第二章 9
「ちょっと――ねぇっ」
焦った声が聞こえる。軽く頬を叩かれて、うすぼんやりと目を開けた。光が瞳に差し込むのと同時に、全身が何かに沈み込んでいく感触に気づく。柔らかく、ぴったりとまとわりつく吸盤。それが汗で張り付いたソファの人工皮革だと気がついて、飛び退いた。
「気がついたみたいね」
忘れそうにない、気の強そうな女の声が聞こえて、僕は頭を摩りながら声の主を見上げた。その途端、反射的に顔をしかめてしまう。噴き出していた汗が、一瞬で吹き飛んだ。
「……あんた……っ」
ナースキャップを被らない年増の看護師。砂金 縁…なんでこんな奴がここに居るんだ。
「生意気な口叩く割には、自己管理が出来てないみたいじゃない」
砂金は腕組をしながら、なかば呆れた口調で言った。記憶がぷつりと途切れている。もしかして僕は倒れて、こいつに介抱されていたのか。時間の糸を辿ろうとしてみても、小森沢に連れて行かれて話し込んだところで終わっている。以前に清酒を間違って呑んだときのような、二日酔いのような眩暈がしてきた。まるで誰かの意志で、探り当てるのを阻害されているみたいだ。
僕がずっと押し黙っているので、砂金は渋々こんなことを切り出した。
「その、昨日は…出過ぎたわよ」
プライドがあるのか、僕と目を合わせようとはしなかった。とはいえ、僕も砂金と目を合わせて喋りあう気もない。じっとりと汗ばむ額に手を当てて、俯く。
「あなたのことを決めつけてたかも知れないわ。確かにあれは口を挟むことじゃなかったわね。反省してる」
やけに素直な態度に、昨日とのギャップもあって戸惑った。
「ただ、ここは特殊な環境なの。あの子も人との接触を選ばなければいけない。あなたも――此処に来る意味をもう一度理解したほうがいいわ」
昨日のシチュエーションを思い出してみる。病院で春華と偶然出会ったとき、砂金は僕を知っていたようだった。春華を一度その場から追い出し、僕は砂金から宣告される。あなたは何が出来るの、生半可な気持ちでここに来ているのだったら帰りなさい、と。
要は、僕に春華とは一切会うな、ということを言いたかったのだろうか。看護師同士の噂だかなんだか知らないが、当人同士の事情もあるのに、頭ごなしに否定されたことで、僕は挑発に乗ったのだった。人影が出来たことで砂金は逃げ出したが、噂で物を言ったことと、僕が春華に近づこうとしていたわけではなかったということに気がつき、反省したようだ。見かねた誰かが助言したとも言えないが、第三者に注意されたことにしろ、自身で顧みたことにしろ、砂金が子供に非を認めることが出来る人物だというのは、意外だった。
「それにあなたみたいな小生意気な子供見ると、どうも生理的嫌悪がするっていうか、長い目で見られなくなるっていうか」
「口出しせずにはいられないってことですか」
自嘲気味に言ったのだけれど、次第に可笑しくなった。ピクンと砂金の眉が釣りあがる。いい年をして、挑発にはすぐ乗るらしい。僕が言うのもなんだけれど、敵をよく作ってしまいそうなタイプだ。
「皮肉は対等に言えるみたいね」
「おかげさまで」
僕の不敵な笑みを見て、はあと溜め息をつく。
「そこまで医者に歯向かえるんだから上等だわ」
その言葉に唖然としたのは僕だ。思わず誰が医者なのかと聞き返していた。
「他に看護師でも居る」
再度砂金を見上げる。小森沢と同じ、白衣。今はボタンを外しているらしく、マントのように裾がたなびいている。白衣の下は私服。てっきり僕は、ナースキャップをしない師長か何かかと思っていたけれど、まさか。
「あんた……医者だったんだ」
今初めて知る大事実だった。雷が後ろで鳴ってもいいくらいの衝撃だ。
「ちょっと、この格好で医者だって思わないわけ。…あんまり若く見えるものだから新米看護師にでも見えたかしら」
「……」
「何で黙るのよ」
女医の自尊心を傷つけないため言い返せずにいると、僕が回復した様子で納得したのか、砂金は寄り掛かっていた壁から体を引き剥がした。昼下がりとはいえ、これから午後の診察にでも向かう途中だったのだろう。
「どういうわけか知らないけど」腕組みを外さないまま、砂金は僕に言った。
「あの子はあなたにご執心らしいわ。……深く聞かなかったけど、関わりがあるみたいじゃない。知り合いなら、言ってくれれば譲歩したわよ」
記憶が正しければ、譲歩以前の応対をしたのは、目の前に居るこの女医だったと思う。
「会って損益が出るかどうかは私が決める。認められたかったら行動しなさい」
相変わらず高圧的だったが、嫌味な言い方じゃなかった。損益、行動……所々の単語が引っ掛かる。砂金の真意が分からず、僕は小森沢の時と同様に聞き返した。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味よ。主治医が患者と話してもいいって言ってるの。不本意だけどね」
「…面会謝絶だって聞きましたけど」
「面会謝絶?」
しっかりした化粧の上に、やけに赤い唇が動く。
「あなた、今日部屋に行ってきたんじゃないの? 面会謝絶だったら部屋なんかに入れないわよ、そのくらい分かるでしょう」
「……っ」
面会謝絶だと? 発作だと?
やっぱり鎌掛けやがった、小森沢って奴は!
いきり立ったせいで、ぐらりと足元がふらついた。
「あ、ほら! 肩肘張ってばかりだからそうなるのよっ」
無茶苦茶な論理だったが、納得させられてしまったのも確かだった。小森沢と言い、この女医といい、大人と対峙するのは骨が折れる。加えて今日は樫野のこともあった。緊張の糸が切れてしまったみたいだ。ソファの上に崩れ去り、合成皮革の上に沈みこんだ。
「わたしはもう行くけど。誰も来ないから、もう少しそこで休んでたら」
口調に命令示唆はなかった。ふと傍らに、ペットボトルが置かれているのに目が行く。オレンジジュース、そういえば口の中が粘ついて気持ちが悪い。偏屈眼鏡の医者と話して、妙な夢を見たからだ。苦いお茶や甘すぎる炭酸より、甘酸っぱい飲み物であるのが有難かった。砂金が気を利かせて買ってくれたのだろうか。
今は疲れて飲む気がしないけれど、目が覚めたら飲もう。
僕は砂金に力なく頷くと、眼を瞑った。青白い蛍光灯の光が瞼に滲みる。一言口にしてみた。切り返る靴音がしたので、砂金にはどうせ聞こえないと思っていたのに。
「なにそれ、礼のつもり。気にしてないわ」
ぷっと吹き出す砂金の軽やかな声がしてきて、僕はまたまどろみの中に入っていった。
まだ知らなかった。
そのジュースが誰によって置かれたものなのか。
あの声は、誰が呼んだものなのか。
けれど、今はまだ。
僕は、柔らかいまどろみの中、ただ目を背けることしか出来ずにいる。
《第二章 了》 |