完全勝利という華々しい活躍をみせ、得られた戦訓は各国の海軍に衝撃を与えることになった。

 では、陸ではどうか?
 陸は海と違って華々しい戦いはなく、ひたすら地味で、血みどろで陰惨な戦いが続いていた。
 そんな戦争が終わるまで日本陸軍を裏方から支え、各作戦の勝利に貢献する活躍をみせた車両があった。

 これは、日露戦争にて陸軍を支えた「三十三式三屯牽引車[ミケ]」の話である。


   *


 戊辰戦争の戦場が東北に移っており、江戸が東京と改称された頃。

 現代では千葉県の大和田原と呼ばれる地域の、ある小さな農村にて鉄工所を営む男が居た。
 名前を深井隆文という。元自動車整備士だった。
 そう。何故かは分からないが、深井はある日突然、現代から幕末にタイムスリップ――この時代なら神隠しか――してしまったのだ。
 当然ながら深井は混乱して、何か大声で叫びながら辺りを走り回って、遂には行き倒れてしまった。そんな深井を助けたのは、行き倒れた場所から程近い村に住む農民だった。
 深井はその農民とその家族の手によって介抱され、どうにか生き長らえることが出来た。ある程度、回復したところで深井が「神隠しにあった」と告げると、農村の人々は驚き、暫くここに住むといいと言ってくれた。その村は戊辰戦争の影響が少なく、平和そのものであったためか、大人一人増えても問題無いとのことだった。

 こうして深井は農村に住むようになり、そして何時までも助けてくれた農家の世話になる訳にもいかないので、手に職をつけることにした。
 幸いにも、深井には現代の知識と技術があった。仕事帰りだったため、僅かな道具や資料も手元に残っていた。そこでまず簡単な道具類を作って売ることで資金を稼ぎ、農村の人々の協力もあり、現代の知識と技術を生かすために「深井鉄工所」を開業したのだ。

「工具はあるからこれを複製して……。鉄製になるが仕方ないか……。あとは道具類に水道管とリヤカーを作れば資金も会社もでかく出来るな。そうすれば、あれを……」

 深井は空き家を改造しただけの店でブツブツ言いながら、机に向かっていた。ノートに史実の出来事を書き起こしていきながら今後の予定を立てていた。
 ある程度なら、深井も史実を知っている。だが、歴史を大幅に動かすような知識も無く、大それたことは出来ない。だから、自分が出来る範囲で精一杯やることにしたのだ。

「とりあえず、農作業の効率化だな。ここまで自給率が低いとなあ……。これが普及するようになれば、多少はマシな歴史になるかもしれない」

 深井はシャーペンを置き、ノートのページを捲っていく。そしてあるページで手を止めた。
 そこに描かれていたのは、ある農業機械の設計図だった。


   *


 明治33(1900)年 千葉 国府台

 ここ国府台は元々、大学を建設する予定だったのだが、東京から遠いために取りやめになり、そのまま空き地になっていた。
 そこに目を付けたのが当時の陸軍省で、明治18年(1885年)に陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を移し、病院を併設したのである。これを皮切りに歩兵大隊、砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部の順で移って来た。その後、教導団が廃止、解散されると次々と野砲兵連隊が配属されるようになり、習志野が「騎兵の町」と呼ばれたように、国府台は「砲兵の町」と呼ばれるようになった。

「良い天気だ」

 上原(うえはら)勇作(ゆうさく)陸軍少将は空を見上げてそう言った。雲1つ無い快晴だ。
 この日、上原は国府台にある陸軍基地、その練兵所に来ていた。

「閣下、お久しぶりでございます」

 上原の到着を出迎えた深井は深くお辞儀をした。
 それを見た上原は苦笑いした。

「よしてくれ、お前さんにそう言われると鳥肌が立つ。いつもどおりに喋ってくれ」
「そうか?上原さんはこの喋りが気に入らないか。他の軍人さんには好評だったんだがなァ」

 深井がいつもの口調に戻すと、上原の副官らがギョッとした表情を浮かべた。

「……やっぱり余所行きの口調の方がよかったんじゃ?」副官らの顔を見た深井が言う。
「俺が良いと言ってるんだ。それに今更だろう。二人で酒飲んで、酔っ払って取っ組み合いの喧嘩してるんだ」
「それもそうですね」

 彼らは暫く見詰め合ったあと、どちらともなく笑い出した。

 まるで長年の親友のような二人だが、このような関係が始まったのは日清戦争後からである。

 深井鉄工所は国内だと中ぐらいの会社であるが、今現在、特に政府や軍からは有名な企業であった。

 深井鉄工所は使いやすい農具や工具を販売し、そして従来の荷車より圧倒的に軽く、積載量が多く、修理しやすい運搬車(リヤカー)と国産初となる鋳鉄製の水道管を開発していた。
 これらは安価で販売していたため、国は水道管を海外に高い金を支払い輸入する必要が無くなり、また運搬車は日常だけでなく、日清戦争の際に使用され、物資だけでなく歩兵砲の輸送にまで使用されたのだ。
 他にも円匙(シャベル)、一輪車、深井防壁(史実のヘスコ防壁。金網と麻布で出来た大型土嚢)といった工兵には欠かせない道具から内燃機関や製鉄など多数の特許や新技術を取得しており、それらは国内の企業に格安で公開され、国力の増強に一役買っていた。

 上原自身、日清戦争で第一軍の参謀として赴いたとき、深井鉄工所、また技術支援を受けた企業で生産された製品を実際に使用しており、ねじ一つ一つにまで統一された規格と高い品質、そして頑丈さに感銘を受けていた。

 深井鉄工所の作る道具類は、工兵には絶対必要だ。これこそ近代戦に必要な物である。

 そう考えた上原は日清戦争後、深井鉄工所に赴き、戦時中に気付いた改善点や要望を伝えた。すると直ぐに修正し、自分が望んだ物を提供してくれるのだ。更に深井は工兵分野にも明るく――現代人の知識と、拙いながらも史実の出来事を覚えていたので――、年齢も近い二人は直ぐに打ち解け、気の置けない友人となっていた。

 それから上原の要望もあって、軍から定期的に受注が来るようになった深井鉄工所は更に事業を拡大し、工作機械、農業機械、発動機なども手掛けており、今最も勢いのある企業となっていた。

 そんな深井が「画期的な、全く新しい運搬車を作った」と聞いて、今までもアッと驚かすような発明や技術を公表していたこともあり、上原自らが視察に来たのだ。

「すみません、急なうえに軍の基地を借りる真似までして」

 道すがら、深井は上原に謝る。

「構わんよ。それよりどんな物なんだ?新しい運搬車としか聞いていないんだが……」
「まっ、直ぐ分かります」

 そうしているうちに、練兵所へ辿り着く。
 これがそうです、と深井が指差した先には、1輌のトラクターが待機していた。

「おお、これがそうかね?」どこか楽しげな表情で上原が言う。
「はい。これが今回用意した新型車両、[三屯牽引車]でございます!」

 外見は1921~1960年に生産され、高い人気を誇った[ランツブルドック装軌型]に良く似ていた。
 そして、その性能もこの時代では破格のものである。
 前方に機関室を持ち、そこには深井が開発した2ストローク型焼玉エンジンを搭載し、後方に運転席を持つ全装軌(フルクローラ)式の牽引車である。定員は2名で、速度は最大9km/h。牽引力は3屯。
 そして何より、本車最大の特徴は堅牢さである。
 元々、深井は本車を農業用として開発を進めており、水田でも使用できるよう徹底的に堅牢、修理しやすさを求めて設計されていた。焼玉エンジンはセミ・ディーゼルとも呼ばれ、簡素な構造なので製造が容易で燃料も灯油や軽油、更に低質重油でも動くことが可能。そして装軌式のため不整地・泥濘地でも性能を発揮するという、非常に使い勝手が良い車両に仕上がっていた。

 ただまあ、構造を簡素にし、流れ作業で出来る限りコストを抑えているとはいえ農家には手が届きにくい値段となってしまった。また現状では農業に使おうにもどういう機械なのか、どう使うのかが農家の人々は分からないうえ、修理出来る工場が殆どない。
 深井を助けてくれた農村では開発途中で手伝ってもらい、修理できる人も育っていたので活躍出来ていたが、普通は高額で、どう使うか分からない物を買う人はいない。

 では普及させるにはどうするか?

 答えは簡単。
 高額なトラクターを大量に購入し、運用。そして農家に宣伝してくれるところに販売すればいいのだ。

 それが日本帝国陸軍だった、という訳である。

 この時、日本では軍馬、特に輓馬が不足していた。
 輓馬に使用されるのは重種馬と呼ばれる、体重1屯にもなる欧州産の大型馬である。この馬は中世欧州では全身鎧(フルプレート)の騎士の乗馬に使用され、全身鎧が廃れた後も重砲を牽引する馬として重用された歴史がある。
 対する日本では長く続いた太平の世で在来種は山岳、飼料と農耕に使用するために馬格が小さくなり、重砲や物資を輸送するには不向きであった。
 そのため海外から軍馬を輸入し、在来種と掛け合わせて繁殖させるなどの努力を行っていたが、まだまだ育成と改良に時間が足らないのだ。
 そのため、日清戦争時には輜重兵が運搬車で輸送する他に兵が担ぐ、現地の人夫を雇うなどして物資を輸送していたが、兵は疲労し、人夫の中には物資を運搬車ごと略奪されるなどの被害が出ていた。
 史実でも日本は多数の輓馬不足を補うために砲兵トラクターの開発を進めていたが、基礎工業力の低さから配備数は余り多くなかった。

 そして、陸軍の兵の殆どは農民である。実際にトラクターの活躍を見て、退役した後に購入してくれれば良い。その頃には技術が発達して、軍の受注と大量生産によって価格が更に抑えられるので、十分な利益が望めるはず、深井はそう考えたのだ。

「……元々、水田で使用するため走破性は良く、頑丈。牽引車として輓馬の代わりに野砲、物資の輸送をしても良し。また後部に専用の鋤をつければ地面を掘り起こし、前部に排土板を付ければ工兵の助けになります」
「ふうむ、牽引だけでなく工兵の助けになる、か」

 渡された仕様書を見ていた上原は思わず唸った。
 これが本当なら、かなり、いや確実に戦争が変わる。陸軍は慢性的な輓馬不足から解放されることになる。それに輓馬と違って他の作業も出来るのは大きい。戦場までは野砲と物資の輸送に使用し、現地につけば陣地作成に使用する。これは兵の体力温存にもなる。

「ともかく、実際にどうなのか、見てから判断しよう」
「わかりました」

 始めてくれ、と深井が大声を出すとトラクターに乗っていた深井鉄工所の従業員が手際良く作業を始める。
 まず、シリンダーヘッド部の焼玉を外部からバーナーで加熱して高温になったら、排気コックを開放してデコンプする。はずみ車を回転し続けると前部の排気コックから白い煙が立ち上る。勢いがついた所で、排気コックを閉めつつ燃料噴射を開始させる。
 そして、ポンポンポン、と軽いエンジン音を響かせ始めた。

「エンジン始動しました!」
「おーし、指定の道を走ってくれ!」

 運転席へと乗り込み、トラクターは走り始めた。その後ろには、野砲と弾薬車に見立てた2つの車輪付きの錘を牽引していた。

「牽引している錘はひとつ当たりおよそ1屯、計2屯になります。この状態ですと時速5kmで走ることが可能です」

 大体、人が歩く速度と同じぐらいである。トラクターは直線を、そして右へ左へと蛇行しながら走り続ける。そして練兵所に作った坂道に入ると若干速度は落ちたが、先程より騒々しいエンジン音を響かせて坂道を登っていく。
 これを見た上原ら軍人達からどよめきの声が上がる。輓馬でも牽引しづらいだろう道をいとも簡単に登って見せたからだ。

「登坂能力は単車の場合3分の1、牽引時には6分の1の坂を登ることが出来ます」
「ううむ、これは、中々……」

 上原としては、これは欲しい。ただ実戦で使えるか、どうかは別である。

「これの欠点は?」上原が尋ねた。
「……そうですね。まず輓馬と違ってエンジンの始動に4、5分かかるため、瞬発的な速さはありません。次に、操作に癖があって慣れるまで時間がかかること。整備士が少ないこと。あとは燃料です」
「操縦の癖と整備士は訓練次第でどうにかなるが、燃料か」上原が呟く。
「はい。積んでいる焼玉エンジンは低質重油でも動かすことは可能ですが、金属の劣化も早まるので機関の寿命が短くなってしまいます。ですので軽油か灯油が良いのですが、この国では石油自体の生産量が少ないのです」

 近代化して間もないこの国は石炭の使用が使われるようになったばかりで、国内の産出量の少ない石油は備蓄が殆ど無い。
 それにこのトラクター自体、およそ20年先に開発されるのを深井の技術と知識で下駄を履かせて生産したものだ。どうしてもエンジンの馬力の低さ、燃費の悪さを改善するには技術が育っていなかった。ガソリンエンジンやディーゼルエンジンにするという案もあったが、ガソリンは手に入りづらく、機関の技術的難易度が高く、余裕がないとして手を付けていなかった。

 そうしている間に、トラクターは走行試験を終えて最初の地点に停車する。
 上原は副官らと共に停車したトラクターへと近寄り、じっくりと機関や履帯を眺める。そして実際に操縦席に座り、深井から操作方法を聞きながら動かしてみた。 
 その後、錘を外して取り付けた鋤で地面を掘り返し、排土板で穴を埋めなおす作業を行い、本日の試験は終了となった。

「うむ、良いだろう」満足した顔で上原が言う。
「気に入った!深井、とりあえず軍でも各地で試験を行う。何輌か納入してくれ!」

 上原の独断であったが、彼は何が何でも上を説得するつもりであった。
 確かに、燃料や整備士の問題はある。だが、今から少数でも導入し、技術を進歩させていけば他国より優位に立てる。それに輓馬の生産には時間がかかる。列強と同等の輓馬を揃える頃には、牽引車は輓馬よりも速く、使いやすくなっているはずだ。そう上原は考えていた。

 こうして、上原の熱意と努力もあって陸軍上層部にも許可をもぎ取り、納品されたトラクターは各地に輸送され、そこで様々な試験が行われた。
 結果は良好。試験中の故障は1輌も無く、実用に適するという評価が下され、トラクターは[三十三式三屯牽引車 ミケ]として導入されることになった。
 燃料は足りない分は輸入、また国内生産の梃入れが図られるようになった。そして[ミケ]の教官、および整備士については、深井鉄工所側から人員の派遣と図を多用し、分かりやすく纏められた教本、更に整備練習用として数輌が陸軍に納入されたことでこれらは改善されることとなった。

 そして、4年後。

 1904年(明治37年)2月8日、日露戦争が勃発。

 陸軍は第一軍(黒木(くろき)為楨(ためもと)大将)、第二軍((おく)保鞏(やすたか)大将)、第三軍(乃木(のぎ)希典(まれすけ)大将)、第四軍(野津(のづ)道貫(みちつら))を編制し、中国・朝鮮へ派遣する。
 この時には[ミケ]は小さな改修を重ね、故障も少ないことから「輓馬よりも扱いやすい」として大量運用されている状態であり、陸軍の保有する[ミケ]は全てが戦場へと送られることになった。

 そして中国大陸・朝鮮半島にて、その能力を遺憾なく発揮したのだ。

 当時の大陸は荒地が多く、また慣れない気候のために輓馬や兵の多くが体調を崩してしまったのだ。
 だが、機械である[ミケ]は変わらず絶好調だった。
 燃料と整備を欠かさなければ荒地だろうが湿地だろうが構わず走り続け、また[ミケ]に運搬車を繋ぎ、疲弊した兵を乗せて移動するようにしたのだ。当時、日本陸軍の使用していた野砲は比較的軽量な三十一年式速射砲で、弾薬車と合わせても[ミケ]には数名の兵を乗せるだけの余裕があったのだ。
 これにより、史実よりも兵の消耗が少なく、安定した速さで進撃を進めていったのだ。

 特に[ミケ]が活躍したのは、「鴨緑江(おうりょくこう)会戦」、「摩天嶺(まてんれい)の戦い」、「沙河(さか)会戦」の三つである。

 1904(明治37)年4月23日に起きた「鴨緑江会戦」では、第一軍の[ミケ]によって運ばれてきた資材で架橋の敷設を進め、また大量の火砲と気力十分な兵があった。対するザスーリチ中将率いるロシア東部方面軍は兵力25,000で待ち受けていたが、二日前に到着したばかりで兵は行軍で疲弊しており、また兵力を分散配置していた。その結果、動きの鈍いロシア陸軍は集中攻撃を受け、決戦を避け早期に退却。第一軍は史実よりも少ない損害で渡河を完了することができた。

 1904(明治37)年7月17日に起きた「摩天嶺の戦い」では、5月にロシア軍が放棄した摩天嶺に布陣していた日本陸軍第一軍第二師団に対し、ザスーリチ中将に変わり、ケルレル中将率いるロシア東部方面軍が攻撃を仕掛けてきたのだ。
 このとき、ロシア軍は日本軍の約2.5倍という大兵力で摩天嶺西方から砲撃を仕掛けたものの、第2師団は既に[ミケ]によって塹壕を掘り、出た土は「深井防壁」に使用し野砲を備えた強固な陣地を作成しており、頑強に抵抗したのだ。7月31日に第二師団は近衛師団と共に摩天嶺北方に構築されたロシア軍の防御陣地を攻撃し、ケルレル中将は戦死して撤退することになった。

 1904(明治37)年10月9日に起きた沙河会戦では、日本軍は「摩天嶺の戦い」を元に塹壕、深井防壁を作り効率的な防御を行い、攻めてきたロシア軍に対して大きな損害を与えた。
 その後、冬季に突入しため「沙河の対陣」と呼ばれる膠着状態に陥ったが、[ミケ]は雪だろうが関係無く走る。

 この頃になると[ミケ]はその走破性の高さから観戦武官たちに大きく注目されるようになり、また塹壕で膠着状態になった時も、戦場に軽い独特のエンジン音が響くと「ポンポン車が来たぞ!」と兵達は食料や防寒用の毛布、弾薬――そして娯楽品や酒も混じっていた――などを持ってくる[ミケ]を喜んだという。

 [ミケ]は旅順攻略に必要な工兵道具、塹壕掘り、本土から送られてくる物資、特に消耗の激しい弾薬の輸送し続け、兵站の維持に大きく貢献していたが、中には[ミケ]に鉄板を装着し、鉄条網を強行突破するという使用例もあった。

 そして、1905年9月5日。

 米国東部にある湾港都市「ポーツマス」にて米国の仲介の元、日本帝国とロシア帝国との間で講和条約が調印された。

 日本は史実よりも兵の損害が少なく、物資も前線に供給されていたが、近代化してほんの二十数年ほどの小国なのだ。工業力も資金も全く余裕が無く、これ以上の戦争継続は難しくなっていた。

 ロシア側も戦争続行は難しくなっていた。海軍は壊滅し、陸軍はまだまだ多くの将兵と武器弾薬が残っていたが、それはロシア西部に集中していた。極東に兵力を輸送しようにも日本軍の度重なる攻撃と妨害によってシベリア鉄道が破壊され、遅々として進まなかった。
 また相次ぐ敗戦による軍の弱体化、1月に起きた「血の日曜日事件」などによる国内情勢の混乱と列強の圧力――日本がこのまま連勝すれば中国利権が脅かされ、投資家達が購入した債券が焦げ付く可能性、また植民地支配が不安定化する怖れがあった――などもあって、日露講和を求める声が大きくなっていた。
 そして止めに現地のスパイから「日本軍がロシア極東軍を殲滅するべく、一大攻勢に出る」との情報がもたらされ、「ここで極東軍が殲滅されてしまえば全て失ってしまう」として慌てて講和を結ぶことになったのだ。

 ロシア全権、セルゲイ・Y・ウィッテは「たかだか小さな戦闘において敗れただけ」と強硬な姿勢を崩さないでいたが、日本全権の小村寿太郎も「ならば我が国はあなた方を屈服させるまで戦争を続けましょう。我が国はみな我慢強いですが、あなた方の国民はそこまで耐えられますか?」と悠然とした態度で切り返しという。
 これは小村のハッタリであったが、報告を聞いたロシア皇帝ニコラス2世が「ある程度の賠償金、領土の譲渡も仕方なし」と判断を下したため、僅かな償金、樺太全土の永久譲渡を含む条約内容に同意。

 これで、戦争は終結することになった。

 この戦いで整備性・走破性の高さと兵站を支え続けた[ミケ]は敵国だったロシア帝国を含む世界各国から注目され、戦時中の余剰生産分が輸出されるようになった。
 当然、日本陸軍も[ミケ]を元に性能向上版の開発を進めていき、後にガソリンエンジンやディーゼルエンジンを搭載したものまで登場するようになった。また日露戦争での塹壕戦の戦訓から「[ミケ]に装甲・野砲を取り付けて戦線を押し上げる」とした、日本戦車の原型にもなった。 

 [三十三式三屯牽引車 ミケ]は第一次世界大戦後に大軍縮となった際、老朽化と性能の低さが問題となり新型牽引車と入れ替わる形で退役。
 退役した[ミケ]は格安で元陸軍兵士たちに購入され、深井が全国各地に設計図を公開していたため部品が出回っており、燃料の入手しやすさから本来の目的であった農業用トラクターとして「ミケ」や「ポンポン車」と呼ばれながら再び活躍することになった。

 そして、100年経った現代。
 軍民どちらでも活躍した[ミケ]はその特徴的な姿もあって世界中の熱狂的なマニアたちの間で親しまれ、日本では時折地方のイベントに出てはポンポンポン、と独特のエンジン音を響かせている。
 砲兵トラクターとして書き始めたのに、何故かこういう話に。
 もう多目的作業車でよさそうな……。

 それはさておき。

 作中の「ミケ」の基になったた「ランツブルドック・トラクター」はクラシック・トラクターとして世界中のマニアに人気が有ります。
 動画や写真もたくさん有りますので、興味がある方は是非検索してみてください。

 私も昔一度だけ、このトラクターが始動して走るのを見たことがあります。ポンポンポン、と軽い独特な音を立てて走る姿は何故か懐かしく、そして格好良く見えました。
 機会があればもう一度、走る姿を見たいですね。

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