第一章 4
けれどそれも瞬きにも似たわずかな時間だった。天使は少女の姿に戻り、翼も跡形もなく消え失せる。いつか見た情景もふっと霞んでいく。
「…………?」
十数歩離れた先から、奇妙な視線を感じた。ぼやけた焦点を絞ってみてやっと事態を飲みこむ。僕はその天使と目が合っていたのだ。少女は明らかに訝しげな目を向けていた。恐らくは、今までじっと観ていた僕の存在に疑問を持ったのだ。けれどこちらもここから相手に向かって意思表示をする術が分からない。なんて言ったらいいのだろう。…別に悪いことをしていたわけじゃないのに、あんな風に見られたら、言い訳のひとつでも考えてしまう。
しばし無言の応戦が続き、歩み寄ったのは天使のほうだった。
「ねえー」
思わず後ずさってしまったのは、声が向こうから掛かってきたからだ。緑の芝生を裸足で駆け寄ってくる。ぎょっとした僕は反射的に辺りを見回した。間違いなく僕に向かってきている。どうする、と考えをめぐらせているうちに、彼女はすでに目の前にいた。
「なんで見てたの」
弾んだ声で、いつのまにか僕の正面に立っていた彼女は、ずずいっとのめり込んでくる。肩を出したラフな格好にも関わらず、胸の下で手を組んで、屈むように覗き込まれたのだから、僕は慌ててそこから視線を外した。
「あれ、どーしたの。お熱あるの」
彼女のドレスは少しゆったりとしている。これ以上屈まれたら、白い柔肌の先にあるものがさらに強調されて見えてしまう。それでもなお僕の額に手を伸ばそうと近付いた彼女に向かって、僕は思わず引き下がった。
からかわれている。前と同じ光景が頭に浮かんだ。やっぱりそうだ、この人は――。
声が上擦っている状態で、僕は遮った。
「その、見てたのは……別に悪気があったわけじゃなくて。この間も……からかわれてると思ったからっ……」
何のことかと少女は目をきょとんとさせる。
「はるかを『見てた』でしょ?」
「だからそれはあんたが屈むからっ……って、え」
急に肩の力が抜けた。不思議そうな顔がそこにある。それはこの間僕が大人びたと感じるものでもなく、たった今見入ってしまった神聖な表情でもなく、どちらかといえば無邪気で、疑うことを知らない子どものような――
「はるかね」
と、彼女は笑って桜を振り返った。
「天使なんだよ」
「………は…」
「おにいちゃんも『見えた』でしょ。はるか、つばさが片方なくなっちゃって飛べないの。だからはるかを連れだしてくれるひとを、ずっとずうっとさがしてた」
いきなり冗談めいた口を聞かれて、戸惑った。明らかに僕より四つ五つ上の人が、僕のことを「おにいちゃん」と呼んだからだ。彼女はさながら小さな女の子のように振舞った。
「だからうれしかった。気づいてくれたんだね。はるかの羽根に」
僕は、彼女に会うなんて夢にも思わなかったのだ。
「はぐらかすなよ」
そう、あの日。旅行にも行けず、校庭で一人悶々としていたとき。
彼女は僕のシュートを惜しいと残念がった。僕の指先を綺麗だと言った。僕の本心を見透かして、顔に付いた花びらを舐め取って、微笑んでいた。
その彼女がまた、目の前に居る――…
「どこか…具合悪いわけ。この間はすごく元気良さそうに見えたけど」
相手が今度は真面目に答えてくれるのを前提で、僕は相手の視線を外しつつ尋ねる。
「このあいだ?」しかし彼女は幼い声のトーンを変えないまま、鸚鵡返しをしてきた。
後に、僕はこのときを後悔することになる。彼女がどうして小さな子どものような振る舞いをしていたのか、気づいていれば良かったのだ。自分の居る場所を考えれば分かることだった。これから自分が彼女にかかわってしまうリスクに。彼女が自分とかかわってしまう危険性に。
「勝手にあんなことしてきたんだ、わかるだろ」
けれどあの感情を知ることもない。優しさを憶えずに生きることもない。
「あんなこと?」
たったひとつだけ、思うことがあるとするならば。
――僕たちがどこへ行けたかということ。
「そんなの……はるか、知らないよ」
きょとんとする彼女の、色白い首から下がっていたプレート。そこでふと見てしまった僕は絶句した。顔写真や番号や氏名やら主治医まで書かれたそのタグには、こう書かれていたからだ。
『樋口 春華/7号棟7320号室』
……七号棟、患者……!
何も言えない僕の前で、純真無垢に笑う彼女は、七歳の少女そのものだった。
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