第一章 『イノセント』 innocent 1
一、
筺崎と表札の掛かった僕の家は、簡素にして複雑だった。
父親と兄との三人暮らし。だがその実態はというと、仕事が忙しくてなかなか家に帰ってこないいわゆる仕事人間の父親と、生徒会やら勉強やらで忙しい高二の兄、病気で入退院を繰り返している母親、それから僕という構成だ。必然的に僕がやる家の仕事の量は山ほど多い。当然、クラスの奴らがやれ受験だ、卒業旅行だと騒いでいるのを見ると、自分の立場がどうにも呪いたくなる。ひがんでいるわけじゃない。そう言ったらやっぱり皮肉としか思われないだろうか。「大変だね」「苦労してるな」と声をかけられても、同情的な言い方にしか思えない自分も、すごく嫌になる。
学校を卒業して、やっと春休みを迎えたというもの、僕は毎日ぶらぶらしていた。父さんの言う通りに、病院へ行くことなんて絶対しなかった。
けれど、今日は違った。
「譲、今日は一緒に病院へ行かないか」
居ないはずの人間が、ご丁寧に部屋のドアを開けて起こしに来たのは、春休みを過ぎて三日目の朝の事だった。そのとき僕はいつもの嫌な夢に追われていて、病気かと思うほど汗をかいていた。目覚めてみたら全部真っ白で…父さんの姿が最初はぼんやりと揺れ、不確かなものに見えた。
口の中でもごもごと、鸚鵡返しに尋ねる。父さんは頷いた。
「そうだ。なに、今日は心配ない。ふたりだけだったらきっと母さんも分かってくれるさ」
…行きたくない。
寝返りを打って、父さんに背中を向けた。「母さん」という単語ほど、僕が遠ざけたいものはない。耳に胼胝が出来るほど繰り返し言われてきた、異星人の言葉だ。
「譲、母さんもな、本当はお前が来てくれて嬉しいんだよ」
…もういいよ。
「子供を愛するあまり、現実を拒否してしまったんだ。今のおまえなら理解できるだろう?」
…父さんは本当に、そう思って言ってる?
言い返してやりたかった。眼は醒めているし、会話だってできる。けれど黙ったまま、眠い振りをする。無用な言い分は避けたい。全部をぶちまけて自分を見失ってしまうほど、僕はばかじゃない。
父さん。あのひとが僕をどう呼んだのか、分かって言ってる?
はっきり云ったのだ。あのひとは僕を見て…穢らわしいと。
「譲?」
「ちょっと…熱っぽいんだ」
シーツを掴んで皺くちゃにする。頭に浮かんだことを振り払い、答えた。
「行って来ていいよ。僕はなにか食べて、勉強でも…してるからさ」
父さんの顔は見ない。タオルケットを頭まで被って、声も聞かないようにする。…投げやりだけれど、今のは僕なりに気を使った答えだった。本当なら、僕が見たこと、聞いてきたこと――母さんがなぜ僕を拒むのか、兄と態度があからさまに違うのは何故なのか…すべて叫んで、咎められたらと思う。そうすれば僕は、こんな気持ちから解放される。その微妙な疑問が確信に変わったときに、家族を嫌悪の対象にしてしまったのを後悔できる。
…けれどそれを実行せずにいるのは、僕と父さんと兄との関係を壊したくないからだ。僕さえなにも言わなければ、家族の定位置は歪まずに済むのだから。
「行って…くれないか」
父さんは引き下がらなかった。
「今日は病院側が、譲に手伝って貰いたいそうなんだ。…少しの時間で済むと言ってる」
……僕に?
……病院側が?
「どうして……っ」
予想外の父さんの言葉に、僕は思わずタオルケットを跳ね除けていた。ベッドで立て膝になったまま、はっと我に返る。不意に言葉が飛び出てしまったけれど、もうそれに気づいた時には、面食らった表情の父さんと僕の目がしっかり合っていた。意外な返答だと思ったのは、相手も同じだったらしい。
「その、どうして」
感情をどこに置いて良いのか分からず、僕はやむなくうなだれる。うなだれる振りで、相手の目をあからさまに避けたのだ。興味ない素振りをしてその場から逃れることもできたけれど、父さんに向けた第一声があんなものでは、抵抗するのも全て無駄なような気がした。
一連の動作を見逃さなかった父さんから、少し、寂しい視線がくるのを感じた。
「母さんは」
けれど構う余裕などなかった。
自分でも制御できない部分があるのだと、思い知らされたような気がしたから。
僕は母親無しでも生きていける、あんなのは母親じゃない――そう思っていたはずなのに、僕は今一瞬でも期待していた。病院側が僕を直々に呼んでいると言うことだけで、あのひとが呼んでいると勘違いした。
まだあの母親に愛情を貰える機会があると、信じているのか。
…そんなはず、あるわけがない。
僕は続けた。いつのまにか、またシーツの端を掴んでいるのに気づいたけれど。
「母さんは僕のこと嫌ってるじゃないか。病院側がわざわざ悪影響になりそうなものを入れるはずが…」
「本当に、謙は悪影響だと思うのか」
その遮った唐突な問いがいけなかった。僕の顔は、再び父さんとの直線上に引き戻される。
「今はどうあれ、譲も家族なんだ。…私は今だって信じてるよ」
皆がまた一緒に過ごせる日を、と繋げた父さんの真剣な顔つきは穏やかになっていた。
父さんがあれ以外に、僕にきっぱりと言うことがあっただろうか?
とても心に響く言葉だったから。僕は父さんの言葉を信用したんだ。信じたんだ。
あんな出来事が、起こるまでは。
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